10年前に戻っても幼なじみと恋人になれるはずがないだろう ①

 それから四日ほど経過し、いつも以上に長く感じた残りのゴールデンウィークが全て終了した。

 学校が始まる月曜日の朝はなぜか少し早めに目が覚め、学校への準備を始めた。

 準備を終えるといつもより早く朝食をとり、鞄を取りに自分の部屋にいくと、まだ学校への時間があることに気づきベッドの上に腰を下ろした。

 少しの間だけ座っているつもりだったのだが、何かを待っているつもりになって時間を潰していると、気がつけば数十分ほど経っており、学校への普段の登校時間はとっくの昔に過ぎ去っていて遅刻直前だ。

 俺はゆいがいつものように迎えに来るのを無意識に待っていたことに気づき、自嘲(じちょう)気味に苦々しく笑った。

 あんなことがあったのにゆいがいつものように迎えに来てくれるはずがないのに図々しいにもほどがある。

 既に遅刻直前で電車に乗り遅れてしまえば遅刻確定であるにもかかわらず、俺は焦る気にもならないまま玄関を開けた。

 

『おはようございます、直人くん』

 

 ゆいに呼ばれた気がして立ち止まるが、周りを見渡してもゆいの姿はない。

 俺はそれまで以上に学校に行くのが億劫になりながら自転車に跨(またが)って学校への道をゆっくりと進みだした。

 

   * * *

 

 いつもより二本ほど遅れた電車で最寄り駅に到着した。

 家を出る前は遅刻寸前だったが、今ではもうすでに遅刻が確定しており、急ぐ気にもならない。

 俺は重い脚を働かせて駅を出ると、

 

『直人くん、急ぎましょう。遅刻しますよ』

 

 またそんなゆいの声が聞こえた気がして振り返るのだが、ゆいが近くにいるはずがない。多分これはただの思い出の残滓(ざんし)で、幻聴だ。

 学校への道を歩けば歩くほど、たくさんの思い出が埋まっているせいで、何度も幻聴のようなもの聞こえてくる。

 

 例えば、学校が見えてきそうな道の途中の自販機前で、

『ダメ? でしたか?』

 ゆいが俺の顔を上目づかいで覗き込んできたのを思い出す。

 

 例えば、信号のある横断歩道の前で、

『えへへ、直人くん追いつきましたよ』

 信号待ちしていた俺の肩をポンっとたたかれて振り返ると、ゆいが目を細めて笑っていたのを思い出す。

 

 例えば、学校を出てすぐの随分前に廃業したであろう古びてしまった商店の前で、

『学校で一緒にいられない分、他の人に見られていないところでは、……もっと仲良くしたいです』

 ゆいは赤くなった頬を隠そうともせず、俺をまっすぐに見つめていたのを思い出す。

 

 例えば、その時は満開だったが今はすっかり青々とした色に変わっている桜の木の下で、

『同じクラスだったらいいですね』

 俺の耳元で囁(ささやい)ていたのを思い出す。

 

 ただ、いつもの通学路を歩いているだけなのに、思い出が次々に湧き上がってきて、忘れようにも忘れられない。

 

 俺はその幻聴から逃れようとそっと耳を塞ぎながらただひたすらに足を進めた。

 

 そうして足を進めていると、気が付けば俺は学校内までやってきていた。

 とっくに始業時間は過ぎているので、授業は始まっており、学校中がシンと静まり返っている。

 ためらいながら自分のクラスである一年五組の扉を開けると、注目を集めた。授業中、遅刻者が入ってくれば注目を集めるのは当たり前だ。

 俺は気が付けばゆいの姿を目で探していて、ゆいと一瞬だけ目が合ったのだけれど、すっと露骨に顔を逸らされた。


「遅刻か。早く席に着け」


 講義中の先生が授業を一旦止めて、声をかけられたので、おとなしくその指示に従い自分の席へと向かう。

 10年前に戻ってきてからの授業中、俺とゆいはたびたび視線が合い、ゆいが照れたように笑っていたのを思い出して、ふと、ゆいを目で追っても目が合う気配などない。

 四日ぶりに見たゆいの姿はどう見たっていつもとは打って変わってよそよそしい。

 その態度に俺とゆいとの関係は10年前と同じように終わってしまったのだとたしかに実感させられていた。

 

   * * *

 

 パチッと乾いた音が響き、俺の頬に痺れるような痛みが走った。

 放課後、天塚にメールで呼び出され、呼び出し通りに体育館裏に赴くと、天塚が俺の顔を見た瞬間、いきなり頬をはられたのだ。

 俺はいつもみたいに言い返す気力はなく、何をするのだと天塚を冷めた目で睨んだ。


「どうしてゆいを振ったりしたのよ!」


 天塚は今までで一番怒った様子で声を荒げて睨めつけてきた。


「……その話、ゆいから聞いたのか?」


「ええ、そうよ。ゆいに聞いたら教えてくれたわ。泣きそうになりながらね……。だからゆいを悲しませたあんたを、あたしはマジ許さない」


「許さないって……お前はどっちの味方なんだよ。俺を幸福にするためにここにいるんじゃなかったのか?」


「ゆいはあたしの友達! あんたなんかより、ゆいのほうが大事に決まってるでしょ」


 天使の癖に自分の仕事をほっぽり出した不真面目な奴だ。

 天塚はゆいのことを大切に思っており、ちゃんと友達しているらしい。こんな友達がいてくれるんだったら、俺なんかいなくても、あの時涙を流していたゆいだって立ち直っていくのだろう。

 俺はそんなことを思っていると、天塚はまた俺を睨めつけた。


「ゆいは、あんたのことが本気で好きだった! だからあたしは応援したの、あんたを少しでもいい男にしようともした……」


 そのために俺をデートの日の前日に連れまわし、無駄におしゃれな服を買わされたり、美容院につれていかれたりしたわけか。


「それなのに、どうして、あんなに一生懸命にあんたのことを好きでいてくれるゆいを振ったりなんかしたのよ!」


 どうして……か。

 その答えはずっと前から決まっているのだが、俺が未来からやってきたと知らないゆいには説明することができなかった。

 だが、事情を知っている天塚には理由を答えられる。


「知ってるか? 10年後、"佐伯ゆい"は有名な声優になって成功してるような女の子なんだ。人気も収入も高い男と付き合っているらしいんだ……」


 正確にはネットニュースになっているだけで、実際に付き合っているのを見たわけではない。だが、そんな記事を出されているということは火のないところに煙は立たない。なんらかの関係にあったのだろう。


「相手を奪ってハッピーエンドってなっても気分悪いじゃねえか。……俺なんかよりそいつと結ばれたほうがゆいにとって幸せのはずだろ?」


 あんなに人気な声優だったのだ。引く手数多なのは間違いない。

 結局、俺なんかが釣り合うわけがない。

 俺は俯きながら自分に言い聞かせるように言うと、天塚はつかつかと歩み寄ってきて、俺の胸ぐらをつかんだ。


「ゆいはあんたがいいって言ってくれたんでしょ? これからどんどん変わっていく未来なんて関係ない! あんたはゆいのことを嫌いだっていうの?」


 ゆいを嫌いなのかと問われると答えはもちろん否だ。

 彼女が俺を好きだってまた言ってくれたのは嬉しかったし、俺だって本当はあの告白を受け入れたかった。


「それでも! 俺じゃダメなんだ!」


 俺は強引に天塚の手を胸ぐらから引きはがして、声を荒げて叫んだ。


「もちろん俺はゆいのことは好きだ! それでも……俺は10年後、ブラック企業で過労死するような人間なんだぜ。俺はゆいに相応しい人間なんかじゃなくて……ゆいは絶対俺なんかを選ぶべきなんかじゃない」


 思わず、目頭が熱くしながら、泣きそうな声になる。

 10年後のゆいの未来を変えることはきっと間違っている。だから俺は身を引くべきなんだ。


「前から思っていたけどね……あんた、なんでそんなに自分を諦めてるのよ! あんただって頑張れば、未来が変わってゆいに相応しい人間になれるかもしれないじゃない!」


 10年前に戻ったのだ。頑張れば人生を変えられるかもしれないというのは俺だって知っていた。

『頑張る』

 その言葉がトリガーとなって知らず知らずのうちに封印していた記憶が蘇ってくる。


「……俺だって……頑張ったんだ……」


 俺は呻くように呟くと、この10年の日々が走馬灯のように思い出されてくる。


「俺だってな! 頑張ったんだよ!

 高校生で引きこもりになってから俺の人生は終わったって思ってあきらめかけたよ。最初は外に出る事すら怖かったからな! 俺の就職活動はまず家を出るというところからスタートだったし、家から出るのも精一杯だった! 

 家から出て初めて他人と顔を合わせただけでその日に食べたもの全部吐いてしまうくらいには人間不信に陥っていたんだ!それでも! このままじゃダメだと思って勉強して高認の資格との他にいくつも資格だって取った!

 そこから就職先を見つけて働こうとしたけどよ。50社以上受けても俺を雇ってもらえる会社なんてなかった! 当然だよな。その時はまだ人の顔を見ることも怖かったから……。それでも俺は諦めなかった! 人の顔を見て必死に取り繕う練習をして、なんとか俺を雇ってくれる会社を見つけたんだ!

 その会社でだって、俺は頑張った。教えられることは一度で覚えられるように必死に努力したし、上司の理不尽な怒鳴り声にも耐えたし、残業してくれと頼まれたら、断らなかった。睡眠時間が日に三時間なんて当たり前で、三日間、寝なかったことだってざらだった! それでも俺の給料は増えないままで、増えたのはサービス残業の時間だけだったけどな!

 そして、俺は何も変えられないまま死んだんだ。頑張ったのに、報われなかったんだ……」


 あまりにもまくし立てて話し過ぎて「はあっ……はあっ……」と息を切らした。

 今話したことだって、俺の頑張りのほんの一部に過ぎない。

 それでも報われることはなくて、本当に辛いだけの10年だった。

 死後の世界で、自分の死を自覚して一番初めに死んでしまえてよかったと思えるほどに。


「これだけ頑張って人生を変えられなかったんだ……。やり直したところで俺の人生は何も変わらねえよ……。だから、きっと、どうせ負け組人生を送る俺みたいな人間にゆいは相応しくないんだ」


 一生懸命『頑張った』つもりだったけれど、未来は変えられなかった。だからこそ俺は10年前に戻ってやり直してもきっと俺自身の世界は何も変わらないだろうと思い始めたのだ。

 俺みたいな人間は何度やり直したって失敗するだけなんだ。

 だから、きっと俺はゆいに相応しい人間ではないのだろう。


「……あんたが頑張ったのはよくわかったわ」


 しばらく俺の様子を黙って聞いていた天塚がようやく口を開き、


「それでもあんたは間違ってる」


「…………」


 天塚に断言され、俺は何も言い返すことができなかった。

 俺はきっと間違っているというのはなんとなく気づいていた。

 それでも俺はゆいを遠ざけるという選択をすることしかできなかったのだ。


「どうしてゆいの幸せをあんたが勝手に決めつけてるのよ! あんたが勝手に決めつけてるだけでゆいがほんとに幸せだったとは限らないじゃない!」


 天塚は俺を睨むように見て言った。


「そんなことありえねえだろ……」


 ゆいは声優になるという夢を叶え、富と名声を併せ持ち、同じくらい人気のある男に選ばれた。これ以上の幸せがどこにあるというのだろう。


「あり得るに決まってるでしょ! 例え、華やかな人生を送っていて世間一般的に見て成功したと思われていても、それが本当の幸せだとは限らないじゃない!」


 そう言われて俺は前に。頭に引っかかっていたことを思い出していた。

 誰もが羨む有名人が自殺してニュースになり世間一般を驚かせることがある。

 そんな華やかな人生を送っているのにも関わらず自殺してしまうなんて負け組の俺には到底想像できるものではなくいつも首を傾げていたのだ。


「幸せってものは自分自身が決めるもの。自分以外の誰にだって自分の幸せだって決める権利はないものよ」


 彼らが成功し、幸せであると言えないのならば、ゆいが10年後、幸せであるという保証はどこにもないということになる。

 だとしたら、幸せと決められるのは本人だけ。たしかに俺はゆいの幸せを勝手に決めつけていたのかもしれない。

 天塚の話に納得はした。それでも俺は俯いたままで首を振って否定していた。


「ゆいが幸せだなんてわからないからって俺自身のためだけに未来を選んでいいっていうのか?」


 ゆいにとって一番の幸せとは何かなんてわからないけれど、彼女の傍から見れば素晴らしい未来を送っているのだ。

 俺がゆいを受け入れてしまうことはその未来を壊す選択である。

 その選択はきっと俺だけのためのもので、俺自身のためだけに未来を選択するのは間違いであるはずだ。

 そのはずなのに天塚は簡単に頷いた。


「ええ、その通りよ」


 天塚は頷くと俺を真剣な表情で見つめて、語りかけてくる。だが俺はゆっくりと首を振っていた。

 俺も自分自身の幸せのことだけを考えていられれば楽だっただろう。

 けれど、俺だけは未来を知っているのだ。

 未来で失敗した俺自身の惨めな未来とゆいの輝かしい未来の格差を知っているから。

 知らないふりなんてできなかった。


「そんなの……間違っているに決まって」


「あんたは!」


 俺は俯いたまま首を振ると、天塚は声を荒げて俺の言葉を遮った。


「あんたは自分がゆいに相応しくないと思って、ゆいのために告白を断ったのかもしれない。だけど、あんた自身はどうなのよ!」


「あんた自身はゆいと一緒にいられなくなってもいいの? ゆいを諦めてしまえるの?」


 そう問われて俺はゆいと一緒にいることができた一か月のことを思い出していた。

 ゆいと一緒にクラスを確認しに行き、同じクラスになれたことを喜んでいた。

 ゆいと一緒にスタバに行ってお互い顔を真っ赤にしてフラペチーノを飲ませてもらったりした。

 ゆいが部屋にやってきて膝枕して頭をなでていたこともあった。

 ゆいに看病されたときは本当に助かったし、今度は看病する側に回ると本当に緊張した。

 思い返してみれば高校に入学してこの一か月の間は、彼女との思い出だらけだ。

 ほんの些細な出来事だって俺はゆいと一緒にいられることが嬉しくて、きっと俺は彼女に救われていたのだ。

 そんなゆいと離れてしまうのは辛いにきまっている。


「嫌……だ……。嫌だよ。嫌に決まってる!!」


 気がつけば、思いが溢れ出ていた。

 ゆいには未来で俺より相応しい人間が現れるかもしれない。俺がここでゆいと結ばれるというのはただの俺自身のためだけの未来の選択だ。


「俺だってゆいと一緒に居たい! ゆいは俺が幸せにしたいんだ!」


 俺の選択で、ゆいが夢を叶え、彼女に相応しいような男と結ばれるという華々しい未来が俺のせいで変わってしまうかもしれない。

 それでも、俺はゆいが隣にいない世界で生きていくのは嫌だった。

 俺はあの日々を守るためだけにもう一度ゆいと向き合う必要がある。


「もう一度、ゆいと話してくる」


 覚悟は決まった。

 俺は天塚に背を向けてゆいの元へ向かおうと走り出そうとすると、


「ちょっと待ちなさい!」


 天塚がまた俺に呼び掛けてきて振り返った。


「なんだよ。まだ何かあるのか?」


「ゆいなら教室よ。どうせこうなるだろうと思って、あたしが呼び出しておいたの」


 俺は立ち止まり、口を開けて驚く。この天使、俺の天敵かと思っていたが、意外と役に立つところもあるらしい。


「マジかよ! 今日初めてお前がいてよかったって思ったぜ」


「なによそれ、あんたねえ、ほんとにぶっ飛ばすわよ」


 天塚のどこかで聞いたことがあるような脅しを聞き流し、俺はもう一度自分の教室へと向かって走り出した。

 俺はゆいに嫌いになられてもおかしくないようなことをしたと思う。

 こんな俺のことをゆいが許してくれるかはわからない。

 それでも全部話して許してもらえるまで謝ろう。

 俺はもうゆい無しで生きていくことなんて考えられないのだから。

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