過去編 《お前はいらない》

「……愚かな男ね」

「ギギィッ?」

「何でもないわ」



失った片耳に手を当てながらアンは呟くと、ゴブリンが不思議そうに見上げてきた。アルバートンがアンを人質にして片耳を削ぎ落したのは彼なりの復讐だったのかもしれない。


アンを救った聖女騎士団は彼女の治療も行ったが、生憎と現場に居合わせた団員は回復魔法は扱えず、任務でもなかったので市販の回復薬しか持ち合わせていなかった。怪我を治すだけならばともかく、破損した肉体の一部を再生する場合は特製の回復薬が必要だったため、アンの片耳は失われたままだった。


右耳が存在しない彼女は髪を伸ばして隠しているが、時折に痛みを感じる事がある。怪我自体は完全に治ったが、当時の事を思い出すとアンは失われた右耳の幻肢痛に苦しむ。



(鬱陶しい……死んでも尚、私を困らせないでちょうだい)



父親に対する愛情など一片の欠片も残っていないはずだが、彼の事を思い出す度にアンの失われたはずの耳に痛みが走る。この幻肢痛を抑えるためには完全に父親の事を忘れるしか方法はなく、彼女は王都を離れたのは新しい場所で新しい生活を送り、誰にも束縛されない自由な生き方を手に入れるためだった。



「この村は……人が多すぎるわね」



辺境の地に辿り着いたアンだったが、彼女の目的は人里離れた場所で誰の力も借りずに一人で生きていくつもりだった。もう他の人間と接触して暮らす事は嫌な彼女は村から離れようとした。


しかし、村を離れようとした途端、アンは気配を感じ取って彼女の傍に仕えていたゴブリンも武器を構える。アンは気配の方向に振り返ると、木々の間からファングが姿を現す。



「グゥウウッ!!」

「ギギィッ!!」

「……面倒ね」



コボルトが姿を現した瞬間にゴブリンはアンを庇うように身構えるが、それに対してアンはコボルトに視線を向け、ある事に気付く。



「毛並みが黒い……亜種ね」

「ガアアッ!!」



コボルトの通常種は灰色の毛皮だが、アンの前に現れたコボルトは毛皮が黒色であり、亜種である事を見抜いたアンは自分を庇うゴブリンに視線を向ける。


彼女が使役するゴブリンは命令には絶対忠実で逆らう事はできない。しかし、いかに自分に忠実であろうとではこれからの旅路にアンは不安を感じていた。そんな時に都合よく現れたコボルトに対してアンは残酷な考えを思いつく。



「戦いなさい」

「ギギィッ……!?」

「さあ、早くしなさい」



アンからの命令にゴブリンは驚いた表情を浮かべるが、彼女はゴブリンを睨みつけるとゴブリンの首筋に紋様が浮き上がる。魔物使いが契約を交わした魔物には身体の何処かに「契約紋」と呼ばれる紋様が浮き上がり、この契約紋を刻まれた魔物は命令に逆らうと紋様が激痛を引き起こす。



「ギィアアアアッ!?」

「ガアッ!?」



痛みのあまりにゴブリンは気が狂ったかのように悲鳴を上げ、その様子を見たコボルト亜種は驚く。アンの命令通りにゴブリンは武器を手にしてコボルト亜種へと襲い掛かり、その様子をアンは澄ました顔で見届ける――






――数分後、アンの目の前では血塗れになって倒れたゴブリンと、片膝を着いて首元を抑えるコボルト亜種の姿があった。普通ならば通常種のゴブリンにコボルト(しかも亜種)が後れを取る事は有り得ない。


だが、魔物使いと契約を交わした魔物は成長が早く、アンが従えていたコブリンは「上位種」に近い戦闘力を持ち合わせていた。それでもコボルト亜種には遠く及ばないが、アンの命令を受けたゴブリンは死力を尽くしてコボルト亜種と戦い、倒す事はできなかったが疲労で動けなくなるまで追い詰める事に成功した。



「ギィアッ……」

「…………」



ゴブリンは既に立ち上がる気力も残されておらず、アンに対して助けを求めるように手を伸ばす。しかし、自分のために命懸けで戦ったゴブリンに対してアンは冷めたい瞳を向け、一言だけ告げる。



「お前はもういらない」

「ッ……!?」



アンの言葉を聞いたゴブリンは目を見開き、この時に首に浮かんでいた紋様が消えてしまう。魔物使いの施す契約紋は魔物使いの意思で効力を消す事が可能であり、アンが「いらない」と告げた時点で彼女とゴブリンの契約は打ち切られた。


契約紋が消えたという事はアンはゴブリンを完全に見捨てた事を意味しており、彼女は膝を着いているコボルト亜種の元へ向かう。ゴブリンはそんな彼女に対して必死に助けを求めるが、既にアンの興味はコボルト亜種に向かれていた。



「さあ、私に従いなさい。そうすれば貴方に力を与えるわ」

「ガアッ……!!」



疲労困憊のコボルト亜種にアンは手を伸ばし、新たな契約を交わす。その光景をゴブリンは見届け、やがて意識を失う――

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