第3話
脩一はベランダのデッキチェアに寝そべって花子のことを考えていた。
一人冷えたワイングラスを傾け、夜空の星を眺めながら、思いつくままあれこれ頭を巡らすのもたまにはいいものだ。
今夜の小説家養成講座の第一回オンライン講座になぜ加奈子が駆り出されたか知らないが、どうせくだらない吹けば飛ぶようなどうでもいい理由だろう。まぁ、花子にとっては必要不可欠だったのだろうが――。おそらく今頃は、講師のH.K相手に、必死にパソコン画面に喰らいついているのだろう。
「私が呼ばれた理由? 知らないわ。たぶん、というか絶対に文章を書く手伝いだと思うわ。だいたい花子が小説家養成講座なんて無謀すぎるのよ」と加奈子は言いながら出て行ったが、まったく確かにそうだが、あの白いシーツは一体何に使うんだ?
修一は体を少し起こして、ワインを一口飲んだ。冷たい液体がのどを滑り落ちてゆき、柔らかい夜風が頬を撫でて通り過ぎてゆく。
ふと、これでよかったのだろうか……と、そんな思いが胸の奥でかすかにうずく。それは小さな小さな後悔のようなもので、それを認めるとすべてが崩壊していくような気がして、無いものにすべく頭を振って払拭させた。
そういえば、ちょうど十年前、加奈子と結婚することを花子に報告した時も、こんな星がきれいな夜だった。
あの時、修一の話を聞いた花子は、脩一の目を見つめたまましばらく無言でいた。驚いているのか感動しているのかわからなかったが、大きく見開いた目がだんだん潤んできて、瞳の中に星屑が散りばめられたようにキラキラ輝いていた。きれいだった。そもそも整った顔立ちの花子だが、それにも増してその夜は美しいと思った。
大好きな兄が、高校時代からの大親友の加奈子と結ばれる。感極まって祝福の言葉を発することができないのだろうと思い、修一は花子の言葉を優しく待った。
やがて花子の両目から大粒の涙があふれ出て、次から次へとこぼれ落ちた。真珠を生む人魚のようだった。脩一は花子の肩にそっと手を乗せて微笑んだ。花子はその微笑みを飲み込むように大きく深呼吸を一つして、小さい声で囁いた。
「ぅら…り……」
「ぇっ?」
聞き取れなくて脩一は聞き直した。
少し間をおいて、花子は一字一字息を吐くようにゆっくり言った。
「う、ら、ぎ、り、も、の」
まったくの予測不能の漆黒的な言葉に、脩一は戸惑うよりも頭が真っ白になった。
花子はもう一度、今度ははっきり言った。
「うらぎりもの」
言葉の意味はわかっても、その深意が理解を超え過ぎていて訳わからなくなった。頭が真っ白のまま「ぇっ?」とまた言っていた。
花子は言葉を発したのと同時に堰を切ったように幼子のように泣きじゃくり始めた。
「私、お兄ちゃんのお嫁さんになるって言ったよね? お兄ちゃんもいいよって言ったよね? 約束してくれたよね? あれはうそだったの?」
「ぇっ?」
いつも冷静沈着で問題解決能力がずば抜けて高い脩一だったが、今回は違った。
高度な不意打ちに遭い全身の血液がストップしてしまったような、そんな感覚でうろたえた。
「あ、あれは、仲良し兄妹の戯れというか、言葉の綾というか、そうだろう? あんなの真に受けるヤツどこにもいないだろう?」
「ここにいるじゃない! 真に受けてよ! 私、小さい頃からずっと言ってきたよね? お兄ちゃんと結婚するって言ってきたよね?」
「言っても、通用しないだろう? 普通、兄妹は結婚しないだろう? できないだろう? そのくらいわかるだろう?」
「普通はね」
「普通はね?」
「私、知ってるの」
「何を?」
「お兄ちゃんと血の繋がりがないこと」
「……」
「高校の時、お兄ちゃんが養子だって知っちゃったもん」
「……」
「だから、普通の兄妹じゃないもん」
「……」
「ショックでその夜は一睡もできなかったし、その日から世界が変わったの」
「……」
「誤解しないでね。喜びのショックだから。だって、お兄ちゃんとの結婚が夢ではなくなったのよ。希望を手に入れた気分よ。運命に感謝したわ。世界中のしあわせを一瞬で手に入れた気分だったわ。こんなことがあるんだって」
「……」
「それを、一瞬で手放せって言うの?」
花子は真剣だった。修一は事態は飲み込めても、なおも思考能力ゼロに近かった。ただ、適当な返答はしちゃいけないとだけはわかった。
「たとえ血の繋がりはなくても、俺たちは兄と妹だろ? 花子は生まれた時から俺の妹で、俺は花子の兄だ。そうやって育ってきたし、それはこれからもずっと続いていく。俺は花子を妹として誰よりも愛し続けるよ」
「愛しているならいいじゃない」
「妹としてだ。女としてじゃない」
「なんか、残酷な言葉だね」
「なぁ、花子……」
脩一は花子を椅子に座らせた。その真ん前に自分の椅子を持ってきて座った。
「花子は愛を混同しているんじゃないな? 家族を愛すること、友達を愛すること、恋人を愛すること、それぞれの愛の違いがわからなくなっているんじゃないかな?」
「その違いくらい私にでもわかるわよ」
「いいか、今、俺は花子の前に座っている。こんなにも接近してだ」
脩一は身を乗り出しては花子の顔を覗き込んだ。
「今、ドキドキするか? ぜんぜんしないだろう? それが兄妹だ。男女の仲はそうじゃない。わかるか?」
「お兄ちゃんは何もわかってないね」
花子は長いまつ毛を伏せて寂しげに言った。
「ドキドキなんてね、もうとっくに卒業したよ。ずっと一緒なんだからいつもドキドキしていたら心臓破裂しちゃうよ。全身全霊でお兄ちゃんのこと想ってきたんだよ。深い愛。マリア様の境地よ」
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