AM 04:15~
レリエルは老人の上半身を見て目を剥いた。「あれは……何だ……」
老人の体にはビッシリと、タトゥーが彫られていた。
聖母に十字、梵字や曼荼羅、だけではない。逆十字に悪魔の紋様、呪詛の字もある。
聖なるものと邪なものが完全に入り乱れて、老人の肉体を覆いつくしていた。
齢を重ねた皮膚だったが、言葉にしがたい異様な力を発していた。
「さっきの本に、そのタトゥー。あんた、悪魔信仰まで取り込んだな」レイが言った。
「悪魔や邪神もまた、神の如く崇拝される者には違いないだろう?」老人は冗談めかして肩をすくめる。
「聖と邪が混ざってるから、聖なる力で守られてる天使のレリエルにもあんたの攻撃が通用するってことか?」
「そのようだな。そして防御面でも、聖邪両方のパワーを防いでくれるらしい。理論としては理解していたが、ここまで強固とはな」
「神も悪魔も一緒にしちまうとはな。なかなか狂ってるぜ、あんた」
「確かにそうだ。狂った発想だ。だか正しかった。体に聖と邪を彫りこみ、取り込むたびに、力が煮えたぎるのを感じたのだ」
「──『取り込む』?」
「そう、取り込んでいったのだ。口や血管から体の中に──経文を焼いた灰を飲んだり、邪悪な儀式に使われた山羊の血を輸血したり」
「おい爺さん、冗談だろ」
「……そう、何人かの子供の生き血もすすったな……ふふ、あれは邪な行いだった。泣きわめく子供の首を……」
ぞあッ。
書斎の磨かれた床を、黒いものが疾走した。
レイの足元から発された瘴気だった。
ばちん、と音を立てて、指抜きの手袋がはじけた。
レイの手が太く、鋭く、黒くなっていく。
髪が逆立ち、歯はもはや牙となり、眼球全体が深紅に変わっていく。
「これは……!」老議員が目を見開く。
「レイ君っ……いけません……!」レリエルが痛みにもがきながら手を伸ばす。「挑発に乗るなと言ったのは、君ですよ……!」
「わかってるよ、レリエル。わかってる」
レイは背中で答えた。
「限界は、越えないようにする。大丈夫だ。そう、この、力に、呑み込まれないように──」
レイの背中が、腕が、胸が、脚が膨らんでいく。
「俺は、人間として、こいつを、ぶちのめす」
「わはは、楽しみだなレイ君! とうとう悪魔の力を」
老人の体が横に吹き飛び、机に激突した。
のけぞった顔面、尖ったヒジが落ちる。鼻血が散る。
「ぐうっ」
机の上、黒いものがよぎる。老人は背中を蹴られ本棚へ飛ぶ。中板が折れて体がめり込んだ。
書斎の床がキュッ、と一度鳴った。音だけがした。
老人の肉体が急上昇する。
首を黒いものが掴んでいる。
空の本棚の中板が次々破壊されていき天井まで。
そこから老人は前のめりに。後頭部に不可視のものが打ち下ろされた。
老いた肉体は、床に叩きつけられた。
レリエルの前に、革靴を履いた踵が突然現れた。磨かれた床に黒いブレーキ跡が残った。
革靴の人物はスゥーッ、と静かに息をつく。背中からは湯気が出ていた。
体の大きさが元のそれになり、白く細い手が戻ってきた。
レイは振り向いて、床の上にいるレリエルを見て、ウインクした。
「どうだった?」
レリエルは微笑んで、頷いた。
「……お見事です」
「んふ。んふふふふ」
床にうつ伏せていた老人がそのままの体勢で笑う。
「んふふふふ。効いたよ。効いたよレイ君」
老人はヒジをついて顔を上げた。鼻血が出ていた。
「この、」鼻を指さす。「ヒジだけが、少しな。顔にもタトゥーを入れるべきだったよ」
「なんて奴だ……」レリエルは本棚にしがみつきながら立ち上がる。
レイは彼をかばうように腕を斜めに伸ばしながら「大丈夫か」と聞いた。えぇ、どうにか、とレリエルは答えた。
「神と悪魔の力を、体内で合一させている私だぞ。あいのこの力でどうにかできると思ったかね。若いな。力任せで。知恵がない」
ロバート・マクドーマンドは言いながらゆっくりと膝をつき、ゆっくりと立ち上がる。先ほど叩きつけられた机に向かって、悠々と歩いていく。
その声に老いの気配はなく、周囲を圧する力を保っていた。
「レイ君、レリエル君。しかもまだ私は、完全になっていないのだよ。言っただろう、『神となる』と」
引き出しを開け、細長いものを取り出した。
小さなボトルだった。灰色のものが詰まっている。
「──それは、何だ?」レイが警戒しながら問う。「粉か? 火薬か?」
「ある意味では火薬だ。これは、私の中で爆発する」老人はボトルの蓋を開ける。
「まずい! レイ君! あれを飲ませてはいけない!」レリエルが叫んだ。「あれは石板を砕いたものです!」
「なっ……クソッ!」レイが駆け出す直前だった。老議員はボトルの中身を一気にあおった。
老人の肉体から一撃、衝撃波が出た。
跳んでいたレイは、後方に高速で押し戻された。レリエルは歯を喰いしばって、彼を受け止めた。
「これが……これが十戒の……! 神の触れた石板の力……!」
衰えしぼんでいた老人の肉体に若き張りが戻っていく。
「素晴らしい……! 想像を越えている……!」
筋肉が膨張し身体全体が肥大化していく。身長も、横幅も、瞬く間に伸びていく。
「これほどのものとは……! 今まで摂取してきたものがゴミのように感じる……!」
下着がプツリ、とちぎれて落ちた。下半身にもタトゥーは入っていたが、股間にはもはや男の性器も女の性器もなくなっていた。
全身に広がる聖邪のタトゥーはそのままに巨大化していく老人の体はついに、書斎の屋根を突き破った。
天井板が落下してくる。たくさんついていた電灯が落ちてひっくり返り、乱反射のように巨体を照らした。
抜けた天井の上、雨雲が黒く広がっている。雨が無数に降りこんでくる。豪雨だ。
稲妻が走った。
老人だったものは、笑っていた。
その顔は幼くも、若くも、老いてもいなかった。
ロバート・マクドーマンドの腫れ上がったような顔面は、もはや人間のものではなかった。
それは、口を大きく開けて、笑っていた。
レリエルはいきなり、レイを抱き抱えた。羽根を出現させる。
「おい何すんだ!」
「逃げましょう! この場は退却です! 大天使様たちに報告して」
「こいつを放って逃げるのか!?」
「やむを得ません! 私たちではかなわない!」
二人の頭上に、巨大な手が現れた。そのさらに上から、太くもったりとした声がする。
「そう……天使くん……とても賢明な判断だ……」
手は親指と人さし指を伸ばした。
「しかし残念ながら……逃げられはしない……」
「くっ!」
瓦礫と物品と巨人の足に占領され狭くなった書斎を、二人は必死に逃げる。
レリエルは幾度か飛ぼうとしたが、巨人の手の平に阻まれる。スマホをかけるどころか取り出す余裕すらない。
「ふふ……ふふ……楽しい……子供の頃を……思い出すよ……」
天から降ってくる声は地を震わせ、逃げまどう二人の心身も震わせた。
「アリを踏み潰し……イモムシを焼いて……あとは……そう……蝶だ……蝶をな……」
巨大な指はあっけなく、レリエルの羽根をつまんだ。
「レリエル!」
「君は逃げてください!」
引き上げられたレリエルの目の前に、老人だった男の顔が広がった。
地上でも、地獄ですら見たことのないすさまじいその形相に、レリエルの息は一瞬、止まった。
「蝶の羽根を……こうやって……」
両手の指が、天使の両の羽根をつまむ。
「指でつまんで……それで……」
「やめろー!!」
巨人の足元でレイが絶叫した。
絹を、裂くような音がした。
レリエルが、喉が潰れるほどに叫んだ。
見上げるレイの顔に、雨粒ではないものが落ちかかる。
赤い液体はレイの涙と共に、頬を伝って、落ちた。
ぼとり、と、白く大きなものが落ちてきた。
レリエルの、左の羽根だった。
「そう……こんな風に……もいで遊んだんだ……ははは、はは……」
巨人の、勝ち誇ったような笑い声が響いた。
「そんな……」
レイは両膝をついた。
右の羽根を掴まれて、レリエルはまだ、巨人の顔の前にいた。
腹への攻撃とは比べ物にならない痛みが、背中じゅうに広がっている。
全身が、雨に濡れていた。
いつも雨粒は、体を避けて落ちるというのに。
何か大事なものを失ってしまったらしかった。
「さて……このあとは……蝶は……どうしてたかなぁ……」
巨人の邪悪な瞳がレリエルを捉える。
「そうだ……天使を食べたら……もう少し……強くなるだろうか……」
レリエルは、奥歯を噛みしめた。
力なく下がっていた手を、パーカーのポケットに入れる。
「……この野郎っ!!」
普段は絶対に口にしない汚い言葉を吐きながら、取り出した歯みがき粉を巨人の眼球に向けて絞り出した。
巨人は不意を突かれオオッとうめき、両手を目にやった。
片翼を失ったレリエルの体は放り出され、宙を舞った。
「くっ!」
レイが落下地点まで瞬間移動する。
落ちてきたレリエルを、レイは両腕で抱き止めた。
上では巨体の怪物が、必死に目をこすったりぬぐったりしている。
「レリエル……!」
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