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2-1:トウカの宿
ティシュア帝国といくつかの国の境界に、それらの国々すべてと接するように広がる大きな湖がある。海と呼んでも差し支えないようほどの巨大な湖で、トワル湖という。
そのトワル湖の中心に浮かんでいるのが、セイレン島と呼ばれる巨大な島である。
浮かんでいるというのは、本当にそのままの意味だ。
巨大な岩が湖の水面から距離を開けて浮いた状態で静止していて、その上に緑豊かな大地が広がっている。それがセイレン島。
このような不思議な島は世界を探してもセイレン島だけだ。
この島と湖は、精霊達の生まれる場所であり還る場所とも言われていた。
そんな巨大な島の端っこ、ほんの一部分に人間達の街がある。ほんの一部といっても島自体が大きいから、人間からすればかなり大きな街だ。
島と同じ名のセイレンと呼ばれるその街は、どこの国にも属さない。街とは呼ばれるものの、小さな国であるともいえた。
セイレン島はすべて精霊達の土地。だから許された範囲のみで人の営みを行いながら、精霊の力を請い願い、自分達の生活を豊かにする手助けをしてもらう。
そんな考え方の下で続いてきた街だ。
精霊を祀った大きな神殿があり、そこに仕える者達が街も治めている。
ティシュア帝国にはトワル湖に面するトウカという街があるり、セイレンへはそこから特別な船で行き来する。そのため、ティシュア帝国がセイレンの後見者的な存在に見られていた。
トウカの、湖に面した大きな港。その船着き場にある宿の二階から、私は湖の上に浮かぶ島を眺めていた。
「セイレン島って、聞いて想像するよりずっと大きいわよね」
情報として知っているのと実際に目にするのとは違う。そういうことって意外と多い。
「あの上に大きな街があって、さらにその何倍もの広さの森や山が広がってるんだ」
向かいに座るハルが説明しながら、つまらなそうに横目で窓の外を見やる。
「観光地として訪れるには悪くない場所だろうね。けど、住むには特段面白い場所というわけでもない」
「あなたにとっては退屈? セイレンの街は、だいぶ都会と言われてるけど」
「便利だし物資も充実している。それなりに暇を潰す社交場もある。そのあたりはティシュア帝国の栄えている街と、そう変わらないな」
「ならいいじゃない」
「でも籠って暮らしていればじきに飽きるものさ。結局、誰が傍にいるのかが重要かな」
ふうん、と頷く。
彼はあの島にある、セイレン精霊研究学校の生徒だ。彼らは年に二回の長期休み以外、基本的に島を出入りすることはできない規則がある。
学校が厳しいわけでなく、セイレン島自体が人の出入りを厳しく管理しているのだ。
観光客なのか、商売を行うのか、セイレン島で暮らしているのか。それによって滞在できる期間だったり、出入りするための許可証の種類が変わってくる。セイレン島内で行動できる範囲も違う。
許された滞在期間を超えてあの島にいることは難しい。違反者はすぐに神殿付きの騎士団によって拘束され、島から出されてしまう。
「もう一度確認するけど、船に乗るのに僕の手助けは何もいらない?」
「いらないわ。何度も言うけど、私にも私なりの手段があるの。説明したでしょ」
「つまらない」
ストレートに不満を漏らす彼に呆れながら、無視して私は出されたコーヒーを飲んだ。
「なあノア、お前も何か考えてくれない? 僕が彼女の役に立っていいところを見せられる方法をさ」
「いやあなた、彼女を匿ってここまで連れてきたんですよね。それだけでも、かなり役に立ったと思いますけど? 一番信用してるはずの従者まで、騙して連れてきたんですから」
呆れた様子を見せる者が、この部屋にもう一人。
コーヒーとケーキを並べてくれている、ノアという青年。彼はハルの従者として同じ列車に乗っていた、キタシラカワ伯爵家の使用人だ。
ハルより一つ年下のノアは、主にハルの身の回りの世話をするために彼についている。伯爵家にいるときはちゃんとしているらしいが、二人きりだったりセイレン島にいる間は緩くくだけたやり取りでよしとしているらしい。
そんな事情をあらかじめ聞いていた私も、ハルと同様気にしなくていいと彼に伝えてある。適応するのが早すぎる気もするけど、まあいい。
「トウカに着くまで放っておいてくれってやけに強固に言うと思ったら。まさかこんな大事件に巻き込まれているとは思いませんでしたよ」
彼もまた、モヤモヤをなんとか飲み込んでいますからね、というのを隠さない様子だ。
この主人にして、この従者あり。長く一緒にいる間に似たのかもしれない。
「手引きしたのがハル様だとバレないでいるのは、無理ですよね」
「僕は彼女に力を貸すと決めた。それは何があっても変わらないよ。僕はあの島で、彼女の支援者として堂々と名乗りを上げて構わない」
涼しい顔でハルがコーヒーに口をつけている。そしてケーキに目をやったあと、「甘いものは得意じゃないから君が食べていいよ」と私に笑いかけた。
「気持ちだけで。私も甘いものは苦手なの」
そう言って断ると、ハルが固まる。
「え、何よ。どうしたの」
「君の苦手なものを出してしまった。今も、昨晩も。どうして言わなかったんだ」
「別に食べられないほど嫌いってわけじゃないの。少ないけど好きなものもないわけじゃないし。たくさん食べる気にはならないってだけ」
「せっかくなら君が喜ぶものをあげたいのに……」
「はいはい。変なところで落ち込まないで、ハル様。甘いものを譲って点数上げたかったんですか? 大丈夫、こうなる可能性も考えて、甘くない軽食も用意しておいてもらいましたから」
ノアが追加で出した皿には、キュウリとハムのサンドウィッチだ。昨日の夜は、ハルが部屋に運んでくれた甘いマフィンを食べただけだったから、塩気のある食べ物がちょっと嬉しい。
できる従者だ。私の中のノアの評価が途端に上がった。
ハルは拗ねた態度で「これも君にあげる」と自分のサンドウィッチの皿を指す。そこまで空腹を感じていないけれど、ここは受け取っておいたほうがいいのか。少し判断に迷う。
「イリナ様、無理せず食べれる量だけでいいですから」
「そうさせてもらうわ」
頷くと、じっと意味深に私を見つめるハルと目が合う。
「どうかした?」
「上流階級の者だと、たまにノアの態度を気に入らないことがあるんだ。けど、君はすぐに馴染んだなと思って」
「王女らしくないかしら? 私だって公の場に出ればまた違う態度をとるわ。……それよりも、ちょっと見ていて」
私は水の入ったグラスを手に取った。
グラスを円を描くように小さく揺らす。こぼれない程度にぐるぐると。そうしているうちに、水の様子が変わってくる。
そしていつの間にかカラコロと音がして、水の中に小さな氷の塊ができていた。
氷入りになった水のグラスを、見せつけるようにテーブルの中心に置く。
「私は正真正銘、精霊の『愛し子』。セイレン精霊研究学校を目指していても、おかしくないでしょ?」
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