AM 04:30~

 レリエルはレイの腕の中で、細く、力なく、瞼を開いた。

「……逃げて……」

 レイは首を強く横に振る。

「お願いします……あなただけでも……」

「イヤだ」

 レイは水たまりだらけの書斎の床を歩く。頭の先から爪先までずぶ濡れだった。

 崩れた天井板と倒れた本棚が作る隙間があった。そこにレリエルを押し込める。

「君だけでも……逃げてください……」

「そんなことできねーよ。わかるだろ」

 レイはまっすぐに立った。

 雨が落ちるのもかまわず、顔を真上に向けた。

 そうしてから、レリエルに目をやった。

「電話でさ……大天使たちに連絡してくれ。とにかく来てくれ、って。

 それまで、俺がなんとか、こいつを引き止める──街に出られたら、大変だろ? な?」

 そこで、言葉を切った。

 それから、

「それでさ──レリエル。最初にした約束さ──悪魔の力には呑まれない、って約束だけど──」

 レイは、笑顔を作った。

 悲しい笑顔だった。

「ごめんな。あれ、守れねーかもしれない」

「レイ…………」

 レリエルの口から、名前がこぼれた。

 レイはあちらを向いて、歩いていく。

 レリエルは手を伸ばした。引き止めようとした。だが体は遠く、届かなかった。


 レリエルは、レイの背中を見た。

 最初に会ったときは少年のように見えた小さな背中だった。

 力が暴走しかけた時も、いつもどこか寂しげな気配が宿っていた。

 孤独な背中だと思った。


 それが今、雨の中を進んでいく。

 勝ち目のない戦いに向かって歩いていく。


 レリエルは震える手で、ズボンのポケットから、スマホを取り出した。

「ウソだろ……」

 液晶は粉々に砕けていた。最初の戦いか、二回目か、いつの間にか壊れていた。


 手を板にかけて、身を乗り出す。動くだけで羽根のあった部分が「痛い」。

 人間は、レイは、こんな痛みに耐えながら生きているのか、とレリエルは思う。


 瓦礫の向こうに巨人の足が見えた。

 その前に、レイの背中があった。 


 上半身が上下している。

 しとどに濡れた背中から、白い煙が上がる。

 白い手が太く、鋭く、黒くなっていく。

 肉体が膨れる。いつもよりずっと大きく、限度を越えて。

 丸まった黒いスーツの背中が破れた。

 中から漆黒の、硬い毛が現れる。

 レイの荒い息づかいが、離れたレリエルの耳にまで届いた。人の呼吸から獣の呼吸へと変化していく。

 老人のそれとは違った強い臭いが、豪雨の中でもレリエルの鼻をついた。

 悪魔の臭い──



 野獣の咆哮が、夜の闇を裂いた。

 スーツはビリビリと破れ、濡れながら床に落ちた。

 そこにいるのは、人間ではなかった。

 全身に針のような毛を立て、頭には山羊の角があった。

 雨が体に触れた瞬間に蒸発する。地獄の熱、煉獄の熱──

 黒い腕にはささくれたような棘が無数に生えている。指先は槍の如く尖っている

 それは腕を上げ、首を曲げ、変わってしまった自分の手をじっと見た。

 手には、天使の背中の傷の血がついたままだった。

 その怪物は、振り返った。


 口は裂け、氷柱を思わせる牙がびっしりと並んでいた。

 尖った鼻の上に、赤い眼球が見開かれている。

 瞳は円ではなく、切り裂いたような縦型だった。

 その瞳が、レリエルを捉えた。


 悪魔そのものの容姿と顔なのに、その瞳にはかろうじて、人の理性が残っていた。

 瞳の上に雨が落ちる。水滴は蒸発することなく、彼の顔を伝っていった。

 レイは、レリエルを見て、頷いた。


 巨人の足に向き直った。

 体がまた上下し、震えた。

 背中が隆起する。

 背中の左側から、翼が飛び出た。尖った毛が何本も落ちた。

 闇夜の中ですら黒く見える、漆黒の翼だった。


 



 主よ。


 レリエルの体がくずおれた。

 体が震えるのは背中の痛みのせいだけではなかった。雨の寒さのせいでもなかった。

 地上に降りる時の仮の肉体、その胸が締め付けられるように痛んだ。


 ──誰だよ、あんたら。この街の者じゃねーな?

 ──しょーがねぇなぁ、そういうことなら手伝ってやるよ。

 ──あの青年は父親から巨大な力を引き継いでいます。

 ──もしも彼が完全な悪魔になったら、いいですね?

 ──おい! 街のど真ん中でそんなことするんじゃねーよ!

 ──俺は人を殺さない。だからお前も、そういうことはするな。

 ──悪魔の力なんてちょっとしか使わねーよ。ちょっとだけだよ。

 ──わかったよ。約束だレリエル。約束するよ──



 頭の中を様々な場面がよぎる。 

 殺さなくては。嫌だ。彼を殺すなんて。しかし悪魔に。危険な存在、本当にそうか? 彼はレイだ。あの目が証拠だ。

 いま、彼は戦っている。誰のために。人類? 世界? 違う、今は、私のために。悪魔になろうとしている。助けたい。しかし傷ついた体、あの巨人、何ができるのか。

 

「主よ──」

 レリエルは膝をつき、床の水たまりの中に手を置いた。

「──私は、私はどうしたらいいのですか」

 天井の照明に照らされた水たまりの中の顔が、雨粒の波紋で揺れる。

「教えてください──私は、彼を、レイを助けたいんです」


 稲妻が再び、空を裂いた。

 その光で、水たまりに沈んだものが浮かび上がった。



 聖剣だった。

 二度目の突撃で殴られたレリエルが手放してしまった、あの聖剣。邪悪を滅する剣だ。

 そのはずが、老人の体にはほんの少し刺さっただけだった。

 いや──刺さったのだ。少しだけでも。

 レリエルの記憶が渦を巻く。1ミリだけ刺さった聖剣、聖と邪を取り込んで攻撃も防御も万全な肉体、神と悪魔の力、あの刺さった傷は、あの巨体にまだ……


 レリエルは顔を上げた。

 風雨の中を、足元からの電灯でライトアップされたような巨人が、右手を振り回している。左手はいまだに目に当てられ左右に動いている。歯みがき粉がまだぬぐいきれていない。

 その周囲を、影が飛んでいる。どす黒い存在感に比べて飛び方が弱々しい。

 左の翼は完全に生えている。だが右の背からは、漆黒の翼が半分か、それ以下しか出ていない。

「まだなんだ……」レリエルは水たまりの中の剣を掴んだ。「まだ悪魔になりきってないんだ」

 乱暴に振り回されていた巨人の腕が偶然、黒い影に当たった。

「あっ!」

 影は斜め下に落下し、瓦礫の山に埋もれた。

「レイ!」

 レリエルは走った。

 瓦礫の中に、黒い生物が仰向けに倒れていた。彼は駆け寄った。 

「私です」茨のような肩を、かまわずレリエルは掴む「わかりますか? レリエルです」

 閉じられていた目が開いた。

 眼球は赤黒く、酸化した血の色をしていた。

 耳元まで裂けた口が巨大に開いて、そこから地獄の獣の咆哮が噴出した。燃える炎、炭、腐臭、死臭を混ぜた息がレリエルの顔を直撃した。 

 だが彼は、顔をそむけなかった。

「レイ、私の声が聞こえますか。この姿の奥にいることはわかります。私にはわかります。

 あの巨人を倒す方法を思いついたんです。でも私ひとりでは倒せません」

 悪魔は歯を喰いしばり、レリエルの腕の下でもがく。

「君の力が必要なんです。悪魔の力に呑まれない強い君の心と、力、それに──」

 レリエルは赤い瞳を見つめながら、はっきりとした声で言った。 


「君自身が、必要なんです」 


 それを聞いた悪魔の唇がねじれる。放出される力を押さえるように。

 裂けた口が少しずつ小さくなる。歯の鋭さが減少していく。鼻が低くなる。首から上だけが徐々に、白い肌に変わっていく。

 やがて灰色だった悪魔の顔は、白く細面の青年の顔へと戻った。目だけがまだ赤かった。

 荒い息をつきながら、青年の顔は言った。

「よう、レリエル……」

「レイ……!」

「で……? あのデカいのを倒す方法ってのは?」 



「こしゃくな真似を……歯みがき粉にこれほど……手こずるとは……クソが……」

 巨人が目元の粘液をようやく取り払った、それと同じ時に。

 二人の青年が巨人の足元に立っていた。

 最後の雷が低く鳴って、どこかへと去った。

 雨が、静かに止んだ。


 

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