AM 03:15~
50階まで軽やかに運び戻されたプレザンスは、息を整えてからあっさりと口を割った。
「ロバート上院議員だ。ロバート・マクドーマンド」
レイは驚いたように口を開けた。尖った歯が視界に入り、プレザンスはヒッ、と叫んだ。
「マジか? 民主党のジジイの? “キング・マック”?」
プレザンスは無言で頷く。レリエルは不思議そうに聞いた。
「そんな大物なんですか?」
「おたくのランクで言えばガブリエルくらいだ」
「それは……大物ですね」
「で、あの石を欲した理由は? 何か聞いてないか。どんなことでもいい」
プレザンスは首を横に振った。本当に知らないらしくしばらく黙っていたが、
「あの人は最近、どうもおかしいんだ……」
と独り言のように言った。
「おかしいってのは?」
「……以前は器の広い大人物だったが……数年前からやたらと怒りっぽい……怒鳴り散らして……
私もご機嫌とりに幾つかプレゼントを差し上げたんだが、型通りの礼しか来ず……
困っていたところにこの石の依頼だった……秘密裏な動きがあったとか聞いたが……」
「村がひとつ、なくなってしまったんですよ」
後ろからレリエルが言った。羽根は消えており、普通の青年にしか見えない。固く腕を組んでいた。頬に赤みが差していた。
「敬虔にその石を守る人々の住む、小さな村でした」
レイはその言葉を聞いて顔を伏せた。写真を懐にしまおうとしたがやめて、深く、沈んだため息をついた。
「社長さん。これはな、十戒の、石板の欠片なんだ。知ってるよな十戒。モーセがエジプトから逃げた時に神と交わした契約だ。
色々あって割れたこいつの一部は、宗教的対立の道具として使われるのを恐れた人々によって隠されていた。
それを、どういう理由か知らないが、老いぼれのキング・マックが奪ったんだ。平和に暮らしてた村をいきなり襲ってな──」
今度はレイの右手が、プレザンスの胸ぐらを締め上げた。へたりこんでいたのをすさまじい力で持ち上げる。
「あんたはそういう石を運んだんだぜ。これはな、村人28人の血が流れた石だ。28人だ。何の罪咎もない28人だぞ?」
黒い瞳の中央に点がともり、布に血が広がるように赤く染まっていく。プレザンスは目を剥いた。
「本当に知らなかったんだ! 宝石の原石か何かだと……! 信じてくれ、頼む……!」
レイの膨れ上がった肩に、レリエルの手が置かれた。
「レイ君、もういいでしょう。あなた、石を渡したのはいつですか?」
「き、今日の1時前……向こうの秘書に渡して、それから後はわからない……」
「その政治家が石板をどうするつもりかはわかりませんが、もう2時間経過しています。レイ君」
レイの肩に置かれたレリエルの手に、力がこもった。
「村を焼いてまで入手したがった代物です。何をするかわかりません。急がないと」
レイは、鼻から熱い息を吹き出してから手を離した。プレザンスは床に転がった。
「──オッサン、1階と49階と50階の奴らのために、救急車を呼んでやってくれ。
それから、俺たちを追うなよ。特にこいつだ。無茶苦茶な奴だからな。意味わかるよな?」
プレザンスは二人を交互に見ながら、何度も首を上下させた。
「レリエル、議員の所に行こうぜ」
レイは踵を返して、素通しに破壊された50階のフロアをまっすぐに歩いて行った。
エレベーターに入ってからレイは、レリエルが着いてきていないことに気づいた。
「どうした?」
「私は、飛んで降りますので」レリエルは手を振った。「落としてしまった机の片付けもしないと」
「そうか? じゃあ下の車で」
「ええ。下の車で」
エレベーターの扉は閉まった。
レリエルは、尻餅をついたプレザンスに向き直った。
「──さて、手短に済ませましょう。先ほどここで、こういう書類を拾いました」
レリエルは紙を突き出した。プレザンスはそれを見て、ごくりと喉を鳴らした。
幼い少女の、裸の写真が印刷されていた。
暗い部屋の汚れたベッドの上、おびえたようにレンズを見つめている。
その下に数行の文字と、6桁の数字が書き込んであった。数字の端には「$」のマークがあった。
「あなたの貿易業は手広いようですね。もしかして、例の政治家のご機嫌とりに差し出したのはこういう子? それともご自身で愉しむため?」
「それは」
プレザンスが言う前にレリエルは彼の頭を鷲掴みにした。強く押さえた指先で皮膚がよじれる。
「あなたは──おそろしく──罪深い──人間です」
レリエルの青く澄んだ目は、ぞっとするほどに冷たく光っていた。
手から黒い煙が出た。両のこめかみと前頭部を掴まれたプレザンスの叫びがフロアに反響する。
と、レリエルの手はスッと離れた。プレザンスは頭の掴まれた部位をこすったが、血も出ず怪我もしていなかった。
「……何をした?」
「教えません。ただひとつだけ言っておきます」
身を起こしながら、レリエルは唇の前に人さし指を立てた。
「あなたは今日から地獄を見ます。死ぬまでも、死んでからも」
わめき、足にすがりつくプレザンスを蹴り飛ばして、レリエルは羽根を広げて破れた窓から飛び立った。
そのまま下界には降りず、隣のビルにある雨よけの屋根に飛び、そこに腰を下ろした。
スマホを取り出して、電話をかけた。
「──もしもし。はい、私です。石板は、今夜中にどうにかできると思います。はい。老いた国会議員の手元にあるそうです。
レイ君の様子ですか? うまくやっていますよ。私が言うのもおかしいですが、見事なものだと思います。
感情も抑えています。まったく彼がああいう出自だとは信じられません。これで神への信仰心があれば、なおよいのですが……
逆に天使の私が、力加減がわからなくて、彼に叱られる場面もあるんですよ……今日もビルの一室でね……
……私が嬉しそう? そう聞こえますか? いえ、情が移るなんて。そんなことはありません。断じて。
……はい、肌身離さず持っています。万が一の時は必ず、躊躇なく彼に……突き立てます。わかっております──」
電話を切ると、彼の足元にぽつり、と一滴の水が落ちた。
「雨……」
深夜の夜空から続々と雨が落ちてきたが、雨粒はレリエルの聖なる体を避けて落ちたので、彼が濡れることはなかった。
ビルの脇に停めてあった車にレリエルが乗り込むと、レイは電話を切ったところだった。
「遅かったな」と言いながら車を出す。GT-Rの深く重いエンジン音が二人の腰を揺らした。
「えぇ、机が思ったより重くて。どこに電話を?」
「こないだお前も会った、CIAの長官だ。事情を話したらあっさり、ロバートの家の住所を教えてくれたよ」
「議員が家にいるとは限らないのでは……」
「長官様は上院下院、地方議員、全米の議員の現在位置を把握してるそうだ」
「……先日も思いましたが、彼はおそろしい人ですね」
「たぶん俺たちのこの会話も盗聴してる」
レリエルは絶句して、レイの横顔を見た。
「問題ないさ。俺たちは国や世界を守る側である限りはな。愛と平和だ。ラブ&ピースの精神で行こうぜ」
その時、レリエルのズボンのポケットのスマホが震えた。非通知の番号だった。
出ると、硬く鋭い機械のようなあの声が耳に刺さった。
「レリエルさん。ロバート議員の件、よろしくお願いします。後始末は我々が上手くやりますので。それから──」
長官は付け加えた。
「隣の彼に、『ラブ&ピース&アメリカの精神でやってくれ』と、伝えていただけますか?」
車で30分飛ばした郊外に、ロバート議員の自宅はあった。隣家とはかなり離れている。が、さほど大きな家ではない。
車を家の前で停め、レイはスマホの画面を見た。検索してプロフィールを眺めている。
「妻とは10年前に死別、議員生活60年超の大ベテラン、しかし大統領選には立たない『キングメーカー』……」
「王を作る者、とは?」
「有望株を育て、操り、王──つまり大統領にするのが好きな男だ。黒幕ってやつだな。
だからあだ名の『キング・マック』は、影の王様って意味もあるんだろう」
レイはスマホをダッシュボードに投げ入れた。
闇の深い夜に黒い雲が満ちている。どこかで雷が低く唸った。
レイは車のドアを開けた。
「そういう野郎と、今から俺たちは対決するわけだ。せいぜい奴の口車に乗らないよう気をつけねーとな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます