第6話 私が選んだ答え
成瀬は俊敏なドリブルを披露してみせた。私も負けず劣らずボールを奪おうとする。
「やるなぁ」
成瀬はさらに動きを速めた。狭い教室の後ろで、ちょこまかと動き続ける。
ボールはなかなか奪えなくて長期戦になった。
ものすごくヘトヘトだったはずなのに、私はこの時のことを今でも鮮明に覚えている。
暖かな光が差し込む教室。
グラウンドから聞こえる運動部の掛け声。
吹奏楽部が奏でるゆったりとした楽器の音色。
優しい風に揺られるカーテン。
そして成瀬の笑顔。
あの日の放課後の、あの数分間。
私を、私たちを縛る制約はどこにもなかった。
これをしてはいけないんだ、という過去の後悔も、これをしたらどうなるか、という未来の不安も感じなかった。
それは、私が生まれて初めて「今」だけを生きた瞬間だった。
そんな時間に終わりを告げるかのように、教室の前の扉がガラリと開かれる。
私たちは磁石の同じ極同士のように反射的に立ち退いた。
「そろそろ下校時刻だから帰れよー」
私のクラスの担任教師はそれだけ伝えると扉を閉め、スタスタとどこかへ行ってしまった。
「ちえっ、もう終わりか、つまんねー」
成瀬はボールをつま先でつんつんと突きながら言った。
すると
「あ!」
と大きな声を出した。
「うわっ!……もう、びっくりするからその大声やめてよ……」
「ごめんごめん。良いこと思いついたからさ。んじゃ、俺そろそろ行くわ。暇を潰してくれてありがとなー」
成瀬はボールも片付けないまま、教室を飛び出して行った。
仕方ないな……と思いつつ、私はロッカーにそっと、サッカーボールをしまった。
成瀬との会話は、これが最後になる。
中学3年生になって、成瀬は突如として学校に来なくなった。
どうやら遠くの街に転校していったらしい。
親が離婚しただとか、家賃を払えなくなっただとか、ヤクザに追われているだとか、生徒たちの間では勝手な噂や憶測が飛び交った。
だけど私は思う。というか、信じたい。
成瀬はきっと、楽しいことを追い求めて転校していったんだと。
どんなものでも楽しいものへと変えてしまう魔法の言葉、「つまんねー」を使って。
「やめ!」
試験監督の合図で、生徒たちは一斉に手に持っていたシャープペンシルを机上に置いた。
「つまんねー……」
私はぽつりと呟き、即座に荷物をまとめると、答案用紙の回収中にもかかわらず席を立ち、試験監督の先生に「用事があるので帰ります」と一言だけ告げ、講義室を飛び出した。
何か呼びかけられた気がしたが、私は振り返らなかった。
塾を出て、急いで駅へ向かう。
祭り会場の最寄り駅まで、ここから5駅だ。
いつも乗っている電車が、やけに遅く感じられた。携帯電話で時間を確認する。私たちの出番までおよそ30分。間に合うか間に合わないかの瀬戸際だった。
お目当ての駅に着くと、電車を降り、会場まで一目散にダッシュした。
私の行動は、間違っているのだろうか。
模試を途中でサボって抜け出すのは、きっと正しいことではない。
でも、それよりも大切なことが、私にはある。
みんなとあのステージに立てるのは、今しかない。
今しかないんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます