最終章 《血の臭い》

(何だ?この足音と鳴き声……胸騒ぎがする)



森の方から何かが近付いてくる事に気付いたナイは背中の旋斧に手を伸ばし、警戒しながら森の様子を伺う。やがて木々を潜り抜けて姿を現したのは、全身が赤毛で覆われた巨大熊だった。




――グゥウウウッ……!!




森の中から姿を現したのはかつてナイを苦しめた「赤毛熊」であり、この森にも赤毛熊が生息していた事にナイは驚く。しかも赤毛熊はナイが子供の頃に倒した個体よりも一回り程大きく、鼻を鳴らしながら周囲の様子を伺っていた。



(どうしてこんな時に赤毛熊が……待てよ、あの紋様は!?)



岩の陰に身を隠しながら唐突に現れた赤毛熊にナイは警戒していると、彼は観察眼の技能を発動させると赤毛熊の額の部分に「鞭の紋様」が刻まれている事を知る。


ナイの前に現れた赤毛熊は間違いなくアンが使役する魔獣だと発覚した。だが、この状況で赤毛熊を谷に差し向けた事にナイは疑問を抱く。



(なんで赤毛熊をこの場所に……)



討伐隊がここまで出向いた時に襲わせるつもりで赤毛熊をアンが服従させたとしても、今更赤毛熊程度の戦力では脅威にもならない。討伐隊の殆どの面子が赤毛熊を単独で討伐できる実力者ばかりであり、今更赤毛熊を差し向けたとしても何の脅威にもならない。



(何かを探しているみたいだな……)



赤毛熊は谷に到着すると忙しなく周囲を見渡し、何かを探している様子だった。ナイは赤毛熊の行動に疑問を抱きながらも様子を探っていると、ここで森の方から更に音が響く。



「フゴォオオッ……」

「ガアッ!?」



姿を現したのはボアだった。ボアは川の水を飲みに現れたのか赤毛熊が居る事に気付かずに川に近付き、そのまま川の中に顔を突っ込んで水を飲み始める。その様子に気付いたナイは声を上げそうになるが、慌てて口元を塞ぐ。


赤毛熊はボアに気付かれない様にゆっくりと背後から近づき、ボアが川の中に顔を突っ込んでいる間にその鋭い爪を放つ。赤毛熊の振り下ろした爪はボアの背中を貫き、一撃で致命傷を与える。



「ガアアッ!!」

「プギャアアアッ!?」

「うっ……」



ボアを一撃で倒した赤毛熊を見てナイは顔をしかめ、赤毛熊を見ていると自分を守るために死んでしまったアルを思い出して辛い。できる事ならばこの場を離れたかったが、アンが使役する赤毛熊をみすみす逃すわけにはいかない。



(何が目的なんだ……?)



自分が仕留めたボアを赤毛熊は川から引っ張り上げ、その場で死骸に噛みついて食事を始める。その様子を見てナイは疑問を抱き、今の所は赤毛熊に怪しい挙動はない。野生の赤毛熊と同様に獲物を見つけて襲っただけに過ぎない。


アンが使役する赤毛熊の行動を観察しながらナイは周囲を見渡し、他に気配を感じない事を確かめる。最初は赤毛熊に自分が夢中になっている間、他に森に隠れている魔物を差し向けて自分を襲うつもりかと警戒したが、ナイの予想に反して森の中に生き物の気配は感じない。



(餌を探すためだけにここへ来たのかな……でも、何か違和感を感じる)



ナイは赤毛熊の行動に違和感を感じ、何となくだがこのまま見過ごすのはまずい気がした。しかし、赤毛熊の方はボアの死骸に嚙り付く事に夢中でナイの存在には全く気づいておらず、今ならば赤毛熊に止めを刺すのは容易い。



(この距離なら仕留める事ができるけど……どうしよう)



ナイは旋斧に手を伸ばし、何時でも戦える準備を整えながら様子を伺っていると、ここである事に気付く。それは赤毛熊がボアを殺した時に血の臭いが周囲に広まり、それを感じ取ったナイはシノビの言葉を思い出す。



(待てよ、確か牙竜の嗅覚は……!?)



シノビの話によれば「獣の王」こと牙竜は嗅覚も鋭く、そして現在の谷には赤毛熊が殺したボアの血の臭いが広がっていた。ナイは嫌な予感を抱き、即座に気配感知と魔力感知を発動させて周辺の様子を伺う。


彼の予想通りにナイは谷の向こう側の方角から近付いてくる反応を感じ取り、咄嗟に彼はシノビから受け取った香草を取り出す。その直後に足音が鳴り響き、凄まじい咆哮が山の中に響き渡る。





――グギャアァアアアアアッ!!




ナイがこれまでに聞いた事がない鳴き声が山中に響き、赤毛熊は驚いた様子で顔を上げると、そこには谷の方から迫りくる灰色の巨大生物を発見した。




全長は火竜と同様に10メートルは軽く超え、背中に翼は生えていないがその代わりに四肢が異様に太く、両腕の部分に羽根のような物が生えていた。何よりも恐ろしいのは巨大生物の顔であり、火竜が可愛く思えるほどに獰猛な容貌だった。




一目見ただけでナイは現れた生物の正体を「牙竜」だと見抜き、その姿を見ただけでナイは恐怖を感じ取った。これまでに様々な魔物と相対してきたが、そのどれよりも恐ろしい威圧感をナイは感じ取り、岩の中に身を隠す。

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