⑯
「万里奈ちゃん……遅いなあ」
ちっとも戻らない雛田さんに痺れを切らせた那須井さんが階段を上がっていく。
先程から十分程度経過している。スープも飲み干してしまった。
時刻は十三時十分。
「きゃあああああああああああああっ!」
館を切り裂く絶叫が響いた。
「今の悲鳴はっ!?」
言い終えた瞬間、上野原は階段を駆け上がっていた。急いで後を追うと厨房の前で那須井さんが項垂れ、両肩を震わせている。
大塚さんに彼女を任せ、怒鳴り込むようにして中へ突入する。
厨房の光景は一変していた。
床には調理道具が散乱し、麦茶のピッチャーは床に転がり中身が零れている。生臭さを感じて猟犬の顕現を疑ったが、あれほどの臭気ではないと気を落ち着かせる。
目の前に上野原の背中が見える。その先の床で横たわる長細い物体が血に塗れているのが嫌でも見えてしまった。
「う、そ……だろ」
喉が焼けるように熱い。上手く声が出ず、唾を飲み込むとズキンと痛んだ。
血に塗れた物体の正体は、雛田さんだ。
先程まで元気な笑顔を見せていたのに、今やそれは変わり果て、まるで得体のしれない何かから逃れようとしたかのように、苦悶の表情で事切れている。
両目はほとんど白目を剥き、いかほどの恐怖・苦しみだったのか想像に絶する。白黒のワンピースには血がべっとりと付着し、近くに落ちている白カチューシャも赤のドレスコードを纏っている。
彼女を除く全員が同フロアに集まっていたのは間違いない。
衆人環視下での殺人――まだ見ぬ存在の気配に背筋が凍り付く。
「一体……これは、まさか……いや、しかし……」
上野原はブツブツと呟いている。視線は先程から彼女の腹付近に注がれている。
「う……」
胃液がせり上がる感覚に身悶えする。
彼女の腹は大きく張り裂けている。白黒ワンピースの生地が裂け、かなりの力で抉られたことがわかる。まるで猟犬――。
「違う。これは猟犬によるものじゃない」
困惑する頭に上野原の声だけが響く。
「外側から力が加わったんじゃない。内側から食い破られたんだ」
内側、だと? そんなの、化物にしかできないじゃないか……。
「忘れたのかいレイン? もう僕らは化物の存在を肯定しないといけないんだよ」
それは猟犬が顕現した時点で判明したこと。
目を背けていただけだ。
クトゥルフ神話の化物は存在するのだ。しかも、この館の中に……。
「猟犬以外の化物がいると?」
頷いた上野原は、衝撃的なことを口にする。
「うん。正解。猟犬は館内で顕現は出来ないからね。ちなみに、目星はついたよ。そいつが松垣さんと雛田さんを殺したんだ」
上野原は両手を合わせ、立ち上がる。
「さあ、時間もあまりないし、犯人の正体を暴こう。そしてはやく脱出しよう」
上野原に倣い、両手を合わせる。上野原と那須井さんに了解をとり、雛田さんの両目を閉じてあげた。少しだけ安らかな表情になった気がする。
――てけりりー てけりりー
厨房の外からそんな音が聞こえた。昨夜も聞いた気がする。
上野原はどこか確信を得たような表情でうんうんと頷いていた。
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