6-4:西の監視塔
私達のいる建物を囲う四角い塀の四隅には、背の高い監視塔がある。
他の建物よりも背が高く立派な塔は、セイレン島の調査のために使われることもあるらしい。
西の監視塔に鍵はかかっていなかった。もとから自由に人か出入りできる様子だ。
この辺りは建物の裏手で特に利用されていない場所らしく、人がいない。東のほうは近くに実験用らしい菜園が作られており、研究学校生の姿があった。
薄暗い階段を上り、地上から三分の二ほどの高さに設置してあるバルコニーに辿りつく。
塔の外壁に沿って、二人分くらいの幅の通路がぐるっと一周しているような形だ。
ここが手紙にあった待ち合わせ場所だった。
誰もまだ来ていない。
バルコニーを一周してそれを確認すると、私は自分を落ち着けるように風景に目をやった。
西側は塀の外が広い草原になっていた。遠くにいくつか人影が見えるけど、この距離だし私には気付かなそうだ。
手すりに近いたとき、背後で小さな物音が聞こえた気がする。
反射的にばっと振り向こうとして――そんな余裕はなかった。
「やっ――」
どん、と衝撃があったかと思うと腰のあたりが手すりにぶつかり、上半身がその向こうに傾き、体の重心がバルコニーの外側にいってしまうのがわかった。
まずい、と思ったときにはもう遅い。
目の端に黒い影を捉えたのは一瞬。
すぐに私は塔から真っ逆さまに落ちて――。
「……イリナ!」
誰かの呼ぶ声で目が覚める。
瞼を開けるとそこにいたのは、酷く焦った顔をしたハルだ。
よくわからないけど急に時間が飛んだようで混乱する。
「ハル? 私……」
回らない頭でなんとか状況を把握しようとする。顔だけ少し動かせば、すぐ近くに監視塔と塀。周りは短い草が生えた広い野原のようなところだ。
地面に仰向けに倒れた私の背中を、ハルが支えて起こしてくれていた。
そうだ。私は西の監視塔から、塀の外側に向けて落ちた。違う、落とされた。
思い出して体がぶるりと震える。地面に横たわっているというのに、どこかに落ちていく気がして反射的にハルにしがみついてしまった。
「イリナ。『大丈夫、ここに怖いものはいないから』……」
しがみつく私をそのままに、優しく声を掛けられる。
なんともいえない顔で彼を見上げるが、彼は何も憂うことはないとばかりに微笑むだけだ。
「ご、ごめんなさい。ちょっと驚いて」
彼から手を離したかったけど、うまく動かない。私の動きに気付いたハルが、背中を支えて上半身を起こしてくれた。なんだか彼の手が酷く安心させてくれるから、そのまま甘えさせてもらう。
「イリナ様……」
控えめに声をかけてきたのはノア。混乱していてすぐに気付けなかったけど、彼もすぐ傍にいて心配そうな表情で私を見ていた。
そこでようやく、私は宿舎を出る際に食堂にいたノアに「西の監視塔に向かう」とこっそり告げたことを思い出した。ついてきてとは言わず、ただ場所だけ。でもそれで、同行せず様子を窺いに来てほしいのだと彼なら汲み取ってくれる。
「大丈夫よ、なんともない……」
「イリナ、何があった?」
「監視塔のバルコニーから、誰かに突き落とされたの」
「相手は」
「見てない……わからないわ」
一瞬ちらりと目の端に移った相手は、黒いフードに身を隠していた。顔も背格好もよくわからない。
「今から向かっても逃げたあとか」
ハルが首だけで塔のほうを振り向き、悔しそうに呟く。
「僕らが西の監視塔の手前まで来たところだった。君が塀の向こう側に落ちたのが見えて、慌ててここにきたんだ」
「塔から落ちたんですよね? お怪我がないということは、やはり講堂のときのように」
「ええ。風が助けてくれたんだと思う……」
はっきりとは覚えていないが、落ちたと思った次の瞬間、体を押し上げるように包む空気の流れを感じた気がする。
混乱していたし、その後は気絶してしまったしでよく覚えていないけれど。
「君達! 大丈夫か!?」
遠くから焦った声と共に駆け寄ってきたのは校長だった。
「校長先生。どうしてここに」
「私の執務室の窓から、塔から落ちる人影が見えたんだよ! それで慌てて飛び出してきた。でも大丈夫だったのか、よかった……」
「よくない。誰かが彼女を突き落としたんだから」
静かに怒った口調でハルが言う。校長相手に気遣わない喋り方だ。
「でも精霊が助けてくれたみたいなんです。だから怪我はありませんわ」
「風の精霊か……相当愛されてるんだな、君は。たしか入学試練の手続きの書類には、少量の水が凍ることがあるとしか記されていなかったが」
「すみません。確信がなくて」
風の精霊の存在を疑った経験は片手で数えられるほど。すべて気のせいで済ませられる程度だった。
まさか塔から落ちても助かるくらいの強い風が起こるなんてこと、想像していなかった。
それを言えば、校長は「セイレンだからかな」と頷く。
「ここでは精霊の力が高まることがある」
「命を守ってくれるほどの風が吹くなんて、思いもしませんでした」
「そうですか? 今朝見た感じだと、塔から落ちても守るくらいしてくれそうだと思いましたが」
ノアの言葉に校長が首を傾げる。
「今朝? 何かあったのか?」
私は、講堂の階段で転げ落ちかけたのを風が支えてくれたことを説明した。
「そんなことが起きていたのか。該当の生徒にはしっかりと注意をしておく」
「いえ、あれはもう解決したことです。それに相手の顔を覚えていません」
すっとぼけて言えば、校長は諦めたようにため息をつく。
一方で、苛立ちを押さえた声でハルが尋ねてきた。
「それより、君を突き落とした犯人に心当たりはまったくないの? その講堂で突っかかってきた相手は」
「彼は十分後悔している様子だったわ。犯人には……思えない」
私を支えるハルの手は優しいけど、答え次第ではそのまま相手の元へ飛んでいきそうな興奮気味な感じもする。
私が少し冷静でいられるのは、そのおかげかもしれない。自分のために自分より怒ってくれている人が間近にいると、なぜか落ち着いていられたりするから。
「そもそも君は監視塔に何をしに行ったの」
「手紙で呼び出しを受けたのよ。私に伝えることがあるって。差出人は書かれていなかった」
「相手には会えた?」
「ううん。誰もいなくて、待っていたら背中を押されて……後はこの通り」
ハルが薄く笑う。
「ここには、イリナを殺したいと考えている者がいるんだ」
周囲の気温が一気に下がった気がする。
彼を加護する精霊は、彼の怒りに呼応するのだ。私だけでなくノアも校長も、同じようにぴくりと体を反応させて目を見開いた。
ハルだけが変わらず笑みを崩さないのが怖い。
「こ……殺したい、とは違う可能性もありますよ」
ノアがおずおずと口を挟んだ。
「イリナ様が風に守られているのは、入学試練生の大部分が知っています。一部の研究学校生もです。イリナ様が塔から落ちたとき、私はとっさに風が守ってくれるはずだと思いましたし、こうなることを予想した上で突き落としたということも……」
「殺そうとしたのではなく脅そうとした、嫌がらせをしたかったということか。そちらのほうが、まだあり得そうかな」
納得した様子の校長に、またもハルが殺気立った。
「塔から突き落とす嫌がらせ? とても大胆な方法をとる人物だね」
「落ち着いてくれ、ハル。もちろん、殺意がないからといって許されるわけじゃないよ」
校長は頭が痛いとでもいうように顔をしかめる。
「イリナ・アドラー。君に嫌がらせをするような相手に心当たりはあるかい?」
こんな酷いことをされるほど、良くも悪くも関係のある相手なんてほとんどいない。選択肢はとても少ない。頭に浮かんだ相手は、ハルやノアも同じだっただろう。
ロベルト・ヴィークか、ジェニファー・エーブルか。そのくらいだ。
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