一階の展示エリアには既に三人の来場者がいた。


 連れらしい男性二人組が壁に飾られた絵を眺めている。


 二人とも中年ぐらいで、一人は茶髪で赤アロハシャツ、デニムの膝丈短パンというコーデのチャラい格好だ。


 もう一人は黒髪短髪、上下黒のスーツスタイルで黒縁メガネをかけている。鼻の下に生えた髭がアクセントになり、年齢相応の渋い雰囲気を醸し出している。


「いかつい犬だな。追いかけられたら腰抜かすわ」


「架空とはいえ、ビジュアルにも気合入っていますね」


 絵の前を離れた赤アロハの男性が階段に向かう。


「松垣さん、そろそろ二階行きましょ」


 松垣まつがきと呼ばれた紳士風の男性が赤アロハの男性を追って、二階へ姿を消した。


 資料館は三階建てで、二階までが展示エリアだとHPに記載があった。三階はスタッフルームなので一般客は立入禁止らしい。


「きゃあ! 見て見て! 【ティンダロスの猟犬】! 口やばっ! こわっ!」


「落ち着けって。顕現したら僕らあの世行きだぞ?」


「上野原くん囮にする!」


「とんだクトゥルフ少女ですこと」


 大塚さんと上野原は先程二人が見ていた絵の前ではしゃいでいる。


 残る一人の男性はクトゥルフ神話生みの親であるラヴクラフトの生涯を解説したパネルを見ている。紺の紳士ハットを被り、同じく紺のジャケットにカーキ色のチノパン姿だ。頬に小さなカサブタがあり、しきりに指の爪で擦っている。


「盛り上がってるな」


 二人のもとへ近づくと、大塚さんが壁の絵を指差す。


 額縁に入れられた【ティンダロスの猟犬】が禍々しい空気を伴い威嚇している。縦横それぞれ一メートルほどの絵で、これほど大きい絵は初めてだ。


 一匹の犬のような化物が絵中央で醜悪な口を開け、長く太い舌が口の間から垂れ下がっている。見た目こそ現代の犬に近いが、決定的な違いはこの口にある。


 まるで口裂け女のように、大きく口が裂けているのだ。ワニのようでもある。


 裂けた口から鋭利な牙が生え、足の爪も長く鉤爪のような形状をしている。これで獲物を捕らえ、肉を食らうのだろう。


 改めてその見た目に恐怖が沸き上がる。先程の時間遡行薬の演出もあり、発狂寸前だ。


「ここで問題」


 上野原が独り言のように呟く。いつもの『上野原ドリル』の時間だ。


「時間遡行薬を手に入れ、実験中に猟犬に察知された怪奇幻想作家は誰?」


「うーん、と」


 考えるフリをする。こいつの問題はいつもマイナーで、正答率は未だゼロパー。考えるだけ無駄だ。素直に降参して知識を得るに限る。大塚さんも既に沈黙モードだ。


「正解は……【ハルピン・チャーマズ】でした!」


 知るか! と心の中で叫び、こっそりメモをとる……。


「あら君、詳しいのね」


 背後から声がして振り返ると、那須井さんと同じ服装の女性が立っていた。


 唯一違う点は、那須井さんが黒髪に対し、目の前の女性は茶髪。胸のネームプレートには『雛田万里奈ひなだまりな』とある。


「申し遅れたわね。私は雛田。ここのスタッフよ」


 雛田さんは軽くお辞儀をした。ほんのり良い香りがして、目を逸らす。


「そんな作家の名前、私でも知らないのに!」


「こいつ、バカ詳しいんですよ」


「お褒め頂き光栄だ、レイン」


 その後、何故か『レイン』について話が脱線する始末。上野原お得意の説明口調でレインがどんどん神話世界に取り込まれていく。雛田さんが本気で新たな神話体系の一ページだと信じ込みそうになったとき、那須井さんの声が響く。


「――では、ドリンクをどうぞ」


 受付には新たな来客が一人立っていて、那須井さんから例の麦茶を受けとる。


 大人しそうな印象の青年だ。


 皺が寄った白ワイシャツに鼠色のチノパンと、ラフな格好。短い黒髪は道中で乱れたのか、ボサボサだ。右手の甲に大きなホクロがある。


 彼は美味しそうにゴクゴクと飲み干す。これで仲間入りだ。


「ねえね! 二階も行ってみようよ!」


 大塚さんが急かす。上野原は未だに絵をジッと見ている。


「ごちそうさまです。正面入口前のあれも演出ですか?」


 コップを受付に置いて、白ワイシャツの青年が口を開く。


「あれ、とは?」


 那須井さんは首を傾げる。


「いやだな。館前にカドだらけの物体が置いてありましたよ」


「いえ。そのようなものは配置していない筈ですが」


 背中の汗が急速に凍りつくのを感じる。


「おい上野原、どうも演出じゃないらしいぞ」


 声をかけるも奴は微動だにせず、しきりに鼻をクンクンと動かす。


「どした?」


「……なあレイン」


 妙に真剣な口調で続ける。


「なんか臭わないか?」


「におう?」


 その時、鼻をつく強烈な異臭がして、反射的に鼻を塞ぐ。今まで嗅いだことのない、上手く説明できない臭いだ。


「万里奈ちゃん……ガス?」


「ガスはこんな臭いしないだろ」


 スタッフ二人も首を傾げた。


「なんの臭い? これ」


 大塚さんはハンカチで鼻を覆い、顔をしかめている。白ワイシャツの青年も表情を歪め、紳士ハットの男性も手の甲で鼻を隠している。


「おおい! 姉ちゃんたち! なんかくせえぞ!」


 異変は二階にも広がっているようだ。


 赤アロハの男性と松垣さんが血相を変えて一階に降りてきた。


「どうなってんだか知らんが、窓開けるぞ!」


 赤アロハの男性が錯乱したように叫ぶも、


「申し訳ありません下谷様、当館の窓は嵌め殺しのため開きません」


 赤アロハの男性、下谷しもたにさんは冷静な口調の那須井さんに執拗な質問を浴びせ、連れの松垣さんに宥められる始末だ。


「レイン」


 異臭騒ぎの中、上野原の声はまるで静かな劇場で発せられたかのように、はっきりと聞こえた。


「【ティンダロスの猟犬】が出現する前、どんなことが起きる?」


「こんな時にお勉強の時間かよ?」


 付き合い切れないと思ったとき、彼は続けた。


「形容しがたい異臭がする。心当たりがある者には察しがつくが、既に手遅れだ」


「なに言ってんだよ?」


 猟犬は創作の中の化物だろう?


「では、この異臭の正体は? ここは何故、円柱形をしているんだ?」


 それは――【ティンダロスの猟犬】が顕現した際、身を守るため?


「ですから! 【ティンダロスの猟犬】を事実としたコンセプトのもと、当館は――」


「ええい! そんなもん、フィクションだろうが!」


 下谷さんの言葉と鼻をつく異臭が、現実と非現実の垣根をどんどん壊していく。凍りついた汗が再び溶け、さらに強固な塊になって体温を奪っていく。

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