第4話
表向きの職場であるエル・プロテクトのオフィスは対策室のひとつ上の階にあった。
とはいえ、レンタルオフィスの一番小さなブースだ。
向かい合わせに置かれた机が4つと、窓際に須藤の分の机がひとつ。それぞれにパソコンと資料のファイルらしいものが置かれ、それなりの体はなしている。
だが、この1週間の隼也の仕事といえば、下の階の引越しの手伝いであり、体力があることをすっかりあてにされての重労働が主であった。
ワタナベとアベには朝の出勤時に顔を合わせる程度で、話らしい話をする時間はなかった。どうもそれぞれになんらかの調査を任されているらしい。
ワタナベもアベもこの職場に入ってまだ半年ほどだと聞いたから、自分もそのうち、一人で仕事を任せてもらえるだろうと隼也は焦らないことにした。
まあ、ここ2、3ヶ月、体をあまり使ってなかったことを考えれば、こんな汗のかき方も悪くない。
同期入所となった対策室長の向田にも初日の顔合わせ以来、会っていない。
前職は警察関係だという向田だが、どこにでもいるちょっと冴えないおじさんという感じだった。
自衛隊時代の上官に見られた精悍さや厳格な空気感というものは向田の周りにはなかった。そのかわり、穏やかに人の話を聞いてくれそうな、人の良さそうな笑顔があった。
「しばらくは挨拶回りも兼ねて、官公庁関係を回らきゃならなくて。皆さんの顔と名前も早く覚えたいんですがね。実務は優秀なリーダーがいるから心配していませんが」
そう言って、須藤を見て満足そうに笑って見せた。
「四月からこちらに勤務となった方も多いですし、軌道に乗るまでは時間が必要かもしれませんが、満足のいく成果が出るよう、切磋琢磨しましょう」
その挨拶の言葉通り、半数以上が四月入職の職員となると、まずはお互いの顔と名前を覚えるのにエネルギーが費やされていた。そして、こんな時に引っ越しの荷物整理というのはコミュニケーションをとるには、なかなかいい機会だと隼也は感じていた。
やがて、だいだいの荷物が片付き、業務が本格化してくるだろうかという頃、隼也は須藤から声をかけられた。
「ちょっと気分転換にドライブでもどう?」
もちろん、冗談だとはすぐに分かった。なにかの現地調査だ。
資料は情報処理部の三嶋あかりから渡された。ショートカットのキリッとした感じの美人だ。タイトな服を着ていることが多いが、細身の彼女には確かに似合っていた。
彼女と須藤が付き合っている、と聞いたのはつい昨日のことだ。
隼也が所属するのは『エルチーム』と呼ばれる、いわゆる実働チームだ。須藤をリーダーとするチームのメンバーに話かけてくることが一番多いのがあかりだったのだが、そういうことか、と納得した。
別に隠しているわけではなく、職場内では周知の事実らしい。
「私だったら、ウィンガーなんかと付き合わないけどねぇ」
隼也に教えてくれた庶務の年配の女性は、声を潜めてそう言った。
「早死になんでしょ、あの人たち。将来のこと考えたら一緒にいるの、辛いじゃない。」
隼也は曖昧に相槌を打ったが、心の中では全く同感だった。
ウィンガーの平均寿命は40歳前後と言われている。循環器系の疾患で突然死することが多いという。原因は不明。半年に一度の検診が彼らに義務化されているのも、これを踏まえてのことだが、効果的な対策は今のところ見つかっていない。
「鳥間市のスポーツクラブなどで窃盗が相次いでいるんです。情報提供サイトの書き込みにちょっとした共通点がみられて。」
要領よく説明するあかりは、仕事はできそうだし美人だが、性格はキツそうだな、というのが隼也の今までの印象だった。
だが面と向かって話してみると、思ったより茶目っ気がある。
「鳥間市の方、行ったことあります?」
「いや、南方面はあんまり・・」
隼也のアパートは絵州市の北部。鳥間市は絵州市の南にあるベッドタウンだった。
自分のアパートと職場付近の様子をやっと把握できてきたくらいの隼也には、南部の方は未知の世界だ。
土地勘のない隼也に、あかりは地図画面を表示しながら説明してくれた。
鳥間市の海沿いの地域には空港があり、その周辺には物流倉庫や工業施設が立ち並んでいる。20年ほど前に工業団地が誘致されてから、そこに勤める人々の為に宅地開発も進められた。
工場地帯と住宅地のちょうど境い目あたりには大きなショッピングモールがあり、そこの名前は隼也も耳にしていた。
一方、山側の地域は未だに田んぼや畑が残る場所も多く、古い住宅が多い。
元々は海側の地域よりも、こちらの方から宅地開発などが進み、絵洲市のベッドタウンとして知られていたのだが、どうも計画的な開発とは言えなかったようだ。
田んぼや畑の中に住宅が建ち、農道がそのまま道路として利用される場所があちこちで広がり、それらが繋がった結果、迷路のような複雑な細い道を備えた住宅地が増えてしまった。
駅まで出るためのバスなどの交通手段が整わず、アクセスの悪さから子供のいる世帯などには人気がなかった。
結局、海側の開発が先に進み、そちらが一段落したところで、中途半端に住宅地化したまま放置された山側の地域にやっと目が向けられたところだ。再開発の計画が出てきたのは、ここ数年のことである。
須藤と隼也がまず向かったのは、鳥間市のその山手寄りにあるテニスコートだった。
スポーツクラブと聞いて、隼也は最初フィットネスジムのような施設を想像していたのだが、屋外テニスコート4面と卓球やバドミントンができる体育館を備えただけの場所だった。
個人やサークルでコートを予約して使用するシステムだ。出来てからまだ2年ほどだという。
周りには食品会社の倉庫や住宅もチラホラあるものの、まず目に入ってくるのはのどかな畑の広がりだ。
「今まで、こんないたずらされたことなかったですし、事務所の建物には防犯カメラ付けてたんですがね。」
応対に出た初老の男性事務員はそう言いつつも、やる気のなさそうな態度をにじませた。
こじ開けられて物色されたという屋外の倉庫は施設の隅にあり、道路からは見えにくい場所だ。
「置いてるのは、テニスコートで使う備品とか、レンタル用のラケットとか、ボールとかですねぇ。新品の物は体育館の中の倉庫に保管してるんで、結構使い古したものしか入ってませんよ。」
だから、こちらの倉庫には防犯カメラもないという。
倉庫の建物自体はコンクリート性の頑丈そうなものだが、扉はアルミの両開きで中央を南京錠で施錠するタイプの古風なものだった。
問題はその壊され方だ。
南京錠はそのままに、扉が上下二つ折りになりそうな勢いで歪んでいる。何で、どうやったらこんなことになるのかと、隼也はやや呆れながら首を傾げた。
「警察の方もどういう方法でこんなことになったのか、見当つかないみたいでしたよ。盗られたのは古いラケット10本ほどとボールも10個くらいだね。」
窃盗に入られてから1ヶ月ほどたつが、破壊された扉をそのままにしているのは、倉庫自体を建て替えることになったからだという。
「今はもう廃棄してもいいような物しか入ってないから。中も見たければどうぞ。」
「こんな壊し方したら、相当な音もしたでしょうね。」
須藤の言葉に、
「隣の会社さん、夜は誰もいないしね。民家があるのは反対側だし、離れてるし。」
事務員は相変わらず、自分には関係ないという口調で言った。
「自転車で逃亡する男が目撃されたみたいですね。」
隼也も尋ねてみたが、
「そうなの?」
ちょっと目を見開いて、そう言っただけだった。それ以上の収穫はなさそうだと、2人は次の場所へ向かうことにした。
ここほど荒っぽい手口ではなかったが、直線距離で2キロほど離れたところにある、町内会の備品倉庫が3週間ほど前に窃盗被害に遭っていたし、その近くの公園では樹木が折られたり、ひっこ抜かれるという事件があった。
いずれも付近で自転車の2人組が目撃されている。10代後半から20代の男性とみられる2人組だ。付近の防犯カメラの映像にもそれらしき二人組が映っていたが、どのケースも夜中のこともあり映像も鮮明ではなく、顔などは分からなかった。
被害のあった公園を訪れると、現場はすぐにわかった。
植え込みがあったと思われるあたりが、そこだけ他よりも黒々とした土肌をみせている。八畳ほどの範囲だろうか。
「若いヤツのいたずらで済ますには、ちょっとタチが悪いですね」
「ああ、そう、いたずら、ね。」
隼也の言葉に、須藤は何やら少し考えるように、首を傾げた。
抜かれたり、傷付けられたりした樹木はほとんど撤去され、掘り返された地面もキレイにならされている。
あかりが用意してくれた資料には、撤去前の樹木の写真も添付されていた。なんの木かは分からなかったが、腕の太さほどもあろうかという枝が何本もへし折られていた。
「そんな軽い感じではないなー」
車に戻りながら呟く須藤の口調は軽かったが、どこか、隼也に不安を感じさせる翳りがあった。
2人が次に向かったのは、被害のあった公園から車で5分もかからない、市営団地だった。白いシンプルな外観に、ベランダには飾り気のないアルミ製の手すり、という4階建の建物が、ざっと見ただけで10棟ほど。
小学生が数人、駐車場の片隅で座り込んでゲームでもしているのか、時々笑い声をあげている。それ以外は人影はまばらだ。
怪しい自転車2人組の1人が乗っていたものとよく似た自転車が発見されたのがこの団地だった。
自転車置き場は各棟の入り口付近に設置されているが、問題の自転車が見つかったのは駐車場の片隅だった。駐車場はそれなりの台数が停めららるようかなりの広さがある。
南側はコンクリートブロックで固められた10メートル近い断崖で、山を切り崩して駐車場が造られたことがわかる。
須藤は自転車が見つかった場所よりも、その断崖の方を眺めていた。ブロック塀の上は雑木林にでもなっているのか、鬱蒼とした木の枝がはみ出ているのが見えた。
須藤につられて隼也も塀の上を見上げたが、特に目につく物はない。
見つかった自転車は登録もされておらず、持ち主不明のまま、警察に回収された、とあかりの情報にはあった。
2日前の深夜、この団地の隣の地区で空き家をこじ開けようとしている2人組の男が見つかった。
目撃した老人が大声を出すと、すぐにスケートボードに乗って逃げ出した。無謀なことだが、目撃者の老人も乗っていた自転車で追いかけようとしたという。だが、2人はものすごい勢いで坂を下り、あっという間に姿を消した。
坂を下った先にあるのがこの団地だったため、警察が目撃者がいないか、聞き込みをしているうちに自転車が発見された、という流れだ。
「2日前に空き家にイタズラしてた若い男が姿を消したのもこの辺りですよね。聞き込みとかしますか?」
隼也の提案に須藤は首をすくめた。
「もう、警察がやってるよ。そっちからの情報を、待てばいいさ。」
上着のポケットから携帯端末を取り出し、しばらく画面をいじった後、須藤は隼也に画面を見せた。地図画面が表示されている。
「その空き家があるの、ちょうどこの崖の上あたりだね。」
なるほど、地図上は隣り合わせの地区だが、山の裾野にあたるこの団地から、崖の上の地区に行くためには、ぐるりと迂回した道路を行くしかない。犯人がスケートボードで滑走してきた道だ。
「じゃあ、そこの現場も見に行ってみようか」
また、崖の上を見上げながら須藤が言った。
途端に、
「猿、いたの…」
背後からひどく嗄れて不明瞭な声がした。ぎょっとして2人が振り返ると、
小柄な老人が途方にくれたように立っていた。
「ぁ〜」
あーとも、うーともため息ともつかない声を出しながら崖を見上げている。
歯はほとんどない。皺だらけの口をモゴモゴと動かしながら、ほとんど髪のなくなった頭頂部に手をやり、2人の方に向き直った。
こちらを見ているのに、視線が合わない。小さな目には光がなかった。
「…猿ね、もう、いないの」
質問しているのか、確認しているのかわからない、抑揚のない口調。
「え、ええと、この辺り猿がいるんですか?」
無視するわけにもいかず、隼也が尋ねたが、耳が遠いのか
「ん〜?当たるの?」
どうも会話が噛み合わない。
「あら、おとうさん!どこに行ってるの!」
駐車場の向こうから声がして、中年の女性が小走りにやってきた。
「すいません。もう、おとうさん、うちはあっちよ!」
イラつきを隠そうともしないで、強い口調で言い放ち、老人の腕を引っ張って連れて行こうとする。
背丈は老人と同じくらいだが、体格は明らかに女性の方がよく、老人はよろめいた。老人は足元もだいぶおぼつかない様子だった。
「あの、」
須藤がいつものように、とびきりさわやかな笑顔を作って声をかけた。
「あ、はい?」
案の定、女性は訝しげな表情を浮かべたのも一瞬で、たちまち好意的な笑顔で応じた。
「ここら辺、猿がいるんですか?」
女性はすぐに思い当たったのか、ジロリと老人を見てから、また笑顔で須藤に向き直った。
「また、猿がいるって言ってたんですね。なんだって、猿が好きなんだか…ここらに猿なんていませんよ。うち、そこの棟なんですけどね、」
女性はすぐそばの建物を指差した。
「一月前くらいだったか…おとうさん、夜に寝れないとベランダに出て外眺めてたりしてるんですよ。そのうち、夜になるとこの崖のあたりに猿が出てくるんだって言うようになって」
老人はぼんやりと崖を見上げていた。
「夜になにか出てくるんですか」
「たぬきとかハクビシンなら結構いるみたいだから。そこら辺でしょ」
女性は鼻先で笑ってそう言うと、改めて探るように2人を交互に見た。
「なに、あなたたち、警察の人?」
女性の小さな目に好奇心が満ち溢れている。
「いえ、実は…警備会社のものなんですがね、この近くの事業所さんから近所で物騒な事件が起きてるから、ちょっと調べて欲しいと頼まれまして」
女性は明らかにがっかりした顔になった。
「すぐそこの建物なら、警察にいろいろ聞かれたんじゃないですか?」
相変わらず、柔らかな物腰で須藤が尋ねると、女性はますますがっかりした顔になった。
「それがねぇ、私、娘のところに泊まりに行っててあの日いなかったのよ。お父さんはショートステイに預けてね。ほら、おとうさん、こんな状態でしょ。たまに私も息抜きさせてもらわないと…ほら、おとうさん、そっちじゃないってば!」
老人はトボトボとした足取りで、駐車場の奥へ向かおうとしていた。小刻みな足の運びなのに、思いのほか早い。あまり足を上げないので、足音もしなかった。
さっき、近くにいたのに気づかなかったのはこのせいか、と隼也は納得した。
女性よりも早く、須藤が老人に駆け寄り、そっと腕を取った。
「娘さん、心配されてますから。お家の方へ行きましょう」
ぼんやりと須藤の顔を見て、女性の方を見る。
「この人たち、猿、捕まえにきたの?」
女性はうんざりした顔でため息をついた。
「はは、捕まえませんよ。おとうさん、猿見るの好きなんですか?」
須藤は笑いながら、老人の耳元に大きな声で聞いた。
須藤に促され、方向転換しながら老人はまだ須藤と娘の顔を見比べている。
やがて、崖の方を震える手で指差した。
「猿はねぇ…ジャンプするの。ああ、大したもんだよ…」
須藤を見る老人の頬がヒクついたように動き、瞬間、笑みが浮かんだ。
「そうなんですか。僕も見てみたいですね」
須藤の言葉に老人は何度も頷く。
「夜だよ。夜、来なさい」
おとなしく須藤にみちびかれ、自宅の方へ向かいながら老人は言った。女性は諦めたように黙っている。
自分の話を聞いてもらえるのが嬉しいのか、老人のぼんやりした目に光が戻っていた。
更に何か説明しようとするのだが、どうも不明瞭な発音と訛りであまり要領を得ない。それでも須藤は老人の話に付き合いながら、老人の歩みに手を貸していた。仕方なく、隼也も後に続く。
「すみませんねぇ。お父さんの猿話に付き合わせちゃって」
2人の自宅だという、一階の玄関先まで送ると、女性は何度も頭を下げながらそう言った。
「桜木くん、退屈だと思ってるでしょ」
車へ戻りながら、須藤がからかうような口調で言う。正直図星だが、一応、取り繕って
「いえ、そんなことは…」
と、答える。
せっかく引越しの片付けから開放されても、今のところ、渡された資料の情報をなぞるだけの行程だ。
対して収穫のない事務員の話、どこまで正気かわからない老人の猿の話。
「でもねぇ、これが案外、面白い情報につながってたりするんだよ。ま、九割がたは無駄話だとしてもね」
「はあ、そういうものですか」
タチの悪いイタズラ、と片付けられそうな一連の事件にウィンガーが関わっている気配を、隼也は感じられなかった。
ナビを見ながら、車を発進させた。
団地の敷地内から出て、一旦西へ。そこから南側へカーブした道へ入る。
ゆるやかな登り坂は目的の地区へ向かうために左折すると、一気に急勾配の登りになった。
「うわ、キツイ坂ですね」
ハンドルをきりながら思わず隼也は口にした。
「雪降ったりしたら、大変そうですね」
助手席の須藤はニヤニヤしている。
「ここ、スケボーで下ったんだろ。大したもんじゃないか?」
隼也も、そうかとハッとした。
「大したもんていうか、命知らずですよ」
今、曲がってきたところはT字路になっている。この坂をまっすぐ下ってきたら、向かいのブロック塀に衝突の可能性大だ。深夜とはいえ、車も通らないとは限らない。
(やっぱり、若い無鉄砲なヤツじゃないとやらない芸当だな)
自分なら、十代の時でもそんなマネはしなかっただろう、と隼也は思った。
そんな急な坂道とはいえ、両側には住宅が軒を連ねている。住宅地として開発されてから随分経つらしく、だいぶ年季の入った家が多い。
歩いている人は全くいない。小さなクリーニング店や工務店の看板を出している建物はあるが、コンビニすらない。車がなければ生活が成り立たない場所だ。
脇に入る道はいくつもあるが、そのどれもが上ったり下ったりと、平らな道路は一つもない。
坂を上りきる頃になると、両脇の住宅地の様子が一変した。
「うわ・・・」
隼也は思わず声をもらし、須藤も身を乗り出して眉をひそめた。
その一帯はまるでゴーストタウンだった。
平屋の同じような形の家がいくつも立ち並んでいる。そのほとんどが窓にベニヤ板を打ち付けられ、庭では雑草が好き放題に伸びていた。中には屋根まで雑草に覆われている家屋もあった。
空き家になってから相当の年月が過ぎているのだろう。まず、家のデザインが古い。壁や屋根はもともとどんな色だったのかもすでにわからないほど色褪せ、雨樋もボロボロだ。
今日はよく晴れて、穏やかな日差しが終始降り注いでいるのだが、この一角はなにか寒々しい空気で満たされていた。
「・・・住んでる人もいるんですね」
廃墟群の中に一軒の洗濯物が干されている家を隼也は見つけた。だが、庭は草がぼうぼうと生えている。建物も他よりいくらか見てくれはいいものの、外壁の塗り直しなどしていないらしく、周りの廃墟から浮いた様子はない。洗濯物がなければ、住人がいるとはすぐに分からなかっただろう。
気をつけて見ると、窓にカーテンがかかっている家や庭に畑が作られている家がチラホラ見えた。
「よくこんなところ住んでられますね」
建物の古さとか、足の便の悪さうんぬんより、この住宅地全体の感じが、もう人が快適に住める場所とは言いがたい。治安だってよくはないだろう。
「杉の杜ニュータウンとして最初に開発された一角らしいね。当初から評判は悪かったみたいだけど。ああ、ここら辺で停めて」
資料とナビを見比べていた須藤が指示した場所は、こじ開けられそうになったという、空き家のそばだった。
別に他の建物と比べて違いがあるわけではない。規制線が貼られているわけでもなく、あかりが詳細な場所を調べてくれてなければ、同じような廃れた建物の中らから探し出すことは難しかっただろう。
住宅地のはずれで、家の北側は鬱蒼とした藪だ。家の敷地内の草木と混然一体と化して、暗がりで見たらお化け屋敷そのものに違いない。
まあ、ただ単にイタズラをしたかったなら、うってつけの場所だ。人気はないし、扉や窓を壊されたところで文句を言う人間もいるまい。現にスプレーで落書きされている物件も多数あった。
隼也がふと首を回すと、道の向こうからこちらを睨むように見つめている老人と目が合った。人がいると思ってなかった隼也は一瞬ひるんだ。
老人は軽くびっこをひきながら、それでも挑むような勢いでこちらへ歩いてきた。
「あんたたち、なにしてんの!」
最初からケンカ腰だ。痩せて黒々と日焼けした顔には敵意にも似た眼差しがあった。
反射的に隼也が一歩前に出ようとするのを制止して、須藤が前に出た。
「こんにちは。私達、警備関係の仕事をしてまして」
スマートな物腰で名刺を相手に差し出した。穏やかな笑顔に不意をつかれたのか、老人に戸惑いの表情が浮かぶ。
訝しげに名刺を受け取り、目を細めたり、名刺を前後させたりしながら、
「える・・ぶろ・・ぷろて・・あー、プラロテクト?か?」
老人は無遠慮に目の前の2人を頭から足元まで眺め回した。
「なに、こんなとこの警備たのまれたの?」
不信の色を隠そうともしない。
「いえ、実はこの付近で空き家を狙った事件が続いているということで、市の方で対策を考えておられるようでしたね」
須藤はにこやかに作り話を始めた。
「ただ、どのくらいの費用がかかるかわからないと、上の人にも提案が出来ないそうで、知り合いから個人的に見積もり、というか視察を頼まれまして」
老人はあからさまに顔をしかめた。
「今更、役所の連中がこんなとこに金かけるかよ。オレら追い出そうっていう算段か⁈」
須藤はひるまなかった。
「こちらにお住みですか。ここの空き家がイタズラされた件、ご存知ですかね?」
「ああ、オレ、第1発見者だもの!」
相変わらず、口調は荒いが、どことなく得意げな響きが隠れているのを須藤は聞き逃さなかった。
「犯人を追跡して、通報された方ですか」
少し大袈裟なくらいに賞賛の笑みを浮かべ、驚いた風を装ってみせる。
相手は案の定、表情を緩めた。
「ぜひ、その時の状況、聞かせてもらえませんか」
隼也は須藤の後ろで、同様の微笑みを見せるよう、心がけて立っていた。ここは口を挟まず、須藤に任せればよさそうだ。
2人を見比べ、やがて老人はぐっと胸を張った。
「まあ、警察にも何回も聞かれたんだけどね・・・」
今野、と名乗る老人はすぐ近くの家に住んでいた。来年で80歳になるという。須藤がとてもそんな歳に見えない、というとすっかり気を良くして自分から喋り出した。
「出来た時から、空き家ばっかりさ。こんな不便な場所。若いうちはなんとかなっても、年取ったらみんな出て行くよ。そんでも、大した事件なんか起こったこともない。空き家に悪さされるようになったのは、外国人が増えてからだよ」
今野老人は東の方へ顎をしゃくった。さっき登ってきた住宅地の反対側の斜面の方だ。
今いる場所からは廃屋群しか見えない。
「ここをこじ開けようとしてたのも、外国人だったんですか?」
「多分そうだろ。こんなとこで何する気だったんだか」
別に証拠はないらしい。暗くて、顔まではっきり分からなかったことは老人も認めた。
それから、どんな風に自分が2人組を追跡しようとしたか、事細かに語り、更にはこの地域に自分がどれ程貢献してきたかを滔々と語り出した。
正直、隼也はあくびが出そうなのをこらえるのに必死だった。須藤は思惑があるのか、話を遮ろうともせず、うまく相槌をうっている。
「いろいろと参考になりました。また、何かの折にはご意見伺いに来るかもしれませんので、よろしくお願い致します。ただ、今のところ内々の調査なので、私どものことは口外しないでいただけると・・」
やっと話を切り上げたのは30分以上も経ってからだ。
「ああ、構わないよ。あんたらも面倒な頼まれごと、したもんだね。ご苦労さま」
最初のケンカ腰はどこへやら、今野老人は愛想よく手を挙げて車を見送った。
先ほど、老人が顎で示した方向へ車をむける。
登ってきた道よりはいくらかなだらかに見える斜面に、3、4階建てのアパート群が並んでいるのが見えてきた。
ごくシンプルな作りのクリーム色の建物。近くまで行かなくても、結構古い物件であることは分かった。
道を下りながらアパート群の脇をゆっくり通り抜ける。敷地内の駐車場には走り回る子供たちが見えた。
「確かに外国人の子供、多いみたいだね」
先ほどの市営団地よりも子供の数自体も多そうだ。
ザザーッと後ろから音が近付いてきて、スケートボードの男の子が車の脇を通り抜け、駐車場の方へ曲がっていった。まだ、小学校の低学年くらいだろうが、なかなかのバランス感覚だ。すぐ後ろから、同じ年頃の女の子が2人、キックボードで付いていったが、こちらもものすごい勢いで曲がっていった。
ゴーストタウンと化した上の住宅地と比べるまでもなく、この団地には活気と明るさがある。子供の笑い声がそれを象徴している。
「最近、ああいうボード系の流行ってるみたいですね。体育の授業でも取り入れられているとか」
「うん、バランス感覚養うのにいいらしいね。あのくらい小さい時からやってれば、あの坂も楽勝で下れるものかな?」
須藤は案外真剣に考えているようだった。
「いや、どうでしょうね・・・」
隼也が苦笑する横で須藤はじっと子供たちを目で追っていた。
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