8-4:危険な飲み物
「ハル!」
「ハル様!」
紅茶を一口含んだハルは、すぐに体をひねって向こう側に俯く。おそらく中身を吐き出した。
地面に置かれたコップはそのまま倒れ、中身が地面へと広がっていく。
「飲まないほうがいい」
短く告げられた。彼が言葉を発せられたことにほっとしそうになるけれど。
ひらひらと蝶が飛んできて、地面に倒れたコップの近くに舞い降りる。思わず私は固まってそれを凝視した。たぶんノアも。
蝶はコップのふち辺りに残って溜まっていた水にひかれたらしい。そこに止まって何度かゆっくり羽根を動かし、そして急に動きがおかしくなる。
羽根の開閉がぎこちなくなったかと思うと、力なく蝶がその場に倒れた。明らかに変だ。
「ど、毒!? そうよね!?」
「ああ、だから飲まないほうがいいと――」
「早くちゃんと吐き出して! 水! うがいして!」
ノアが慌てて自分の持ってきていた水筒に手をやるけど、待てない。というより水筒の中身を信用できない。
私はハルの手を取ると、近くに見えていた小川へ走った。
「イリナ――」
「早く! うがいして! 中身吐き出して!!」
早くしろと水面に近づけるよう背中を押せば、彼は素直にしゃがんでなんどか口をすすいだ。
「気分は? どのくらい飲み込んだ?」
「大丈夫だよ。飲んではいない。少し舌が麻痺するような感覚があったから、警告したんだ」
「でもあの蝶は……」
死んだのだろうか?
ちゃんと確認していない。
「こちらの水筒の中身は大丈夫でした。おそらくイリナ様のものだけです」
追いかけてきたノアが、そう言って彼の持ってきた水筒を掲げる。
そういえば、私より先に一度ハルはノアに渡された紅茶を飲んでいた。そのときは何も異変はなかった。
「……私のものだけに毒が入っていたのね」
当然だけど、二人も私と同じく監視塔の件が頭に浮かんでいるはずだ。
塔から突き落とす嫌がらせの続きは、毒入り紅茶なんて笑えなすぎる。いやもう、嫌がらせの域を超えた。
ノアは神経質そうに息を吐いた。
「すみません、油断していました」
「あなたのせいじゃないわ。私も注意が足りなかった」
こんな風に狙われるなんて、あまりに予想外だ。
「あのバスケットは、朝食後に食堂に用意されてそのままだったはずです。寮に出入りできる人間なら、誰にでも機会はあります。名前のカードがついていますから、イリナ様がどれを取るかもわかったでしょう」
ハルからは珍しく笑みが消え、真剣な顔をしていた。
「監視塔の件が一昨日の午後。そこから今に至るまでに、明確にイリナを殺そうと思う何かがあったということかな」
「そうなりますよね? 今回も運よく風が教えてはくれましたけど、そうじゃなければ今ごろ……」
「今後は彼女の食事にも気を遣ったほうがいいか。ノア、今日から彼女と僕達で一緒に食事ができるよう手配を頼めるかな?」
「わかりました。ただ、あなたから校長に話を通してもらえるとすんなりいくかと思います」
勝手に話を進めていくノアとハルを見ながら、段々と信じられない気持ちが湧いて来た。ハルは得体の知れない毒を飲みかけたばかりだというのに。
「ハル。あなたどうしてそう、平然としてるのよ。もしかしたら私の代わりに死んだかもしれないのよ」
「ちゃんと気をつけたよ。少し含んだだけだし、飲まずに吐き出したしね」
「万が一があるでしょ!」
大声を出してしまい、驚いた顔で二人から見られた。
「心配させたかな。ごめん」
「すみません、ハル様の様子からおそらく本当に大丈夫だろうと判断しまして」
「そういう問題じゃない。だって毒なのよ……」
ハルに毒を含ませてしまうなんて最悪も最悪だ。状況を飲み込んでいくほど心臓がばくばくしてきて、いつもの私を取り繕えない。
見られたくなくて腕で顔を隠したら焦った声がした。
「僕は多少の毒には耐性があるんだ。体質なんだよ」
「そんなの知らないわよ……」
あのときは死にそうになったくせに――。
思わず口にしかけた言葉を飲み込む。
「とにかく、君が毒を口にしなくてよかった。僕じゃなく君が苦しむのは、僕が耐えられない」
どうしてそこまで。死ぬ危険も厭わないほど、私のために。
そう思ったところで血の気が引く。
――彼は、私をコラク公国第二王女ユリアだと思っている。
そうだ。彼がここまで身を尽くすのは、私のためじゃなくユリアのためだ。私がユリアじゃないと知っていたら、命の危険は冒さなかったかもしれない。
目的のために彼を騙すことは厭わない。だけど、命をかけさせるほどのことをさせるつもりなんてなかった。
もしまた狙われることがあって、彼が身代わりにでもなったら?
ぞわりと背中を寒気が走る。
冷水でもかけられたように冷静になって、私は腕を下ろす。
「と……ともかく、助けてくれてありがとう。あなたのおかげで毒を口にせず済んだわ。たぶん、死なずにすんだと思う」
「いいんだよ。それより顔色が悪い。早く宿舎に戻ろう」
おそらく最高に青ざめているだろう私を促し、木陰に戻る。
「入れられた毒についてはなんとか成分を分析できないか、調べてみます。薬草絡みで精霊の加護を受けている同級の者がいますし、その辺りになんとかこっそり協力を頼めないか聞いてみますよ」
ノアの言葉には小さく頷いた。
あれが、誰かを殺せるものじゃなく、単なる悪戯で済ませられるような毒ならいいのに。
でもハルの感じた麻痺するような感覚や蝶の挙動を見ていれば、そんな期待はするだけ無駄だろう。
不意にハルが、いいことを思いついたという風に「そうだ」と声を上げる。
「君の部屋に外から鍵をかけて、誰も入れないようにしようか。鍵は僕が責任もって七日目まで持っておく。そうすれば安全だ」
言われた瞬間の最高に複雑な気持ちは、言葉には言い表せない。
私だけでなくノアも黙ってしまった。
「一つの案だよ。じゃあ、戻ろうか」
何もなかったかのようにハルは歩き出す。私は黙ったまま後に続いたのだった。
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