3-1:明け方のひととき


 ハルの屋敷の居心地は案外悪くなかった。

 貴族が郊外に構えるような大きな館ではない。都会に滞在にするためによく購入されている、こじんまりとした邸宅だ。


 広さの問題なのだろうか。この屋敷全体にハルの目が行き届いているような、彼が許さない者の立ち入りはできないような、妙な安心感がある気がした。

 彼があまりにくつろいだ態度だったから、その雰囲気に引きずられたのかもしれない。


 使用人は最低限しか雇っていないようだが、細々したことまでよく気遣われて、不便を感じることはない。

 私の適当なリクエストに応えてくれた夕食も美味しかった。


 食後に今後のことを少し話し合ってから、あてがわれた客室に引っ込む。


 ベッドに入ったのは割と早い時間だったけど、すぐには眠れなかった。ここに来るまでのことや、これからのことを無駄に考えてしまう。

 それでもいつの間にか少し眠れたようだったが、陽が昇る前に目覚めてしまった。どうしても部屋で落ち着いていられなくて、私は一人で身支度を済ませて居間へと向かう。


「おはよう、早いね」

「あなたもね……」


 居間には、だらけた感じにソファに寝そべりながら本を読むハルがいた。私を見てもそのままで、挨拶するように片手をあげる。

 私はなんとなく向かい側のソファに座り、クッションに体を沈めてぼんやり上のほうを見た。


「飲み物は? お腹は空いてる?」


 立てた膝で支える本を読みながら、そんなことをハルが訊いてくる。


「あら、あなたが用意してくれるの?」

「うん。使用人もノアもまだ寝てるからね。僕は好きな時間に起きて好きに行動するから、気にしないように言ってある」

「教えてくれたら、私も自分で――」

「いやだ、僕がやる」


 本を閉じて机に置くと、ハルが立ち上がった。絶対譲らない、みたいな感じで言われたので、素直に甘えることにした。


「暖かいものが欲しければ、厨房に行ってくるけど」

「そこまでさせられないわ。あなたと同じもので」


 そう言うと、ハルは部屋の隅に置かれているワゴンへ向かった。水差しや、食べ物が入っていそうなバスケットが乗っている。いつ起きるかもしれない主人のために、あらかじめ用意してあるのだろう。


「あなた、大衆向けの恋愛小説も読むのね」


 机に置かれた本の表紙を見て意外に思った。列車で広げていたのは、経営学に関する本だった。


「人付き合いのための勉強だよ。特に小説は人の考え方を学べる。君のほうこそ、すぐに気付くね。大衆向けなのは装丁からわかるだろうけど、表紙じゃ恋愛小説だとわからないだろ。好きなの?」

「これ、男性ファンも多いっていう人気のシリーズでしょ。流行はある程度抑えてるの。どこで会話の糸口になるのかわからないから」

「君も勉強か」

「結構面白かったわ。私、この前の巻が好き」

「僕は最初の巻だな。興味深くて二回読んでしまった」

「しっかり気に入ってるじゃない」


 ふふと笑うと、つられたように彼も小さく笑った。


「読みたいなら、書庫にシリーズが揃ってるよ」

「……今はいいわ」


 ゆっくりと本を読むには、いろんなことを考えすぎて疲れている。すべてが終わってからなら、読ませてもらおうかな。


「そういえば、ちょうどカイゲン卿がセイレンに滞在しているらしいんだ。おそらく今夜封切りになる歌劇を観劇すると思うけど君も行ってみる? 運がよければ挨拶できるだろう」

「カイゲン卿? エマ・カイゲン? あなた、彼女と面識があるの?」

「彼女の姪が精霊憑きで、セイレン島で音楽家をやっているんだ。その姪の関わる舞台を見に、たまにやってくるんだよ」


 エマ・カイゲン伯爵といえば、ティシュア帝国議会でかなりの発言力を持つ政治家の一人だ。特に貿易と外交面に強い。その延長でともいうか、コラク公国との関わりもいくらかあった。


 爵位だけでいえばヴィーク家のほうが位が上だが、政治的発言力は爵位と比例しなくなってきているのがティシュア帝国だ。

 その最もわかりやすい具体例が、近年コラク公国との窓口役以外では特に目立つことのなくなったヴィーク侯爵家と、先々代くらいまでは地方の一貴族だったのがその手腕で一気に政府中心に食い込んだカイゲン伯爵家だった。


 そういう背景もあって、ヴィーク侯爵はカイゲン伯爵を嫌い、一方的に敵対意識を抱いている。カイゲン伯爵のほうは、そんなヴィーク侯爵がいずれなにかで暴走しないかと気にしていた印象があった。


「カイゲン卿との接触は、君も視野に入れてたんじゃないかと睨んでたんだけど」

「まさか。急に押しかけて助けを求められるほどの繋がりはないもの。誰かに橋渡ししてもらわない限りはね」


 ワゴンの前に立ったまま私に背を向けてたハルが、後ろを向いてにやりとしてまた戻った。


「観光地としてのセイレン島は、上流階級の人間にも人気なんだ。ここから出ることがなくても、やろうと思えば案外社交はできるものでね。大きな街だといっても、社交場は無数にあるわけじゃないからさ」

「その気になるだけじゃ無理だわ。社交もセンス、なければ努力がいる」

「君はセンスで乗り切るタイプ?」

「そんなわけないでしょ。だったら『人付き合いのために恋愛小説読む』なんて言わないわよ」


 ハルが声を上げて笑った。

 そして水の入ったグラスと、皮をむいて綺麗に切り分けられた梨らしき果物の乗った皿を、テーブルに置く。


「果物なら、甘いものでも平気?」

「後味がさっぱりしていれば好きよ。ありがとう」


 先にグラスに口をつけると、ほんのり柑橘系の香りがした。ライムだかなにかを少し絞ってくれたようだ。


「キタシラカワ家は、当主の見込みが外れて次男が一番有能だった――最近一部で囁かれてる噂は本当だったわね」


 皿の果物を一切れ食べてから、ふと遅れて訂正する。


「有能だっていうのは、こういうことを言ってるんじゃないのよ。カイゲン卿とも面識があるくらいの――」

「わかってるよ。噂であれ、僕のことを知ってくれているとは光栄だ」

「コラクにだって、ティシュアの話は入ってくるから」


 知ろうとしていなければ、耳にはいることはないくらいのちょっとした噂だけど。

 もう一口水を飲んでから、私はグラスを置いてまたソファに身を預けた。こうしているだけでも体は休まる。


 ハルは座ったばかりなのに立ち上がって、窓のほうへ向かった。ぼんやり眺めていたら、彼はいくつかある窓のすべてのカーテンをめくり、鍵が閉まっているのを改めて確認している。


 まるで見せつけるような動きの彼がすべての鍵を確かめたところで、私は訊ねた。


「何してるの?」

「この部屋の窓は鍵がかかって分厚いカーテンがかかってる。外から中を覗かれることはない。廊下に続く扉に鍵をかけてしまえば、誰も中には入れない」

「うん? そうみたいね」

「今、鍵を持っているのは僕と執事なんだけど、執事の持つほうは僕が責任を持って回収しておこう。そうだ、伯爵家の名にかけて誓おうか」

「待って。どうして急に重い宣言始めるの」


 ハルの言いたいことがわからなくて、私はなんどか瞬きをした。


「外に出たらこの部屋には施錠しておくから、君は気にせずここで休んでいい。起きたら、そこに置いてあるベルを鳴らしてくれ」

「ど、どういうこと?」

「僕以外、ここに入ってこれる者はいないから、安心して休んでくれってことだよ」

「え、でも、いきなりこんなやり方?」


 気を遣ってくれているのはわかるが、それが私をこの部屋に閉じ込める結論に至る?


「悪くないよ。僕の経験談だ」

「経験談って……」

「じゃあ、また昼間に」


 私がいろいろ考えて言葉を探している間に、さっさとハルは出て行った。そして本当に扉に施錠される音がする。

 あの扉の感じ、鍵がなければ内側からも開けることはできない。

 完全に閉じ込められてしまった。


「…………」


 いろいろ言いたいことはある。

 でも、誰も勝手に入ってくることがないこの空間は、たしかに悪くはない気もした。


 ――僕の経験談だ、ね。


 試しにとソファに寝そべった私は、ほどなく眠りついた。


 悪夢は見なかった。ただ、夢の中で私は誰かを部屋に閉じ込め、扉に鍵をかけていた。

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