10年前に戻ってからのテスト ①

 教室に到着して席に着くと、疲れている数分の間、担任の教師がやってきてホームルームが始まると、いきなりA4くらいの紙を配り始めてなんだろうと眺めていると、


「それが今月行われる中間考査の範囲だ」

 

 最近、ゆいのことばかり考えていて忘れていたのだが、そう言えば試験がたしか二週間後くらいまでに迫っていたのだった。


「皆(みな)、わかっているとはおもうが、わが校は進学校だ。高校生活が始まって恋や部活にうつつを抜かすのはいいが、勉強はしっかり行っておくように。10年後、困るのは君たちなんだからな」


 そんな妙に俺の心にずしりと刺さる言葉を担任の教師が言っているのを聞き流し、試験範囲を受け取ると、


「うげっ」


 思わず、そんな言葉があふれ出た。

 試験範囲広すぎるだろ……。まだ習ってない範囲も含まれてるじゃねえかこれ……。いまから教えてもらえるのかもしれないが、それにしたって広すぎる。

 この清水高校は県下でも有数の進学校である。

 つい一年前まで受験生として必死に勉強してきて有名大学や国立大学に進学することになるクラスメイト達と同じ土俵で戦わなければならないのだ。

 少し前の俺だったなら「何とか乗り越えないとな」などと考えて赤点を免れる程度に勉強して乗り越えていただろう。

 ただし今は違う。

 頑張ってゆいにふさわしい人間になると俺は誓ったのだ。

 その一歩目として勉強を人並み以上に始めることにしよう。

 もちろん勉強ができた程度で、彼女に相応しくなれるなんて思っていないが、何もない俺の手っ取り早く手を付けられることがそれしか思いつかなかった。

 一般的に勉強ができれば、人生を成功すると言われているのだから、多少は人生の成功率が上がると思う。

 まあ必ずしも成功するかといわれるとそれなりにいい大学を出てもブラック企業に就職したりすることもあると聞くので怪しくはあるが……。


 だから、医者か弁護士になること、それが今の俺の将来の目標だ。


 別に医者になって命を救いたいとか、弁護士になって正義の味方になりたいという明確な目標があるわけではない。

 ただ世間的に認められる職業といえば医者か弁護士になるからだ。

 例えば、有名人が結婚したとして世間的に報じられるのは医者か弁護士くらいだ。

 それに、世間的に認められているだけあって、給料も平均と比べて高いことは間違いないはずだ。

 もちろん、当然かなりの学力が必要になってくる。

 逆に言えば、学力さえあれば、世間様に認められる人間になることができるのだ。

 その上で、学校が始まって一回目のテストとはかなり重要である。

 経験上、一度目の試験で上位をとった人はなぜか常に上位に食い込み続ける確率が非常に高い。逆に一度目の試験で下位をとると、そこから這い上がって上位を目指すのは相当な努力が必要になると思う。

 なぜなのか理由ははっきりわからないが、途中から成績を上げるには基礎知識を詰め込み直す必要があるのもあるだろうし、どのような勉強をどれくらいすれば点数がとれるのかわかることができるのだろうか。

 理由ははっきりとは言えないが一度目のテストが大事なのは間違いない。

 俺は今度こそ未来を変えてみせると決めた。

 きっとこの中間テストが、人生を変えるための一歩目として相応しいだろう。

 まず10年前に戻ってからの最初の試験を精一杯頑張ってみよう。


   * * *


 その日の放課後、俺は学校が終わり電車で自分の家の最寄り駅まで帰ってくると、図書館によることにした。

 集中するにはまず環境を変えるのが、手っ取り早い。これは10年前に戻る前の本来の10年間で学んできたことだ。

 たまたま図書館が家の帰り道から少し外れるだけのところにあるおかげで、割と簡単に図書館によることができた。

 図書館の中は平日ということでそれなりに空いており、横長の席に一人で座ることができた。

5月前半でまだほんの少し蒸し暑くなってきたかなくらいの気温でまだまだ過ごしやすい気候だというのに図書館の中は空調がしっかりと効いているおかげで随分と過ごしやすい。

 それに周りに座っている学生や社会人が図書館にわざわざやってきて勉強しているのだ。勉強にきちんと集中している人が多い。周りがきちんと集中して勉強していると、自然と自分も集中できた。

 今日からテスト期間の間はこの図書館に寄って勉強しようと思いつつ、勉強を進めていると、すぐに手が止まった。


(……まずいな……)


 過去に戻れば、一度勉強した内容をやり直すだけだし、簡単にいい点数とれると思う人もいると思うのだが、実際に戻ってきて授業を受けた限り、そんなことは全くなかった。

 高校の授業の内容なんて10年前に社会人としてほとんど使用しない内容なので、必要としない内容を覚えているわけがない。

 そもそも俺は一応高認の資格はとったのだが、就職するために必要な資格ばかり重点的に勉強しており、最低限度の内容しか勉強していなかった。何なら中学の内容すらも忘れている内容も多い。

 それに10年前に戻ってもきっと何も変わらないだろうと思っていた時のこの前までの俺はバイトにかまけて授業中、それなりにしか集中していなかった。

 その時の俺をぶん殴りたいが、今から頑張って何とか追いつくしかない。

 化学や日本史は暗記が基本で数学は昔からの得意科目でそれなりにはなんとかなるが問題は英語や国語である。

 作者の気持ちを答えなさいとか作者が書いた文章だけで作者の気持ちがわかるんだよ。エスパーかよ……。

 そんなことを心の中で毒づきながら、四苦八苦しつつテスト範囲を進めていると、


「直人くん」


 そんなささやきに俺の耳元でびくっと体をふるわせてのけぞってしまう。


「ど、どうしてゆいがここにいるんだ?」


 驚きすぎて声をあげてしまうと、ゆいがそっと唇に人差し指をあてシーっと言った。


「周りに迷惑ですよ」


 そういわれて周りを見渡すと、近くに座っていた社会人くらいの男がちっと小さく舌打ちをして一瞬睨みつけられたのがわかった。

 いや、ほんとに申し訳ない。

 俺でも図書館でいちゃついてる男女がいればこの社会人の男と同じような反応をするだろう。なんならしばらく粘着してにらみ続けるかもしれない。


「悪い」


 俺はとりあえず謝って声のボリュームを下げると、ゆいが再び俺の耳元に口を近づけてきて、


「隣、座っていいですか?」


 ゆいの吐息が俺の耳にかかった。


「あ、ああ」


 俺がどぎまぎしながら頷くと、ゆいは回り込んできて俺の隣の席に座り、勉強を進め始める。

 俺もできる限りゆいを気にしないようにしながら勉強をしていると、ゆいが俺に教科書を近づけて俺に見せてくると今度は先ほどとは逆の右耳に口元を近づけてきて、


「テスト範囲ってここまでであってますよね?」


 そんな風に囁いてきて耳がぞわぞわする。


「お、おう……あってるぞ」


 ただ囁かれただけなのに 俺は想像以上に動揺してしまう。

 口だけはなんとか冷静を装って返してから、慌てて目を逸らし顔を隠した。だが、多分耳を真っ赤にしてしまっているのを隠せていない。

 耳元で囁かれると昨日の帰りの電車で、

『直人くん、好きですよ』

 ゆいに俺の耳元で囁かれたことをなんとなく思い出してしまうのだ。

 いかんいかん。余計なことを思い出すと、余計気が散ってしまう。

 俺は必死にゆいと目を合わせないようにしながら、必死に勉強に集中しようとしていると、


「直人くん」


 またしてもゆいに耳元で囁かれ、今度は大きく体を震わせてしまう。

 これほんとにダメなやつだ。

 そういえば、10年後、声優としての佐伯ゆいも一度だけ演じたキャラクターのASMRが発売され話題になっていた。そのASMRを俺はもちろん購入したし、寝るときは毎晩聞いていた。

 あの時は完全にファンの気分だったから気にしなかったが、冷静に考えると、毎晩疎遠になった幼馴染の囁かれるような声を聞きながら寝るとか俺、気持ち悪すぎるな……。死んだほうがいいかもしれない。

 ゆいの囁きはそのASMRの倍以上の破壊力があるように感じる。無理だ。耐えられない。

 俺はできるだけ表情を見せないようにひたすらに俯いていると、ゆいがからかうような目で覗き込んできた。


「えへへ、直人くん照れてるんですか?」


 さすがにわかりやすかったのか思いっきり動揺しているのがバレてしまったらしい。


「照れてるよ。悪いか?」


 俺はそうやって開き直って必死に誤魔化そうとする。


「いえ、全然悪くなんてないですよ? わたしは直人くんが照れてくれてむしろ嬉しいですし」


 なんで俺が照れると嬉しいんだよと突っ込みたいが、なんとなく想像がついてしまって気恥ずかしくなり、聞くことができない。

 俺はぐぬぬ……とうなっていると、


「そこ、うるさい。図書館では静かに」


 図書館の館長だとすぐわかるような迫力のある五十代くらいの女の館長に鋭い声が響いた。

 ゆいは耳元で囁いてきていたのだが、俺はうっかり図書館だというのを忘れて、声の大きさが普段通りに戻ってしまっていたらしい。

 あまりに申し訳ないので周りに頭を下げると、今度こそ俺たちは勉強に集中し直したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る