AM 03:50~

 雨足が、強くなりはじめた。

 レイは、律儀にインターホンを鳴らした。

 いや出るわけないでしょう、とレリエルが言った直後、スピーカーがガサゴソと鳴った。

「石板を取り返しに来たのかね?」

「はい、そうです」

 レイが臆面もなく答えると、ふふ、と老人の笑い声がした。

「入りたまえ。私は一番奥の書斎にいる」

 大きな門のロックが外れた。

「さすがの貫禄だ」レイは振り向いてニッと笑った。「入ろうぜ。お前は大丈夫だけど、俺が濡れちゃうよ」



 家の中の明かりは、全てついていた。玄関先も廊下も、民主党の長老の家にしては、簡素な作りだった。

 敷居をまたいだ途端、レリエルはウッ、と鼻を押さえた。

「どうした?」

「急な臭いに鼻を打たれまして。これはひどい……」

 ふたりは廊下を歩いた。レリエルは鼻に手を被せている。

「俺にはわからないが、例の、悪魔の臭いか?」

「それが、聖俗が混ざりあったような強烈な臭いで……」

「混ざった臭い……? こりゃあ、思ったよりも手強い相手かもしれねーぞ」

 レリエルは警戒しながらゆっくり進んだが、レイはどんどん歩いていく。

 危ないですよと忠告するレリエルに、レイは「罠なんか仕掛けるタイプじゃねーよ」と応じた。

 レイは不意にいなくなったかと思いきや、歯みがき粉のチューブを持ってきた。

「異臭がキツいなら、これを鼻の下に塗っときな。洗面台にあった新品だ」

「盗みはいけませんよ」

「お前……本当に真面目だな」



 台所を過ぎ、居間を通って、奥へと進む。

 茶色く塗られた分厚そうなドアが、長い廊下の先に見えた。

「ところでレリエル、これ見てみな」

 レイは歩きながら、スマホのマップアプリを見せる。

 この家の輪郭が写し出されていた。簡素なそれの後方、異様に大きな円の輪郭が、細い線で無理矢理に接続されている。

「この細いのが、この廊下だ。この丸くてデカいのが、書斎らしい」

「いま通ってきた家の倍近い大きさじゃないですか」

「そうだな。小さなコンサートホールくらいある。そこが決戦場ってわけで……まぁデカいバケモノが召喚、されてないことを、祈るしか……」

 レイは言葉の途中から、急にむせた。

「書斎が近くなってやっと嗅げたわ。くっせーわここ。ちょっと歯みがき粉、俺にもくれ」 


 鼻の下に、粒入りのミント味の歯みがき粉を塗った青年二人組ができあがった。

 ふたりは互いに顔を見合わせた。

「決戦って感じじゃねーなぁ」

「そうですね」

「鼻の下に白いのを塗って死んだんじゃ、サマになんねーよな」

 死、という単語が出た瞬間、レリエルはびくりとした。

「……大丈夫ですよ。死なない私がいるんですから。まずい状況になった時は、私がどうにかします」

 レイはその言葉を聞いて、レリエルの方を見た。

 レリエルはまっすぐ、ドアの方を見つめていた。レイの方を見ないようにしているようでもあった。

「じゃあ、もしもの時は、頼むわ」

「わかりました」

「まぁ、90歳近い年寄りだしな、チャチャッと終わらせようぜ」

「えぇ、チャチャッと、終わらせましょう」


 レイは指抜きのグローブをつけた手を伸ばしてドアノブを握り、書斎の扉を開けた。





「うわっ!」

「なんだ!?」

 電気のついた円筒形の広大な書斎の中で、嵐が起きていた。

 室内だというのに風が渦を巻いている。

 本、薬品の瓶、髑髏、仮面、シンボル、札、書類、古文書……それらが浮いて、丸い書斎の中で回転している。

 丸く壁を埋め尽くす本棚はほとんど空だ。そこに並べられた物品が今、風と共に部屋を蹂躙しているに違いなかった。

 轟々と鳴る竜巻の中心、巨大な椅子に、老人がひとり座っていた。

 ナイトガウンの上についた皺だらけの顔は長年の猜疑心と権力闘争で歪み乾き、人間でありながら怪物の様相を呈していた。

「ようこそ……よく来てくれた……」

 声などかき消されるはずの暴風にもかかわらず、老人の声は洞窟の中から響くようなエコーを伴って、よく聞こえた。

「私がロバート・マクドーマンドだ……。キングメーカー、キング・マック、アメリカの皇帝などと呼ばれてきたが……」

 ロバートは立ち上がった。上背は老齢で縮んでいるはずが、何故か巨大に見えた。

「今宵……私は王となる……世界の神にな……」

「なんと不敬な!」レリエルは叫んだ。

「光栄に思いたまえ……神の誕生に列席できることを……しかも全ての神の合一たる……真の神の誕生だぞ……」

 老人は腕を上げた。分厚い本が一冊、レイの胸元に飛び込んできた。

 風のせいか魔力か、ページがめくれていく。レイの目が赤くなり、数秒で大半を完読した。目が黒に戻る。

「……おいレリエル! こりゃ大変な研究だぞ!」風のせいで声を張り上げねば隣にすら届かない。 

「レイ君! 何が書いてあるんです!?」

「信仰だ!」本を老人に向けて掲げた。「世界各地の信仰、宗教がまとめられつつ、ある一点に向けて収束するように研究してある!」

「そう……その通り……!」

 老人は誇らしげに両腕を広げた。

「私は……全ての宗教とは一つの神、一つの信仰から分かれていったものだと考えた……

 ちょうどアダムとイブの如く……元を辿れば唯一絶対の神に行き着くと……

 それらを元通りひとつにり合わす方法を、私は発明したのだ……」

「で!? 自分がその大元の神になろうとしたってわけか!?」 

「当然だ……! 沈黙しない神……行動する神の存在によってはじめて……世界はひとつになるのだ……!」

 レイは研究書を、風の中に投げて戻した。そして叫んだ。

「……爺さんさぁー! あんた年とって、自分が偉くなりたくなっただけじゃねーのか?」 

「…………なに?」

「影の実力者とか! キングメーカーとか言われてたけど! 自分じゃ何も為し遂げてない、って、気づいたんじゃねーのか?」

「何を言うか若造が!」

「悲しいよなぁ! 老いてから自分が何者でもなかったって気づくのはさぁ! 同情するよ! 前途ある若造としてなー! ところで、」

 渦の手前で、レイはポケットから財布を出した。そこから1ドル札を抜く。

「さっき洗面所から! 歯みがき粉を一本もらったから、これが代金だ! 釣りはいらない!」

 札を指で挟んだまま、レイはレリエルの方をちらりと見た。

 レリエルはその視線で作戦を察した。

 レイはピッ、と指を離した。

 1ドル札は竜巻に乗って右に流れていく。

 それを、ふたりは目で追った。風の流れ、速度──

 レイの瞳が一瞬で赤くなった。時を同じくしてレリエルは羽根を広げ、体全体を包んだ。

 ふたりは一緒に部屋の中に、暴風の渦の中に飛び込んだ。

 ふたりの体はふわりと浮き、ドアの先から1ドル札と同じ方向に風に乗って高速で右回転し、書斎の壁をかすめ、老人のいる地点に──

 そこで、風がぱたりと止んだ。 

 ふたりの体は床に叩きつけられた。

「イッテぇ!」レイはしたたかに胸を打ちつけた。

「勇気のある若人だ。少し遊んでやろうかな?」

 老人が指を鳴らす。レイは反射的に転がった。鋭い音と共に床に二本、爪で削ったような跡ができる。

 レイは立ち上がった。瞳の赤は一段と濃くなり、こめかみに血管が浮いている。息が荒い。

「爺さん、やるな。王とか神になるとほざいてるだけある」

「君も強そうだな。その瞳……悪魔か……だが悪魔特有のオーラはあまり感じられない──」

 その時、横からレリエルが羽根を後方に流しつつ急襲した。が、老人が手の平を向けた途端、後方に吹き飛ばされ本や物品の山に突っ込んだ。

「レリエル!」

「……こっちの天使は、服装はともかく天使そのものだ。不思議な取り合わせだ。ごく稀なケースだ。興味深いな。

 天使と悪魔の二人組……いや、君は人と悪魔のハーフかな? 名前は、レイとか言ったかな?」 

「ああ、そうだよ」

「レイ君、私と手を組んでみる気はないか? 面白い世界が見れるぞ。人類を手の平の上で転がしてやるのだ、どうだね?」

 レイは老人の言葉を聞きながら、懐からタバコを取り出した。ライターで一本吸いつける。

「タバコは体に悪いぞ」

「うるせージジイ!」

 レイの体が消え、タバコの先の赤が残像として残った。

 常人の目には見えない速度で書斎の床を何かが疾走る。

 その何かの拳が、すさまじい勢いで老人の腹にめり込んだ、かに見えた。

「固っ……」

 レイの右手の拳が、老いた腹筋に負けていた。 

「君、老人はいたわりたまえ」ロバート老人は優しく言い、口元のタバコを取り上げて捨てた。「それにここは禁煙だ」

 レイの顔面に、見えない打撃が入った。

「ブッ!」

 床を滑ってレイは空の本棚に激突する。その衝撃で本が数冊、床から跳ね上がった。 

「これが唯一神の力というものだよ、悪魔くん。どうかね?」 

「クッソ……イッテーな……」頬をさすっていたレイの目が、そばの本の表紙に止まった。

「…………は? おい爺さん、マジか?」 

 ふふふ、と老人は不敵に笑う。 

「マジだとも」 

「うおおおっ!!」

 反対側の本の山からレリエルが飛び出した。矢よりも早く翔ぶ彼の手の中、剣が握られている。

 レリエルが神より賜った聖剣だった。

「待てレリエル!」

 レリエルの体は止まらずに、ロバート老人の細い体を直撃した。 

 聖なる刃が、腹に刺さっていた──ごく先、1ミリだけ。

「なっ……」

 困惑したレリエルの腹部に、老人の拳が刺さった。

 人間の打撃など天使には通用しない──だが。

「かはっ……!?」

 レリエルの体はその打撃で浮き上がった。そこに掌底が胸に入り、再び吹き飛んで部屋の壁に激突した。

「レリエル!」

 レイは老人から距離をとりながら一瞬で反対側の壁へと走った。 

 レリエルのそばに膝をついた。彼は半身を壁にもたせかけ、腹部を押さえながら仰向けに倒れていた。口から血が垂れている。

「なにが、何が、起きたんです。私の、体、殴られて……」

 焦点の合わない目でレイを見ようとする。

「黙ってろ。痛いだろ。無理に話すな」

「そうか……これ、が……痛み、ですか……」

 ウッ、と体をよじる。天使としてはじめて味わう、肉体の「痛み」だった。

「おとなしくしてろ……ここは、俺がやる……」

 レイはレリエルの肩に触れてから、立ち上がった。

 老人は椅子の前から離れ、彼らのいる場所にゆっくり近づいてくる。

「直線的で策のない真っ向からの攻撃。神の使途らしい正直な攻撃だ。

 一方のレイ君は多少小回りが効くようだ。悪魔の、超人的な力も使えると見える。しかしな、」

 老人は、ガウンを脱いだ。

「君たちごときでは、私は倒せんよ」



 

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