第44話 潜航

窓の外はみるみるうちに蒼を濃くして行き、既に紺青と言っていいような色になった。ラピスラズリのような蒼色に、時折光を反射するのはプランクトンだろうか。ラピスラズリの色味を宇宙に例える人は多いが、私は深い海の色だと思う。しんかい6500の搭乗部分は、強い深海底の水圧に耐えられるように球形をしている。外部を観測できるのは、外側に取り付けたカメラからの画像と、一つだけある窓からのみだ。この窓も通常のガラス等ではなく、屈折率の非常に低いアクリルガラス製のものだ。しかも厚みは14cmもあり、同じく水圧に耐えるように円錐形の先端を切り取ったような形をしている。

「………?何か音がする。」モーターの駆動音に紛れて微かにだが、キシキシという摩擦音が聴こえる気がする。吉邨も川崎氏もお互いにそれぞれ操作に集中して、挺内は沈黙が支配しているから尚更に耳についたのだろう。

「……あ?………ああ。水圧でアクリルが収縮しながら窓枠に押し込まれる音だよ。」

「アクリルガラスって、……縮むの?」思わず聞き返してしまった。うちの水族館の大水槽も、かなり初期型だが一応アクリルガラスを使用している。同じ厚さのガラスに比べて重量も軽く、耐久性も高いし透明度もいいのは知っていたが、収縮するとまでは知らなかった。

「…ああ。普通に地上にあるぶんには縮まないけどねぇ〰️。何せほら深海だからさ。」

吉邨が手元の機器を操作しながら当たり前の事のように答える。私の頭上に疑問符でも見えたのか、川崎氏がこちらを見ながらにこやかな表情で説明してくれる。

「…何しろ深海底では地上と違って約6000倍近い圧力の影響をうけますからね。チタン合金製の耐圧殻 とは違ってアクリルにはさらに圧力が集中しますから。それを計算に入れて分厚いものにしてますけどね。」そう言っている間にも、コックピット内には耳障りな軋み音が響いている。

「…水圧で窓枠に押し付けられるから水も空気も漏れないんだ。」思わずそう呟いた。

「ま、そういうこと。」何度もしんかい6500での潜航を経験している吉邨の余裕が小面憎いが、こればかりは仕方ない。そうこうしているうちに窓の外がどんどん暗くなり、すでに完全な暗黒の世界となった。

「…はい、了解。現在水深520m、 順調です。」潜航を開始してから約15分が経過した。外部カメラのモニター画面には、時折下から上に向かって通りすぎる光の帯のようなものが映し出される。

「…サルパだな。群体ホヤの仲間の深海生物だ。そろそろ先行しているケージに追い付くはずだな。」吉邨が手元のソナー画面をみながら解説してくれた。深海生物は専門外なので、通り一辺の知識しかない。長く連なる深海生物は、潜水艇のライトの光を時折反射しながら、くねくねと深海の闇へと消えて行った。その他にも、虹色に反射する繊毛の列が煌めくカブトクラゲや、プランクトン等が窓の外を通り過ぎていくうちに、いわゆるマリンスノーと呼ばれている現象が目につくようになってきた。潜水艇の潜航スピードのせいで、『下から上に向かう雪』という世にも不思議な光景がしばらく続く。

「…はい。現在水深1800m付近到達です。はい、先行したケージはレーダーにて確認しました。深度変更見られないので、着底したものと推測します。………」吉邨が表示したデータ画面を見ながら川崎氏が母船に連絡をする。微妙に船体が揺らぐのは、多分まもなくの目的地到着に向けて位置の微調整をしているからだろう。

「以外に視界が良くないね。」船外を照らすライトの境界線がはっきりと見えて、微粒子が海底から舞い上がっているように見える。

「多分先行したケージの着底の影響だろう。少ししたら収まる筈だから。」吉邨が操作盤をいじりながら機体の向きを変えているせいか、微妙にゆれながら窓の外の景色が流れていく。

「あ、今の所多分ケージ見えたよ」黒い直線的な構造物が視界のはしをよぎった。

「…そうみたいだな。」方向の微調整に手間取る吉邨を見兼ねて川崎氏が操作を交替して、ようやく窓の正面にケージが見えてきた。水中の微粒子も落ち着いてきたため、うっすらとケージの中のシュモクザメのシルエットが見て取れるようになる。

『あ、まだ生きてる。』動いているのがわかって内心少し安堵してしまう。

海底着陸と同時に操縦している二人は、何やら様々な計器類の操作に忙しい。私もそれを横目に見ながら水温計や、塩分濃度の測定等の計器の数値を読み取るだけの作業を先に片付ける。

「……了解しました。では実験開始時刻を10分後の九時三十分として、準備に入ります。」吉邨が、インカムにそう返答してから、こちらを向く。

「…という訳で、あと10分後に、まずはマニュピレータに設置した特製の撒き餌のケースを開ける事になったからな。」前回のハイパードルフィンの時に効力を発揮した風間君特製の、『撒き餌』は、今回も活躍するらしい。かなりの臭いのシロモノだが、多くの深海生物が、嗅覚を頼りに餌を探すことからもこの特製撒き餌が効果的なのは実証済みだ。

「…ん、了解。周辺の水質データも録り終わったから、いつでも大丈夫。」マニピュレーターに付属したロガーから水温等のデータを計測するので、『撒き餌』の成分が付着する前に計測を完了しなくては。私が計測記録用紙の所定の場所にデータを全て記入し終わると、実験開始予定時刻まで残すところ3分というタイミングになった。

『はい。まもなく時刻通り実験開始します。』川崎氏が母船横須賀の司令室とやり取りしながら吉邨にマニピュレーターの操作開始の合図を送る。窓の外で、ゆっくりとマニピュレーターの駆動音が響き、窓から見える正面で撒き餌の入ったビニルパックを開封する。薄いモヤのように拡散していく撒き餌の臭いに反応してか、奥に見えているシュモクザメの動きも活発化している。

『時間通り、撒き餌の散布終了しました。このまま経過観察に入ります。』川崎氏が司令室への報告を完了して、吉邨はマニピュレーターに残った撒き餌の空き袋を振りながら回収ボックスに収納する。

「…………何ともないね。」沈黙のなか、時折聴こえてくるのはシュモクザメがケージに擦れる音と、ソナーの発信音だけ。三人でそれぞれの分担したモニター画面やセンサー表示、窓の外側の動きの有無等をひたすら見守りながら、そのまま20分くらい経過しただろうか。

「……あれ?なんだこれ。」吉邨がソナー画面の片隅を指さす。川崎氏と共に覗きこむと、画面の左下、しんかい6500の船尾にあたる方向に、さっきまでなかった反応点が見て取れる。ソナーは30秒おきに発振し、しんかい6500の機体を中心として半径10mの範囲で障害物等の音波を反射する物質の場所を光点で知らせてくれる。画面を見つめていると、また次の発振で光点が移動しているように見える。

「かなりゆっくりだな。魚にしては動きが鈍すぎる」川崎氏がつぶやくように、魚群ならば二回の発振の間に画面に表示された同心円の目盛り2つ程度は移動してくる。それに魚群とは決定的に違う点がある。

「……光点が、大きいな。」魚群ならば個体毎の音波の反射ピークがあるので、細かな光点の集合体のような画面表示になる筈なのだ。今回のこれは、薄くぼんやりした輪郭のつかみにくい光の塊のようにも見える。

「三度目発振するぞ。………吉邨、ソナー画面撮影しといてくれ。」緊張の滲んだ声色で、川崎氏が指示を出す。実際指示の出る前に私も自分のカメラでソナー画面の撮影は行っていた。発振音が聴こえ、画面に音波が通過する光のラインが同心円状に移動していく。

「……やはりゆっくりだが、近付いて来ているようだ。」さっきよりも船体に近い所に動いているように見える。

「……向きを、変えてるような気がする。」吉邨が、ソナー画面を視ながらボソッと呟いた。確かに画面に現れた時点では、しんかい6500の船尾に近い方向から接近していたモノが、2度目、3度目の発振と時間が経過するにつれて、船体を回り込むようにして接近してくる様子が見て取れる。

「ただ闇雲に直進するわけじゃないということか。……知能があるんだろうか。」考え込みながら呟く川崎氏の言葉に、私は何だかぞっとする。フラッシュバックするのは、ハイパードルフィンの時のソコボウズの残骸だ。惨たらしく食い散らかされた残骸からは、少なくとも知能というモノを感じ取ることは出来なかった。

「……うーん。でも魚の群れも船とかに対してこういう回避行動とりますからね。」吉邨は、あっさりとそれに疑問を呈しながら次の発振を待っている。目の前の窓の外では、ケージの中でシュモクザメが何故か動きを止めているように見える。船内の空気は、緊張に張り詰めて、ソナーの発振音がやけに大きく聴こえた気がする。

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