第20話(紗代) お金で、彼の心は買えますか?2

 偶然にも本郷さんは同じ時間の電車を使っていたようで、毎日行きと帰りに声を掛けてくれるようになった。

 守ってくれるように、彼の腕で作られた檻の中へ、そっと招かれる。

 触れ合うことはないのに、すごくドキドキする。

 近い距離で、彼が囁く。

 顔が上げられない。

 駄目だと頭は理解してるのに、心が、勝手に動く。

 何かで、恋というものは自分では制御できないなんて言っていたのを聞いた覚えがある。

 本当に、そのとおりだ。


「紗代さん」


 彼の声に呼ばれる自分の名前は、まるで兵器。私の心臓を壊そうとしている。


 帰りは、心配だからと改札まで送ってくれる。

 手を振る彼を見ると、悲しくなる。

 もっとずっと、一緒にいたい。


 もう私は大丈夫ですと伝えないといけないのに、彼に会えなくなるのが悲しくて、言えないまま一週間が過ぎようとしていた。


 想いはどんどん膨らんで、制御できない。

 本郷さんは、私以外の女性にも同じだけ優しくて、彼の手に触れられる権利は、私だけのものじゃない。

 お金で心が買えたなら、きっと私は、全てを彼に差し出す。でもそれは虚しいだけだとわかってる。


 好きになったら駄目なのに、手遅れなほどに私は、本郷大翔という男性を好きになってしまっていた。


 ふと気付く。


 彼がこんなに優しいのは、お金のためかもしれないと。

 だって、じゃないと理解ができない。腑に落ちた瞬間、とっても悲しくなった。

 お金で心を買いたいなんて思ったくせに、相手の目的がお金だと気付いて胸が痛むなんて、なんて私は自分勝手なんだろう。


 彼を想えば想うほど、苦しくて、つらくてたまらなかった。なのに――


「あの日一日で俺は、客だったあなたに恋をした」


 自分でも訳のわからない状態で、涙でぐちゃぐちゃになりながら聞いた、彼の言葉。

 脳みそが痺れて、うまく理解できない。


「俺の恋人になってください。――結婚前提で」


 彼は、何を言っているんだろう。


「好きだよ。紗代さん。大好き。毎日一日中、俺はあなたのことばかり考えてる」


 思考回路のショートとは、こういう状態をいうのかもしれない。

 家に帰り着いた私を出迎えた母が、ぎょっとした様子で、何かあったのかと聞いてくる。


「……本郷さんから、好きって言われた」

「あら! よかったじゃない!」


 喜んでくれる母を見て、私の目には再び、涙がせり上がる。


「どうしたの、紗代? 泣いちゃうほど、うれしかったの?」

「うれしい、けど、頭の中がぐちゃぐちゃなの」


 泣きながら私は、也実ちゃんへ電話をした。

 妹は昔から、私の相談相手。

 誰かに話を聞いてもらわないと、自分ではうまく思考できないほどに、先ほど与えられた情報が頭の中をぐるぐる回っている。


「お姉ちゃん? どうしたの?」

「こんな時間にごめんね」

「いいよ。奈緒実は夜泣きもなくて、すっごく楽だし。――お姉ちゃん、もしかして泣いてるの?」

「ごめんね。自分じゃもう、よくわかんなくて」

「どうしたの?」

「本郷さんが、私のこと、好きだって。結婚を前提に、お付き合いしましょうって」

「よかったじゃん! お姉ちゃんも、彼が好きなんだから」

「そうなんだけど……」

「何か、問題があるの?」

「明日でいいから、話を聞いてくれる? 私も一晩、自分の中で整理するから」

「わかった。徹も連れて、明日行く」

「ありがとう」

「……お姉ちゃん、大好きだよ。泣かないで」

「うん。私も也実ちゃん、大好き。多分この涙は、お酒のせい」

「それなら熱いシャワー浴びて、チロちゃん抱っこして、寝ちゃいな」

「うん。そうする」


 おやすみと告げて、電話を切った。


 次の日は、身重で動けないリンちゃん以外の家族がうちに集まった。

 リンちゃんのそばには、リンちゃんのお母さんがついてくれているのだと、徹が教えてくれた。

 也実ちゃんと直也くんの子どもたちは、両親が見ていてくれて、私の部屋には也実ちゃんと、直也くんと、徹が集まる。


「それで、紗代。泣いてたって聞いたけど、何があったんだ?」

「……実はね」


 私は三人に、始まりから全てを打ち明けた。


「レンタル彼氏ぃ?」


 もともと目付きが悪いのに、さらに怖い顔をして、徹が唸る。


「聞いた感じ、全部わざとじゃん。偶然は最初だけで、全部計算してるよ、そいつ!」


 昨日までは応援してくれていた也実ちゃんは、本郷さんをそいつ呼ばわり。


「うーん。でもなんか、悪い人ではないんじゃないかなと、俺は思うけど」

「どこがっ」


 也実ちゃんと徹が、声をそろえて直也くんに迫った。


「お義姉さんが、好きって感じてる人だから」


 直也くんは、全く説明になっていないことを告げる。なのになぜか、也実ちゃんと徹の怒りのパワーは削がれてしまったようだ。


 直也くんは、私たちが住んでいたアパートの向かい側のおうちの男の子で、也実ちゃんの同級生。私たちとの付き合いは、かなり長い。

 昔は、私のことは紗代姉ちゃんと呼んでくれていたのだけど、也実ちゃんと結婚してからはお義姉さんと呼ばれるようになった。

 理由はどうやら、也実ちゃんが嫉妬するかららしい。


「紗代の人を見る目が確かなんだってのは、俺だってわかってる」

「だけど、嫌いな相手にもお姉ちゃんは普通に接するじゃない」

「でもその場合は、お義姉さんは決して好きとは言わないだろう? 昔、近所で不審者が出たとき、逮捕のきっかけはお義姉さんだったじゃないか。也実に道を聞いた男の人が嫌な感じがしたって、うちの親に言って」


 そんなこともあったねと、なんだか懐かしい思いで私は、お気に入りのマグカップに口を付けて冷めたお茶をすすった。


「見た目が怪しい人でも、紗代が好きっていう人は、接してみたら確かにいい人だったりな」

「徹の昔の彼女でいたよね。お姉ちゃんが、あの子はなんか嫌って言った子。三股してた」

「うわ、思い出したくねー」

「リンちゃんはいい子よ。大好き」

「お義姉さん、俺は?」

「直也くんも大好きだよ。也実ちゃんへの長年の片思い、実って本当によかったよね」

「それは、お義姉さんと徹の協力があったからだよ」


 なんだかほんわかした空気になって、思い出話に、花が咲く。


「とりあえずさ、お姉ちゃん。電話してみなよ。今すぐ」


 そうして私は、本郷さんへ電話をかけることになった。


「スピーカーにしてね」


 コール音を聞いていたら、也実ちゃんにスマートフォンを奪われる。也実ちゃんが画面を操作して、スピーカーから流れだした電子音。


「ちょっと、也実ちゃ――」

「――紗代さん?」


 慌ててマイクを切り替える前に、彼の声が、私の部屋へ響いた。



   *



 ふわふわ浮かれた気持ちで通話を終えて、私はそっと吐息を零す。

 気分はピンク色。やっぱり私は、彼が好き。


「うん。なんかさ、すっげぇメロメロ」


 徹が呆れたように呟いて。


「なかなかだね。俺は、いいと思うよ」


 お腹を抱えて笑うのを、必死に堪えながら告げた直也くん。なんだかとっても嬉しそうで、私は、なんだかとっても恥ずかしい。


「絶対いい人だ、この人」

「だな。突然の電話だったのに全く迷惑そうじゃなかったし」

「むしろ、心底嬉しそうだったな。俺だったら、友達といる時に突然の電話とか、嫌だもん」

「徹はそういう奴だよな」

「直兄は、違うのかよ」

「俺は、也実からなら喜んで出るし、帰って来いって言われたら即帰る」

「あー、直兄はそうだよなぁ。本郷くんって、直兄と気が合いそう」

「どうだろうな。実際、会ってみないとなんとも」


 直也くんと徹の間ではどうやら、本郷さんは好印象のようだった。

 也実ちゃんはというと、電話が終わった途端、勢いよく私に抱き付いてきた。


「お姉ちゃん」

「なぁに、也実ちゃん」

「お姉ちゃんが本郷大翔のこと、本当に好きなんだっていうのは、わかった」

「うん」

「なら私は、お姉ちゃんがしたいようにしてもいいよとしか、言えないよ。お姉ちゃんが我慢するのとか、もう嫌」

「うん。……わかった」


 そうして、幼い頃から共にいる気心の知れた三人と会話をしていく内に私の気持ちも固まって、本郷さんに、しっかり想いを伝えようと決めた。


 人生初めての告白は、寝る前にベッドの中で一生懸命考えたようにはうまくはいかなかったけれど、私と本郷さんは、お付き合いすることになった。

 お金でつながった訳じゃない、本物の彼氏。

 お金がなければ有り得ない出会いだったけど、お金がなくともつながっていられるわが家の両親のような関係を、彼と築いていけたらいいな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る