第9話 この距離、どこまでなら詰めることを許されるのかな
あっという間の一週間が、ふわふわ浮かれた気分で幕を閉じようとしている。
毎日行きと帰りに電車の中で紗代さんと顔を合わせ、彼女は戸惑いながらも、俺を受け入れてくれていた。
毎日会えるけど、物足りない。
彼女に触れたい。もっと声が聞きたい。
食事に誘うのは、迷惑だろうか。
チロちゃんのご飯や散歩があるから、事前に言わないときっと断られる。
先週は、土日の両方を俺が奪ってしまったから、今週もとなると嫌がられるかもしれない。
「明日って、暇?」
悩んでいたって仕方がない。
帰りの電車の中で、勇気を出して聞いてみた。
「チロちゃんと両親と、ホームセンターに行く予定」
がくりと俺はうなだれた。
「ちなみに日曜は?」
「甥っ子が明日の夕方から、泊まりで遊びに来るの」
「マジか……」
思わず漏れた絶望の声。
彼女は首を傾げつつも、落ち込んだ俺を心配してくれる。
「ちなみに今日、この後一緒に飲みに行くのは有り?」
彼女は頬を染め、俯いた。
「事前に言ってくれたら、服とお化粧、考えたのに」
「いいってこと?」
「うん。両親からね、毎日まっすぐ家に帰ることを心配されてるの。チロちゃんのご飯と散歩も、頼んだら母がやってくれるから」
「やった! ありがとう! 何食べたい?」
小さく歓喜の声を上げた俺。だけど服と化粧についての発言には、物申したい。
「紗代さんがキレイに着飾るのは、俺との休日デートの時だけにしてほしい」
「どうして?」
「あなたの会社は、俺の目が届かない場所だから。横から掻っ攫われたくない」
「誰も、私のことなんて気にしないよ」
「そう思っててもいいから、まだ擬態しておいてほしいんだ」
「擬態って……私は虫なのかな」
「紗代さんに群がる男が虫で、あなたは蝶だ」
「ちょうちょも虫だけど」
「確かに」
二人一緒に噴き出して笑い、電車を降りる時には手をつないだ。
五日ぶりに触れた彼女の手。俺の心臓も、浮かれてる。
「ここ、家族でたまに来るんだけど、お刺身がおいしいんだよ」
そう言って彼女が選んだのは、デートっぽくない店だった。
家族で来るほど気に入っている店というフレーズに引かれ、俺は了承の返事をする。
俺は中ジョッキ、紗代さんはグラスビールを頼み、互いに食べたい物を選んで注文した。
ビールとお通しが出され、乾杯してから、冷たいビールを喉へと流し込む。
「あー。うまい」
それを見て、なぜか紗代さんが、うれしそうに笑った。
「何? なんか変だった?」
違うと告げて、彼女はにこにこ笑ってる。
「入ってからね、本郷さんはこういう所来ないんじゃないかって思って、ちょっと後悔してたの」
お通しの枝豆をつまみながら、俺も笑う。
「格好つけた店ばっかかと思った?」
彼女は否定せず、曖昧に微笑んで枝豆を口に入れた。
「毎日のスーツ姿すら格好いい男性を連れて入る場所じゃなかったかなって。きっと、本郷さんとデートするような素敵な女性なら、もっと相応しいお店を知ってたんだろうなって」
「俺、こういう店も好きだよ。刺し身も日本酒も好き」
「そう? それなら、ほっとした」
出てきた料理はどれもおいしくて、酒が進んで話もはずむ。
俺は日本酒を頼んで、紗代さんもおちょこ一杯分だけ飲んだ。
金曜だから、店内は混んでいる。
腹が満たされたなら、他の客のために席を開けないとならないから、俺たちは店を出ることにした。
「本郷さん、あのっ」
伝票を持った俺を、紗代さんが慌てて止める。
「俺が誘ったんで、俺に払わせてください」
彼女が何か言う前に、言葉をつむぐ。
だけど彼女は不満顔。
「それなら、割り勘で」
「俺のほうが、多く食べて飲んだから」
「でも、この前もおごってもらったから」
「じゃあもう少し、俺といてください。二軒目は払ってもらいます」
「……なら、それで」
もう少し一緒にいてもらえる権利を手に入れた俺は、上機嫌で会計を済ませた。
酔いの勢いを借りて指を絡めた恋人つなぎをしたら、彼女が突然、泣きだした。
俺は慌てふためき、ハンカチを差し出したけど受け取ってもらえない。
話を聞くために静かな場所へ誘導して、ぼろぼろ涙をこぼし続ける紗代さんを座らせた。
「俺、何か嫌なことしちゃった?」
ベンチに座った紗代さんの前でしゃがみ、泣き続ける彼女を見上げる。
「私、バカだから」
なぜだか彼女は、自分を卑下している。
「本郷さんが、すきなんです」
舞い上がりたい言葉なのに、喜べない。
ぐずぐずになった鼻をすすりながら紗代さんは、俺が好きだと繰り返す。
「俺も、紗代さんが好きだよ」
「違うの」
「何が違うの?」
「初恋で、苦しくて、どうしたらいいかわかんないっ」
「両想いなら、付き合えばいいと思う」
「いや!」
どういうことだろうかと、途方に暮れた。
女性を喜ばせることは得意だけど、本命の扱いは、そこまで熟練してないと思うんだ。
眼鏡が涙でびしょびしょになったことに気付いた紗代さんは、自分の鞄を探って、ポケットティッシュとハンカチを取り出した。ティッシュで鼻をかみ、ハンカチで、眼鏡を拭く。
「紗代さん、ゆっくりでいいから、あなたの考えてることを教えてほしい」
「本郷さんを、困らせることしか考えてない」
「聞かないとわかんないよ。話してみたら俺は全然困らない内容で、解決できるかもしれない」
赤くなった目が俺を映して、再び涙がせり上がる。
「好きになったら駄目って思ってたのに、やっぱり、好き」
「うん。それで?」
「弟と同じ年で、五歳も年下のイケメンで、相手にされないってわかってるの。あなたは、あんな場面に立ち合ったからって心配してくれて、私があのこと思い出さないようにって気を使って、楽しいこと、一緒にやってくれる優しい人で」
「うん」
「どんどん好きになって、どんどん……苦しい」
「俺は、あなたが好きだから、下心があってあなたのそばにいる。あなたに好きになってもらいたかったから。俺も、紗代さんが好きだから」
俺の言葉を聞いた紗代さんは、さらにつらそうに、泣き始めた。
「こんなことになるなら、あんな話、しなきゃよかった!」
そこで俺は、やっと涙の訳に気付く。同時に、サーッと血の気が引いた。
紗代さんは、下心イコール金目当てと解釈したんだと思う。
「待って! 待って待って紗代さん。落ち着いて。ちょっと待って。俺も落ち着きたい。いったん抱き締めてもいい?」
「いや。……だけど、いいよ」
「ありがとう」
しゃがんだ体勢から立ち上がり、紗代さんの隣に腰掛ける。そのまま抱き寄せれば、彼女は抵抗することなく、俺の腕の中におさまった。
しゃくりあげる背中を、そっと擦る。
「すき」
あふれ出した気持ちが言葉になったような、彼女の台詞。
紗代さんが、俺の背中に腕を回して身を寄せた。
彼女を抱く手に力を込めながら、想いを込めて、俺は囁く。
「俺も、本気であなたが好きなんだ。信じてもらうために説明するから、聞いてくれる?」
こくんと、首が縦に動いた感触。
「まず、俺、金には困ってない。レンタル彼氏の仕事も、あなたに会ってから一度もしてないし、今週の初めに辞めた」
そろりと紗代さんが動いて、俺から身を離す。涙でぐちゃぐちゃの顔で、俺を見つめる。
「どうして、辞めたの?」
彼女の膝に落ちていたハンカチを拾い、涙の跡を拭いながら、訳を話した。
「あの日一日で俺は、客だったあなたに恋をした。あなたに、焦がれた。そんな状態で他の女性を喜ばせることなんてできないと思って、気持ちの整理がつくまで休みをもらったんだ」
だけど俺は、あなたを見つけてしまった。
「再会したら、もう駄目だった。あなた以外に俺は、甘い言葉を吐けそうにない。あなた以外の女性を喜ばせることなんて、もうできないって感じた。だから、辞めたんだ。だからね、紗代さん。他の女性に嫉妬する心配は、しなくていいよ」
目の前で、彼女の顔がカーッと熱を帯びる。再び潤んだ目元に口付けたら、涙は止まるどころか、ぽろぽろこぼれ落ちた。
俺は手に持ったハンカチで涙を吸い取りながら、もう一つの彼女の懸念を払うため、言葉を続ける。
「名刺、渡したよね? 結構いい会社に勤めてるなって、思わなかった?」
「……おもった」
「それでね、俺、副業の収入を投資に回して稼いでるから、紗代さんほどじゃないけど、まぁまぁ自慢できるぐらい、金はある」
ぐっと、彼女は唇に力を入れた。
「証拠もあるよ。紗代さんが俺を信じられるまで、いくらでも、なんでも見せる。だから……あなたにキスする、権利がほしい」
「本郷さんにキスされたら、心臓止まるから、いや」
「それなら、紗代さんに合わせてゆっくり進むから、俺の恋人になってください。――結婚前提で」
「へ?」
「だって、あなたの初めて、俺が全部欲しい。誰にも、何にもあげたくない」
とろけるような気分が、自然と笑みになる。
アルコールと涙のせいで熱を持った紗代さんの頬を撫でていたら、ぽかんと口を開けていた紗代さんが、みるみる真っ赤に、茹だっていく。
「自宅に持ち帰り、検討いたします」
逃げるために立ち上がろうとした彼女の肩にそっと手を乗せ、再び座らせる。
「二日も会えないのに?」
「で、でも、混乱して……
妹の名前を叫んだ紗代さんは、顔を隠すように、俺の肩に額を擦り寄せた。
意外と甘え上手な、無自覚攻撃。効果は抜群だ。
このまま押し倒したい。
「……次の約束をくれたら、今日は引き下がるよ。次は、いつ会ってくれる?」
「で、では、日曜に、時間をつくります」
「わかった。妹さんに相談して、じっくり考えて、それで俺の気持ち、信じてね」
「わかんない」
これ以上、彼女を困らせたくないから、今は引き下がる。
「好きだよ、紗代さん。大好き。毎日一日中、俺はあなたのことばかり考えてる」
何も答えなくなった紗代さんを腕の中から解放して、立たせて手をつなぎ、彼女の家まで送った。
紗代さんは終始無言で、だけどなぜか、俺の顔をじっと見つめてる気配。
「それじゃあ、おやすみ。また日曜にね」
目が合えば顔を真っ赤に染めて、視線をうろうろさまよわせる挙動不審な紗代さんは、逃げるように、玄関の向こうへと消えた。
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