第8話 俺をあなたの日常に入れてもらいたくて
少し悩んだけど、レンタル彼氏の副業は辞めることにした。
貯金はかなり増えたし、投資もうまくやれている。
空いた時間を活用する趣味の一環の副業だったけど、今は、仕事以外の時間全てを捧げたい人がいる。
「おはよう。紗代さん」
通勤電車に乗り込み、車内で見つけた姿に歩み寄る。
「本郷さん? 同じ時間の電車だったんですね」
「もしかしたら、今までも同じ電車に乗っててたのかもね」
嘘だ。
昨日公園で、さり気なく彼女の生活サイクルを聞き出して、狙って同じ時間、同じ車両に乗り込んだだけ。
善良な彼女は、悪い男の作戦に気付いていない様子。
「そうか。私、電車に乗ったら外の景色しか見てなかったし。それに、会社に行くときはこういう格好だし……」
彼女が俯けた視線の先、色味は白と黒。体のラインを隠すだぼっとした服で、ちょっとダサい。フレームの太い眼鏡を掛けた顔は薄化粧で、髪も適当に一つに結った感じ。
「仕事行くのに、派手な格好する必要はないよ。今のままでいいと思う」
職場の男が紗代さんに色目を使ったら困る。でも、こんな格好でもこの前の痴漢野郎のように彼女の魅力に気付く人間がいるかもしれないから、こっそり護衛と彼氏面をしていこうと思う。
ストレートに好きだと伝えても本気にしてもらえてない様子だから、既成事実を作っていくクズ作戦。
紗代さんは俺の容姿は好みらしいけど、顔だけじゃ、彼女は俺に惚れてくれないと思うんだ。
彼女の職場は県内で、俺は彼女が降りる駅よりも先に行く。
「私、ここで降りるから。……朝から会えて、うれしかった」
本当にうれしそうな表情で、彼女はほにゃりと笑ったけれど、それが恋心なのかはいまいちわからない。
「俺も。会えてうれしかった。仕事頑張ってね」
「本郷さんも、頑張って」
電車が駅に着き、開いたドアへ向かいながら手を振った彼女に手を振り返し、人ごみに消える背中を見送った。
※
やる気満々で一日の仕事を片付け、先週の金曜と同じ時間の電車に乗る。
ドアのすぐ脇を陣取って、彼女の職場がある駅で、ドキドキしながら乗り込んでくる人間に視線を向けた。
「また会ったね」
「え?」
目標を確保して、するりと誘導。腕で作った檻の中に閉じ込めて、驚きに目を見開く彼女を瞳に映す。
「本郷さん!」
「うん。うれしくて、思わず捕まえちゃった」
「びっくりしました」
「ごめん。今日も一日、お疲れ様」
「あ、ありがとうございます。本郷さんも、お疲れ様です」
「ありがとう。あなたに会えて、疲れもふっとんだ」
「息を吸うように、そういう言葉が出るんだね」
「本音だから、当然だろ?」
俺は心の中をさらけ出した満面の笑みなのに、紗代さんはどことなく不満そう。
「こういうの、迷惑?」
迷惑と言われたら自重しよう。そう考えての確認。だけど彼女はふるふると、首を横に振った。
「実は、電車に乗るの、少し怖かったから。知り合いが側にいてくれると、ほっとします」
「役に立てたなら、よかった」
腕の中にいるのに、抱き締められない。それがこんなにもつらいことだなんて、知らなかった。
「本郷さんが降りる駅ですね」
黙って俺の檻に捕らわれていた彼女が、顔を上向ける。
「うん。でも、長津田まで行く」
「一駅ぐらい、大丈夫だよ」
「俺が安心するためだから、お願い」
視線が絡み、慌てたように彼女は俯いた。
「ご迷惑を、お掛けします」
「迷惑じゃないよ」
その後、なぜだか紗代さんは頑なに、顔を上げようとしなかった。
長津田に着いて、彼女と一緒に電車を降りる。
改札の前まで行き、それじゃあと、別れの挨拶をした。
これ以上はきっと、重荷になるから。今近付ける距離は、ここまでだと思うんだ。
「本郷さんは」
立ち止まり、振り向いた紗代さんが、俺の目を見た。
「明日も、同じ電車ですか?」
「うん。毎日同じだよ。寝坊と残業がなければね」
「そうですか」
くすぐったそうな笑み。
「なら、また明日」
頬を染めて浮かれた様子で言われた「また明日」。希望が、見えた気がした。
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