第5話

「そうきょくせいしょうがい…ですか」

「そうだね、これまでは診断名がつかなくて、前の先生には統合失調症といわれたんだっけ」

…はい

「幻聴がでていた、と診断書には書かれているけれど。それは、他人から言われるような声がしていたのかな?」

「…いえ、他人の声というよりは自分の気持ちが大きくなってうるさくて抑えられないような、感じです」

「うーん、統合失調症の症状というよりは、強い鬱状態と、おそらく激しい躁ではないんだけど軽い躁が起こるⅡ型ということになるかなぁ。まわりもあまり気が付かないくらいのね。」

…はい

「そうすると、抗うつ薬は躁状態をひきおこすきっかけになるから、投薬を考えた方がいいね。合う薬を探していこう」

…はい

「なにかあったら言ってくれるかな」

「…はい、ありがとうございます」


もともと、浮き沈みの強い性格だと自覚はあった。続けようと思ったことが、うまく続かなかったり、死にそうなくらい強く落ち込んだと思ったら、急に楽になったり、何でもできるような気になったり。そんなことを人生の中で何度だって繰り返していた。それが、今更病気だからと言われたところで、私は楽にはなれなかった。


働き始めたばかりのだいすきな書店という職業でさえ、また、いつものようにうまくいかなくなった。理由はわかっていた、ある先輩から無視され続けていたこと、そんなことはどこの職場でもあって本当は気にせずにやり過ごすべきなんだって思っていた。


ただ、わたしは「そんなことがどこにでもある世界」が大嫌いだった。どこにいっても、だれかが泣いていて、どこにいっても誰かが傷ついて、どこにいってもだれかが我慢している。


いつだってそんな世界を見てきた。そしてわたしは何もできずに、苦しむ人たちに何もできず、世界も変えられず、どうせ何もできないなら見えなければいいのに、聞こえなければいいのに、そんなふうに考えるようになった。偉そうに何かを言ったところで強い相手にはかなわない。正しい声もどこにも届くことはない。だから諦めた。


そしたらいろんな声が聞こえるようになった。


お前みたいなのがいるから、世界がゆがむんだ。なにもできないくせに、なにかをしてもらおうと欲する。ずるいやつだな。自分では動かないくせに、自分をいつだって守ろうとするくせに。病気だっていいわけなんだろう。ほんとうは苦しくなんかないんだろう。自分はかわいそうだから、できないことがあっても仕方がないって言い訳がほしいんだろう。努力しないから、いや、しないんじゃない、できないんだって言いたいだけなんだろう。それを医者に証明してほしいんだろう。どうせ治らないんだ。こんなとこで話を聞いてもらったって無駄だよ。この医者の時間をうばうことが無駄だと言っているんだ。お前の代わりに救われるべき人間が救われなくなるぞ。それでもいいのか。どうするんだ。まだこの医者に何を言うのか。


やめて。もう、わかったから。もう。わたしはだめなんだって。言い訳なんだって。


もうなにも考えたくない。



私が三ノ國屋みのくにや書店を辞めたのは、そういうどうにもならない、つまらない話し。あの先輩はわたしの何が気に入らなかったのかなぁって考えても、分かるわけないし。そういうのはどこにでもある。それに対応できない自分が悪いんでしょう。順応できない自分が弱いんだって、負けてるんだって思ってた。


だけど私は、自分のことを守れくてもいいけど、やっぱりこの世界が人を傷つけてもただ回り続けることが嫌だった。

私だって、優しいだけじゃなく、怒ったり、わめいたり、あんなに不憫な行動なのに自分の主張をつづけるいのるが、とてもうらやましかった。


いのるには私がなにかを教えているように思ってるみたいだけど、本当はわたしがいのるにあこがれているだけなんだ。自分が傷つくことを恐れずに、正しいことに向かって生きてるあの子を、みんながそのことに気づかずにあの子のことを笑うから。

私はいのるにあのままでいてほしくて、悪いものたちから守りたかった。


きっと、いのるには私がそんなふうにアドバイスをする必要はなかったんだけどね。ただ私が、いのるのそばにいたら、あの子の勇気が、少しは自分にも湧いてくるんじゃないかって思った。どんなに強い立場の相手にも自分の信念を曲げることなく、言葉なんかで胡麻化さずに、まっすぐに、やめてくださいって声をあげる勇気を。





「まるちゃん、ごめんね。わたしはずごくない、弱い人間なんだ。」






いのるみたいになりたい。だから、私ももう今度こそ逃げないってきめた。






浜瀬は初めて行った精神科で統合失調症と診断されてたくさんの薬をだされた。

なんだかあまりの量に「ああ、これを飲んで死んでしまえばいいだね」ってどこかから声がして。気づいたら出された薬をラムネ菓子のようにかみ砕いて飲んでいた。量なんて覚えていない。もう明日も明後日も三ノ國屋にはもどりたくなかった。


わたしを無視する人がいるなら、見たくないなら消えた方がいいなら、わたしは消えてしまおうって思ったんだ。でも薬を大量に飲んだってすぐさま死ねたりはしなかった。意識がちゃんとしないままふらふらして、浜瀬はコンビニで買い物たくさんして、朝起きたらお菓子とか本とか買った記憶のないものが部屋に散乱していて。とにかく頭が痛くて体がだるかった。それから何日寝てたのかわからない。


その日から浜瀬が三ノ國屋書店に行くことはなかった。





辞めたことに後悔はしていない。いのる、あなたに会えたから。わたしは変わろうと思った。変われなくても、変わろうと思ったんだ。




未来のことなんて、だれにだってわからないよ。だから、泣かないで、いのる。


いつもみたいに笑って、いのるの「世界はここにある」っていうような笑顔をみせていて。ずっと。ずっと。わたしがいなくても。ずっと。


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