「発狂するのはフィクションの中だけにしてほしいね」


 下谷さんは躊躇なく正面入口の扉を開ける。夏の日差しが受付を照らす。ムアッとした現実の熱気が室内の非現実の空気と混ざり合う。


「下谷さん!」


 松垣さんの呼びかけ虚しく、下谷さんは外へ出て行ってしまった。



「連れが騒いでしまい申し訳ありません」


 松垣さんは丁寧にお辞儀をする。張り詰めていた空気が少し緩むのを感じる。


「こちらこそ、ご迷惑おかけして申し訳ございません」


 那須井さんに促され、雛田さんも軽く頭を下げる。


「題材が題材ですから、少し演出方法を見直された方がいいかもしれませんね」


 さりげなく彼がダメ出しした直後だった。


「おおおいっ! これも演出かあ!?」


 開かれた正面扉から下谷さんの声がした。すぐに入口に向かった上野原の背中を追う。奴の背中越し、館入口から十メートルほどの位置に立ち尽くす下谷さんが見える。


「なっ!?」


「きゃっ」


 思わず息が止まった。大塚さんも目を丸くし絶句している。他のメンバーも外の光景を見ながら固まっている。


 下谷さんは一匹の大きな犬と対峙している。


 ゴールデンレトリバーでもドーベルマンでもない、大きな体をした犬だ。四本の足には大きく鋭い鉤爪がつき、近くの地面に土を抉り取った形跡がある。犬はゆっくりとした動きで彼との間合いを詰めていく。


「おおい! 早く引っ込ませてくれ! 俺は現実の犬は嫌いなんだ!」


 彼が振り向いた、その時だった。


 犬が大きく口を開いた。


 ワニのように大きく開かれた口から、ギラリと光る牙が覗き、日光を反射する。ようやく見つけたエサに歓喜しているのか、牙の間から唾液が糸を引きながら地面に落ちる。


 口の奥、暗い深淵から伸びる太い舌を目の当たりにして確信する。


 異次元に住む獰猛な怪物――【ティンダロスの猟犬】。


 奴らの敏感な嗅覚に引っかかってしまったのだと。


 ――グルルルルルル。

 ――グルルルルルル。


 館の周囲から犬の唸り声がした。


「上野原! ドア!」


 意表をつかれた様子の上野原を押しのけ、入口のドアノブを掴む。


 ――ガウ! ガウ!


 思い切り閉じた瞬間、ドア越しから獰猛な獣の気配が伝わり、上下の歯がガタガタと震え始めた。


 我に返った様子の上野原が深呼吸をする。


「よ、よくやったレイン! 絶対にドアを開けるなよ」


「つってもよ、窓から入ってくるんじゃ……」


「恐らく平気だ。ここは円柱館。奴らの嗅覚からは逃れられるはず」


 幸いにして窓の形も円形だ。建築にかかわった全ての人に感謝申し上げたい。


「それはそうと、どうして奴らが現れたの?」


 大塚さんの表情は依然険しいままだ。涙のせいか、アイラインが滲んでしまっている。


「恐らく入口前に落ちていたギザギザの物体だ。カドだらけだったからね」


 未だに混乱しているが、あれが猟犬であるなら上野原の指摘通りで間違いない気がする。せめて館内に例のオブジェが無いことを祈ろう……。


「もしあったら、館内に出現する可能性もあるってこと?」


 さらなる恐怖に正気を根こそぎ持っていかれそうになったときだった。


「きゃあああああ!」


 七時方向の窓から外を見ていた那須井さんの悲鳴が響き渡る。


 すぐに雛田さんが彼女を抱きしめ、頭を撫でている。


「こ、これは……夢、か? いや、まさか、ははは」


 松垣さんは既に正気を失っている。


「あの……これは撮影か何かですか?」


 最後にやってきた青年は紳士ハットの男性に聞くも、


「そんな予定はない筈です。しかし、驚いた……」


 期待していた返答が来ず、窓から遠ざかる。顔色が悪く、そのままフロア奥のトイレに向かう。


 窓から外の様子を伺う。遅れてやってきた上野原が絶句するのがわかる。


「どしたの?」


「見ない方がいい」


 大塚さんに首を振り、部屋中央へ引っ込んでもらおうと思ったが、


「ひっ!」


 窓の外をチラ見した彼女は目と耳を塞ぎ、その場に蹲ってしまった。言わんこっちゃないと思いながら、安心させようと肩に触れる。小さな肩は小刻みに震えていた。


「だいじょうぶ……だいじょうぶ……ごめん」


 消え入りそうな声でそれだけ言って、黙り込む。一旦そっとしておき、未だに窓の外を眺める上野原の横に立つ。


「レイン、今回の件、どう思う?」


「夢……じゃね?」


「ナンセンスだね」


 もちろん冗談だ。いや、願望か。しかし窓の外の光景を目の当たりにし、おまけに尋常ではない異臭。


 パズルのピースは既に嵌っている。


「【ティンダロスの猟犬】が顕現したんだ」


 窓の外。


 今、顕現した猟犬四匹が赤黒いオブジェと化した下谷さんの体を貪っている。


 赤アロハは既に細かい布切れになり、裂かれた皮膚と共になすがまま揺れている。雑草は赤い花を咲かせた魔界の花と化し、内蔵の破片を養分にさらなる成長を予感させるように禍々しく光る。


 苦悶か驚愕か、いずれにせよ彼の死に際の表情を窺い知ることはできない。既に猟犬四匹の鋭い牙と爪でぐちゃぐちゃだからだ。


 あの時、少しでもドアを閉めるのが遅かったら下谷さんの仲間入りをしていたかもしれない。目の前に迫る牙の気配を感じ、身震いする。


「レイン、見なよ。あれがトンネルの役目を果たしているんだ」


 奴らの餌場の横、そちらに気を取られてよく目を凝らさないと見えないが、日光をキラリと反射するものが落ちている。


 大塚さんと一緒に目撃した例の楕円形のキザギザオブジェだ。


「本当に、あそこから?」


 本当にあのギザギザオブジェから通り抜けて来たというのか?


「四匹いるな……つまり四つあるんじゃないかな」


 俺と上野原は手分けして残りの窓から外を見た。すると指摘通り、窓の外十メートルくらい先の地面に例のオブジェが転がっていた。


「あれで呼び出されたのは間違いないな」


「誰が、何のために?」


 そもそも、どうやって? 疑問は湧水のように溢れてくる。


「いずれにせよ、ここから出ることは難しいね」


 冷静に続ける上野原に、いつの間にか全員が注目している。


「僕たちはティンダロス館に閉じ込められた。顕現した【ティンダロスの猟犬】によって」


 静寂を切り裂くように、奴らの遠吠えが聞こえた。

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