第8話
「シモムーの匂い?」
「そうそう、たぶん香水かなにかつけてるよ」
「ふーん、お洒落さんですねぇ」
仕事を終えたいのるとミミは休憩室にいた。従業員用のエプロンをたたんで、ご自由にどうぞと書かれたウェットティッシュをひっぱって乾燥した指先をキュッキュっとふいていた。
「おしゃれって言うかすかしてるって言うか…」
「ミミさんは香水嫌いなのですか?」
「嫌いって言うか香水付けるやつが苦手って言うか…」
「ほぉ。香水ってなんか男の人も女の人も大人だなぁって感じがします。かっこいいです」
「大人ねぇ…時と場合と種類と量かなぁ…」
「おさきに」
すーッと件の
「おつかれさまです」
「さまー」
ミミさんが苦虫をもぐもぐするような顔をしている。
「足音しないのに匂いがするんだよなぁ…バイトよりも遅く現れてバイトよりも時間きっちりに帰る男…」
匂い…クンクン…ふわっとインドのお寺のような匂いがした。
目の前が真っ白になる。
「いのる、仕事決まったの?」
ボクの前をすらりと伸びた長身の青年が歩いている。ボクのニ歩がその人の一歩のようにふわっと風みたいに歩いている。ゆれる、かぜが、おきる。
「おめでと」
「ありがと」
「なんの仕事?」
「本屋だよ、すぐそこの。駅の本屋さん、毎日通ってるでしょ?」
「ああ、あそこね」
「そう、あそこ」
「緊張してる?」
「…ちょっとだけ」
「だあいじょうぶだよ、いのるなら」
大きな手がボクのあたまをわしわしと撫でまわした。
「まあでも、がんばりすぎないようにね」
「だめになったら、どうしよう」
「うーん」
「また失敗したら」
「まあ」
「また迷惑かけたら」
「そんとき、そんときだよ」
「そんな、てきとうな…」
「そんときは泣いて帰ってくればいいよ」
いつだってボクの前を歩いていた。ボクの先を、未来に引っ張っていくように。ボクはいつだって置いて行かれないようにその長い歩幅についていくのに必死だった。
こっちをみて細くて長い指がボクの前に伸びてきた。ボクはその手に飛びつくようにしがみついた。
「いなくならない?」
「ならないよ」
「どこにもいかない?」
「いかないよ」
「うまくいかなかったら」
「それでもいいよ」
「…がんばる」
「いいこだ」
「いいこだね、いのる」
いい子だって…
「ボクはそんな子どもじゃないぞ!!」
「わあ、なにまるこ。どした?」
「ミミさん、シモムーの香水はインドのお寺ですね」
「あははは、いいねーそれ」
「はい」
「帰ろっか」
「はい」
ガチャっと休憩室からでたボクらの前に急に小さな影が現れた。
「わ」
「ひゃっ」
小さな…大人?霜村副店長よりもちびだな。仁王立ちしてにやにやしながらこちらを見てくる男の人は身長130センチくらいの小柄の男性、小学校低学年くらいで手足も短くマスコットみたいにも見えるけれど顔はおっさんだ。
「げ」
ミミさんが怪訝な顔をした。
「耳田さん、お仕事終わりですかぁ?おつかれさまです」
「失礼します」
なんだこいつ?お客様?従業員に仕事終わって私服なのに話しかけようとする人なんて初めて見た。いのるはじーーーっと相手を凝視した。
「ん?ああ、お前こないだぶつかって変なこと言ってちゃんと謝らなかった失礼なやつ」
だれだ?ボクこんなちいさい大人にぶつかったことあったっけなあ…記憶にない。
「思い出せないや。ミミさん帰りましょう。なんか本買って帰りますか?」
「いや、帰ろう」
心なしかミミさんの顔色が悪い。
「大丈夫ですか?どうかしました」
「なんでもない、そのまま歩き続けてくれ」
カウンターの達熊さんに頭を下げてボクとミミさんはお店を出た。
あの小さいおっさんはボクたちの方をじっとみていた。
「変なお客さんだなぁ」
「…あいつ」
「え?」
「いや、なんでもない。まるこ気をつけて帰んなね」
「はい。お疲れさまでした」
「おつかれ」
ミミさんはいつもよりも足早に駅の改札に入っていった。
どうしたんだろう…急に、トイレにでも行きたくなったのかな?
あのおっさんにどこであったっけ。と念のためにもう一度考えてみるけれど、どうしても思い出せないいのるだった。
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