最終話

目が覚めると、そこは天国か地獄か。はたまた病室のベットだろうかと思うように、いのるは朦朧としていた。


目の前には真っ赤に広がった血と倒れている浜瀬はませ、取り囲むたくさんの人。


「なんで」


浜瀬の手がいのるの方に延ばされた、ボクはその手を掴もうと手を伸ばした。血で滑ってうまく掴めない。両手で浜瀬の手を握る。


「まるさん、救急車がくるまで浜瀬さんの近くにいてあげてください」

後ろから達熊たちくまさんが声をかけてきた。霜村しもむら副店長も、八ヶ岳やつがたけ店長もここにいる。


「…おかしいよ、だって」

ボクはデビルに頼んだんだ。ボクの命の代わりに、浜瀬を助けて、ってだからこんなんおかしいじゃないか。

「嘘だよ、こんなの」

こんな現実みたいなことが続くわけがない。父が死んでから誰もボクらを助けてくれなかった、父の建ててくれた大好きな家を捨てて転校して兄たちは友達とだいすきだった学校を失って、ボクに対する言葉もキツクなって、ボクには友達もいなくて、おかあさんは仕事で忙しくてご飯だっていつも、ボクたちで炊いたかたくて焦げたご飯と朝5時におかあさんが作ってくれる油揚げの煮ものだった。夜遅くまでおかあさんは帰ってこない。だれも、助けてくれる大人なんていなかった。

兄たちもボクも学校に行けなくなって、いままでとちがう物語の映画が始まったようだった。それでも家族はみんな笑っていた。笑っているしかなかったなかったから。


ボクはうまく大人になれる気がしなかった。恋をしても、男の人と付き合ってもなにがいいのか分からなかった。ただ相手に従ってそれでもなにかあると怒られて、自分がなくて人に従ってばかりの喧嘩すらできないおまえにいらいらすると物を投げるように言葉をぶつけられた。気が付いたら子どもができてしまって、おろして、すべてがどうでもよくなって、あの山手線のホームから飛び出してしまいたかったんだ。

ボクは死にたかった。


「デビル!見てたんでしょう!!ボクの酷い酷い人生を!!」

ボクは混乱して叫んでいた。

「まるさんしっかりしてください」

達熊さんがボクの肩をしっかりとつかんだ。ボクは涙があふれた。

「ボクのこの酷い人生をあげるから、代わりに浜瀬を」

ボクの友達を助けて、ボクのたいせつな、はじめての友達なんだ…おねがいします…

浜瀬の手がぎゅうっと握り返した。血のべったりついた床にすがりついて浜瀬の顔に近づいた。

「いのる、ごめんね。私、ずっと死にたかった」

「浜瀬なんで、なんで浜瀬がそんなこと」

「前の仕事で失敗してから、ううん、多分もっとずっと前から、なんども死に場所を探していたの」


遠くで救急車のサイレンの音がした。救急隊員がすいません道をあけてくださいと声をあげて近づいてくる。

「どうせ死ぬなら、大っ嫌いな奴に迷惑かけてやろうって思って、あいつといっしょに死んでやろうかと思った。だけど」

「浜瀬、死なないよ。浜瀬は死んだりしない」

「いちばん、だいきらいなのは私だった。私を殺してやりたい」

「浜瀬ぇ」

「いのる、私は」

達熊さんがぼくの肩を持って立たせた。救急隊員が浜瀬を担架に乗せる。ボクと浜瀬の手は離れた。

「あなたに恋をしていた」

運ばれていく、浜瀬に何もできないボクたちはただ、起きてしまったことをただただ後悔するだけだった。


どこで?


どこでまちがったの?


どうしていればよかった?


ボクに何ができた?


なんで浜瀬は窓から飛び降りなきゃいけなかったの?


病気?なんで?





「達熊さん…ボクは、どうしたらよかったんでしょう…」

達熊さんはボクの両肩をしっかりとつかんだまま立っていてくれた。

「だれにも、どうすることもできません。神も死神もいはしない。だれにも、できないんです」




それから、ボクたちは警察に話を聞かれた。


警察が救急隊員から聞いた話では浜瀬は、職場には隠していたけれど精神病を患っていて通院歴もあり投薬もしていた。その左の腕にはびっしりと自分を傷つけた跡があったそうだ。夏でも長袖を着て「寒がりだから」と困ったように笑う浜瀬の顔を思い出して。ボクはまた泣いてしまった。


この件は、躁うつ病を患う女の子の自殺という事でかたずけられた。事件性はなく彼女が衝動的に起こしたことだったと。





数週間、ミミさんもボクもしばらく仕事を休んだけれど、また自然とこの店に戻っていつものように忙しく働いた。八ヶ岳店長はそれから数年後に退職されて、霜村副店長はかわいいお嫁さんと結婚したあと、店長としてずっとこのお店にいた。


山田先輩は、こっそりと書き続けていた漫画で小さな賞をとって漫画家の道に進んでいった。一度だけお店でサイン会を開いてくれたけど、あいかわらずぶっきらぼうな山田先輩が照れくさそうに色紙にサインをして置いて行ってくれた。「接客の苦手な自分と一緒に働いていただいてありがとうございました」と丁寧に頭をさげた。達熊さんはボクとミミさんが休んでいる間に朝から晩まで働いて、ボクたちが戻ったときに突然仕事を辞めた。どこかで小さな珈琲店を開いてご婦人たちの話し相手になりながらのんびりと過ごしているらしい。とても似合っていると思う。


あの日から10年たった今日までボクはこの仕事を続けて来れた。だけどいろんな出版社が倒産して、ネット販売が主流になったり、電子書籍が流通したこともあり、時代の流れというように今日、この店は閉店する。ボクの大好きなお店。あのあと、あのちいさなおっさんは姿を見せることはなくなった。それからどこでどうしていたのかボクには分からないけれど、そんなことはどうだっていいことだった。


駅ではいくらかの人々が、その命を終わらせることに利用する。浜瀬のことだってたくさんあるうちのひとつのようにお客さんや浜瀬を知らない人は、あの日のことをすぐに記憶から消していった。誰かの記憶はすぐに消える。それを消すのはきっと自分なんだ。


2021年6月16日、今日なくなってしまうこのお店の記憶をボクはなくさない。浜瀬のことも、ここで起きた不思議な日々のすべてをボクは覚えているよ。


「浜瀬、きみがボクに言ってくれたこと。ボクは忘れない」







これからいのるは10年も働いたこの店の最後の1日をはじめる。それがどんな物語になるのかをまだ誰も知らない。いのるがこれからどんなふうに生きるのかも、まだ決まっていないことだ。あの「デビル」が一体何者だったのか、あなたには分かるだろうか。いつものようにいのるが作り出した妄想だったのか、それとも死神には命を与える力も奪う力もなかったのか。


なぜ、浜瀬を助けてはくれなかったのか。もういのるはそのことを考えたりはしない。だけどいのるをずっとそばにいてみていてくれた人のことをたまに思い出すんだ。


喫茶店のカウンターで達熊さんが珈琲をいれている。細めた目でにっこりと笑う。細口ケトルをもつその手の指はすこし細くて長いようだった。珈琲のいい香りが店内を漂った。









今日閉店してしまうボクの大好きだった書店とあのとき共に働いてくれた人たち、出会ってくれたお客さんたち、人間のどうしようもないほどよわいぶぶんに愛をこめて花束を。コロナで最後のお別れにいくこともできないから、このお話しを花束に代えて、あなたに捧ぐ。



ありがとう。さようなら。












この物語はフィクションです。実際の人物や団体などと関係はありません。

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双極性障害Ⅱ型の女の子は、記憶を無くしながら恋をする。 @FunasawaAzusa

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