第4話 感謝してはいけない相手に、感謝したい1

 レイコさんとのデート以降、俺はまるで恋煩い。

 こんな気持ちで他の女性とのデートができる気がしなくて、副業のレンタル彼氏はしばらく休みをもらっている。


 代わりに、もう一つの副業である株式投資に力を入れる日々。

 博打みたいなものだけど、本業とは別の副業で得た収入を使うから、精神的な負荷はそこまで重くない。

 儲かりゃ楽しい。

 金の使い道は、老後に向けた貯蓄とレンタル彼氏用の服飾代に当てる以外は、これといった趣味もない。


「そろそろ本気で結婚考えて、レイコさんを見倣って婚活でもするかな……」


 彼女はきっと、あっという間に相手を見つけて結婚するだろう。どうか、変な男に捕まらないでくれと願う。


 朝起きたら十秒チャージのゼリーで栄養補給して、電車に揺られて会社へ行く。

 本業の仕事は別に嫌いじゃない。職場の人間との関係は良好だし、転職を考えたりもしない。

 仕事は大体、定時で終わる。

 これまでは、私服に着替えて副業のデートへ向かっていたけど、今、副業は休業中。


 電車に揺られて家へと帰る。


 今日の夕飯どうするかなって考えながら両手でつり革に捕まって、なんとはなしに下げた視線の先の光景に、血の気が引いた。


 男の手が、女性の臀部を撫でていた。

 女性の手が、男の手を払いのけようとしている。

 恐怖で声が出ないのか、被害者の女性が、震えていた。


「おい、あんた。次の駅で降りろ」


 手を伸ばして痴漢野郎の手を掴み、俺は敢えて大きな声を出す。


「大丈夫ですか?」


 何やら文句を言っている痴漢野郎は押さえ付けたままで無視をして、震えている女性へと声を掛ける。

 眼鏡をかけた、大人しそうな女性だ。抵抗できなそうな相手を狙うなんて、クズの中のクズじゃねぇか。痴漢野郎を押さえ付ける手に、更に力を込めた。


「ありがとう、ございます。怖くて声、出せなくて……」

「次の駅で駅員さんにこの男を引き渡しますけど、一緒に行けそうですか? 訴えるとか、そういう話になると思いますけど」

「はい。行きます。大丈夫です」


 俯きがちに発された、震える声。

 相当怖かったんだろうな。


 電車が駅に着き、ドアが開いた瞬間逃げ出そうとした痴漢野郎を他の乗客たちと捕まえて、誰かが呼んで駆け付けて来た駅員さんに引き渡した。

 目撃者の俺と、被害者の女性も一緒について行く。

 痴漢野郎はそのまま別室へ連行され、俺と女性も警察が来るまで待つよう言われた。


 その間に、俺はうつむく女性の横顔をじっと観察してみる。先ほど聞いた震える声に、聞き覚えがあるような気がしたからだ。


 眼鏡をしていて、薄化粧。

 だけど彼女は間違いなく――


「レイコさん?」

「え?」


 女性が顔を上げて、まっすぐに、俺を見た。


「あ、やだ、うそ、ヒロ――いえ! あ、あ~、人違いデス」


 いや。ヒロトって、言いかけたやん。

 慌ててうつむいた彼女。再会の余韻に浸る間もなく警察が来て、パトカーに乗り、警察署へ移動。

 せっかく再会したレイコさんとは引き離されて調書を取られ、逮捕補助の謝礼金とやらを受け取り、開放されたのは、仕事終わりの空腹が耐え難いを通り過ぎて麻痺した頃だった。


 被害女性のほうが終わるまで待っていたら怪しまれるだろうかと考えながら出口へ向かうと、そこに居たのは、会いたかった女性。


「あの、助けて頂いたお礼をしたくて、待ってました」


 深々と頭を下げる彼女を視界に捉えながら、取るべき行動を、考える。

 スーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚、彼女へと差し出した。


本郷大翔ほんごうひろとです」


 慌てながらも、つられた彼女も鞄から名刺入れを取り出し、一枚抜き取る。


「ご丁寧に、どうも。長峰紗代ながみねさよと申します」


 名刺を受け取り、にんまり笑った俺を見上げ、彼女はぽかんと口を開けた。


「こんな場所で立ち話もなんです。よかったら食事に行きませんか? なんか、謝礼金をもらったので奢ります」

「でも、それじゃ、お礼にならないです」

「まぁまぁ。とりあえず、移動しましょう。長峰さん?」


 わざとゆっくりした発音で名前を呼べば、彼女は何かに気付いた様子で「あ!」と声をもらしてから、自分の失敗にうろたえた。

 俺のかわいいレイコさんに触った痴漢野郎は地獄に堕ちろと心の中で呪いつつ、わたわた慌てる小動物系美女を捕獲した俺は、上機嫌で歩き出す。


「あの、お礼のことなんですが」

「腹減りません? 俺はめちゃくちゃ減りました」

「……そうですね。ほっとしたら、空いてきた気がします」

「警察、拘束時間長かったですね。嫌なこととか、聞かれませんでしたか?」

「いえ。婦警さんだったので、大丈夫です」

「何食べたいですか? やっぱり、肉?」


 デートの時に、彼女は言っていた。ストレスを感じた時には肉が食べたくなるのだと。


「お肉、いいですね」

「最寄りどこですか? その近くの店のほうがいいですよね?」

「えっと、長津田です」

「俺は青葉台。近いですね」


 にっこり笑い掛ければ、彼女はゆでダコになった。

 キャパオーバーなのか、自分がどんどん失態を犯していることに気付いていない。

 無用心過ぎて、心配になる。


「偽名だったんですね」


 隣を歩く彼女に問い掛ければ、こくりと頷いた。


「それが、安全対策?」

「他にも。携帯の番号、あの時のためだけに契約して、あの後すぐに解約しました」

「なるほど。こんな偶然が起きなければ、確かに有効な対策でしたね。でも俺たち、出会っちゃいましたね?」


 俯いたまま、彼女は何も、答えない。


「手、つないでもいいですか?」

「だっ、だめ!」


 上擦った声で答えてから、慌てた彼女は両手で鞄を抱き締めた。両手が使えないアピールだ。


「本当に、かわいい人だなぁ。……婚活は、その後いかがですか?」

「婚活は……なんだか、怖くて」

「怖い? 相談に乗りましょうか」

「いいんですか?」

「あなたのためなら、喜んで」


 運命の女神に感謝しながら緩む表情筋の制御ができなかった俺は、もしかしたら悪い顔でもしていたのかもしれない。


 俺の顔をチラ見した彼女の顔には、微かな怯えが滲んでいた。

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