⑲
「大塚さんと那須井さんはフロアをできる限り水浸しにして。坊山さんは残った唐揚げを麦茶に浸してください。浸し終わったら麦茶も撒いてほしい。僕とレインで窓を割る。いい? 麦茶はもう飲まないでね」
上野原の指示に全員が頷く。
三階に上がり、すぐにそれぞれの動きに入った。俺と上野原は厨房に行き、フライパンと鍋を手に取る。まるで鈍器を手にしたみたいだ。
大塚さんと那須井さんがコップを使って手当たり次第に水を撒く。少量服にかかるが互いに気にしない。坊山さんも麦茶をコップに分け、唐揚げを浸している。
「フライパンで窓イケるのか?」
「やだなレイン」
上野原は零時方向、松垣さんの部屋前の窓に向かって鍋を投げつける。しかし力及ばず、跳ね返される。
「やってみないとわからないだろう?」
グリップに力をこめる。みんな頑張っているのだ。やるしかない。
思い切り振り下ろすと、微かにだがヒビが入った。
上野原が不敵な笑みを浮かべている。これには俺も微笑み返すしかない。
「おい! 奴がきたぞ!」
坊山さんの声が響く。振り返ると駒場インスマスが階段を覚束ない足取りで上がってきたところだ。すぐにグリップを握り直す。
「坊山さん! 準備は?」
「オッケーだ!」
「大塚さん、那須井さん!」
「ええ! こっちも何とか」
「よしっ! 全員、窓際へ!」
全員が待っている。みんなの期待が力に変わったのか、何度目かの振り下ろしでついに窓が砕けた。破片が外に向かって落ちていく。
――グルルルルルル!
猟犬の鳴き声が間近で聞こえる。
「さすがはレイン、頼れるワトソンだ」
「そんなことより!」
駒場インスマスは辺り一帯に撒かれた水に興味を示したように立ち止まる。そして一際水が溜まった箇所で立ち止まり、顔を浸けた。頭に乗ったショゴスもなすがままだ。
あまりにも異様な光景に誰もが押し黙る。場には奴が水を啜る気色悪い音だけが響く。
「彼らは水が大好きだからね。変異直後できっと欲しがるだろうって思ったんだ」
頭の回転の速さに、もはやぐうの音もでない。
「ささ、次だ。坊山さん、唐揚げを」
坊山さんは麦茶入りの唐揚げを五つ持っている。それを俺に全て押し付けた。フライパンに入れようとするも拒否された。
「それで遠くまで投げられるならいいけどさ」
「投げる?」
「そうさ。時間遡行薬入りの唐揚げを出来るだけ遠く、かつ猟犬が察知する距離までね」
補習確定の赤点とはいえ、相変わらず注文が多い。
「囮さ。その隙に僕らは逃げる。あ、一個は取っておいてね」
言われるがまま唐揚げを四個放り投げると、一斉に四匹の猟犬はそちらに向かって駆けていった。唸り声が徐々に遠くなり、終いには聞こえなくなる。
「よし、じゃあ逃げるよ!」
上野原の合図に、全員が階段へ向かう。駒場インスマスは未だに水を啜っている。俺たちが背後を通過しても気にしていない様子だ。
「万里奈ちゃん、ばいばい」
那須井さんの一言が厨房で眠る雛田さんに届いたと信じ、階段を下りていく。たくさんの資料をすり抜け、一階まで辿り着く。
変わらず堂々と佇む【ティンダロスの猟犬】の絵を睨みつける。
「時空の隅っこで大人しくしていやがれ」
上野原たちは正面入口の扉を開けて、続々と外へ出ていく。
「レイン、そんなに猟犬が気に入ったのかい?」
「いや、今回の件で嫌いになった」
「同感」
外へ出ると、照り付ける太陽の光に一瞬視界を奪われた。
下谷さんの死体はきれいに無くなっている。一瞬想像してしまい、慌てて首を振る。
「よし、最後の仕上げだ。レイン、これとさっきの余りの唐揚げを館へ投げ入れて」
上野原が差し出したものは例のギザギザオブジェだ。
これが向こうの世界との接点。
邪な空気が流れ込んでくる。かつて世界を支配していた【大いなるクトゥルフ】のそれは息吹か否か……。
「おりゃあ!」
開かれた館の入口に向かって、豪快に投げ入れた。受付に当たり、奥の展示品に当たった気がする。続いて投げ入れた唐揚げは階段の下で動きを止めた。
「そのうち館の中の気配を察し、開かれた扉から中へ入るだろう。犯人を殺しちゃうが止むを得ない」
「平気よ。相手は人間じゃなかったもの。手段を選んでいる場合じゃないわ」
大塚さんの一言に、上野原もまんざらでもない表情だ。
「それでも、その、雛田さんのご遺体が……」
「いいの。気にしないで。彼女ならいつでもここに」
胸に手を当てる那須井さん。表情からは力強さが滲み出る。
「ったく、とんだ災難だった……」
坊山さんがようやく安堵の表情を浮かべる。
「さあ、早く逃げよう。察知されたら今度こそヤバいからね」
改めてティンダロス館を見つめる。
円柱形の館はただ静かに、何事もなかったかのように聳え立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます