中編

男は、芥川先生を和尚のいる和室に案内しました。


和尚は芥川先生に会うのが待ち遠しかったのでしょうか。和室に入った時、和尚の首が天井を突き破るほど伸びていたのでございます。男はこれは悪いことをしたと感じました。


「大変お待たせいたしました源信様。芥川先生が参りました。」


「遅くなって申し訳ございません。でも源信様が本日お見えになるのでしたら、予め私の作品に出てくる河童や芋粥の狐に伝えていただければすぐに駆け付けましたのに……。」


首が天井を突き破っていたので、聞こえているのかどうか分かりませんでした。しかし、次第にするすると首が下りてきまして、通常の人間の首の長さまでになりますと、「鼻の長い病気持ちの坊主と鉢合わせになるからいかん」と一言告げましたので、聞こえてたのかと拍子抜けしました。


「それより、儂の話を聞きたかったのではないのか。」


「そうでした忘れていました。ねえ芥川先生。」


「ああ、そうでしたねえ。」


これ以上、源信和尚の機嫌を損ねない方が良いと考え、芥川先生は和尚の隣に、男は机を挟んで向かいに、それぞれ正座することにしたのでございます。


「さて、話始める前に少し奴にも伝言しておかないとのう。」


和尚が人差し指を立てると、和室の欄間に彫られていた鶯が「キーキー」と鳴きながら近づいてきました。そして、その鶯に向かってフーッと息を吹きかけると、木彫りの鳥は、和室に掛けてあった山水画の絵の中に入ってゆきました。


「誰に伝言を?」芥川先生が尋ねました。


「まあ直に分かる。さて、でその儂が坊主巡りをしている最中に出会った蟹についてなのじゃが……。」


ここで、和尚の語りが入ります。


***


あれは、儂が東海道の難所とも呼ばれる鈴鹿峠辺りを歩いている時じゃった。そろそろ近くの集落に差し掛かるであろうというとこで、小川が流れておった。


その川の上流の方から坊主がいるような気配を感じたのじゃ。まあこんな山中に坊主がいるというのも何だか妙、それに修行をするにしてももう少し厳しい山中でするのが普通とは感じたのじゃが、なんとなく儂は上流に向かって歩を進めていたんじゃ。


しばらく歩き続けると、濁った沼があった。


(こんな所に坊主が?)と不審に思いながらも、沼に近づき、中を恐る恐る覗いてみようとしたのじゃよ。そしたら、儂の首の両隣にするどい刃のようなものがスススと沼の中から現れたんじゃ。はてと思っていると、その二つの刃は勢いよく私の首を挟み切ろうとしたのじゃ。


「ふひゃあ!」


間一髪で避け尻もちをついてしもうたわい。二つの刃は、『ジャコンッ!』という鉄が弾くような音をしてぶつかったんじゃ。危うく自分の首が斬られるところじゃったまあ、斬られたとしてもすぐに儂の胴体から生えるんじゃがな。


「チッ!」


「舌打ちする前に謝ることが先決じゃと思うがのう。」


「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何?」


「人が謝れ言っているときに変な問答を出すな!」


「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何?」


「聞け!」


「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何?」


「蟹のくせに人の話も聞かんのか!」


すると、相手は「分かってんじゃねぇか!」と普通に答えてきおったんじゃ。きちんと答えてくれたことがうれしかったのじゃろう。


そしたらなあ、沼の名からザバァという水しぶきをあげ、奴が出てきたんじゃ。翠色の苔を体にまとい大きな鋏が二つ、目と目が天に伸びた生物、巨大な蟹そのものじゃった。


「蟹であるお前さんは、人を喰いまくることで自分自身が満たされると思っているのか?それが生業か?」


「満たされてもねぇし、こうするしか生きられねぇんだよ。腹は毎回減るしよぉ。鋏で人を斬るときもあったが、泡を出して人を溶かす時もあった。それでも満たされねぇ。」


「ならば、別のことに意識を向けてみてはどうかな?お前さんは、そうやって人を傷つけることばかりしていると周りから忌み嫌われる存在となるじゃろ。」


「知った口をきくな!」


いらついたのか、大蟹は巨大な鋏を儂にめがけて振り下ろしおった。しかし、同じような手は食わぬわい。残像を作って瞬時に避けた。先ほどの尻もちをつくような無様な避け方はせんかった。


「スキンヘッドのくせにやるじゃねぇか。」


「お前さんも図体はでかいのに動きは遅いのう。」


「くそがっ!」シュバッ!


今度は、蟹が泡を儂に向けて吐き出しおった。泡の出す速さは鋏を振り下ろす時の速さよりもそれほど速くなかったので、容易に避けれるもんじゃった。しかし、泡から複数の巨大なシャボン玉がふわふわと出来ていき、儂の周りを囲んできた。


「へっ!逃げらんねぇだろう。」


これは、いささか参った。迂闊にシャボン玉に触れて割れてもしたら儂の体が溶けてしまう。じゃが、儂は自身の体を自然と一体になる『無為自然』という術を修得していたんじゃ。自身の体を蟹の泡と同化しその窮地を抜け出すことが出来た。


「あんたすげぇな!」蟹は驚いて、泡を吐くのをやめた。


「あんたみたいな奴だったら俺の悩みも解決できるかもしれねぇ!」


何がどうなって、蟹の満たされない悩みというものを解決できるのか分からんかったが、まあ人を喰うことをやめるのならいいかとその時は思ったんじゃ。すると、蟹は下を向いて少し恥ずかしそうに言ったんじゃ。


「実は恥ずかしくて言えなかったんだが、甲羅の内側が痒くてしょうがねぇんだ。俺が人を喰うようになったそもそもの原因がこれなんだ……。」


痒くて人を……、どういうことじゃ?


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天上人源信覚書 枝林 志忠(えだばやし しただ) @Thimimoryo

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