第43話 開始

田邊教授を含めて、しんかい6500の運用陣との技術的な打ち合わせの結果、『生き餌』は簡易型ケージに入れて、しんかい6500に先行して探索予定海域に沈めるという方針が決定した。小型とはいえサメは遊泳力のある魚のため、従来のように、しんかい6500のマニュピレータにロープで固定する方式では、マニュピレータが破損する恐れがあるという事だった。幸い母船よこすかには、潜水してのサメ観測に使用出来るような大型のケージと、生け捕りにした大型サンプル個体移送用の簡易型ケージが搭載してあるという。簡易型ケージは、港まで曳航可能なように外部にワイヤーを固定する装置が付いているそうなので、今回はそこにワイヤーを付けて海底に沈めるように重りを設置して使用し、それの投下に引き続いてしんかい6500の潜航を行うという手順に決定した。

「……それにしても、予想外に大物の生き餌が釣れたおかげで、面白いことになりそうですね。」当初ケージの中に潜って同行したいなどとほざいていたカメラマンの緒方氏だが、水深3000m級の海底に、潜水出来る人間がいるはずもないと説得されて、結果アクリル製耐圧殻 にカメラを入れてケージ内を撮影することに落ち着いた。これだけ広報に力を注いでいても、いまだに深海の『水圧』というものに対する一般的な理解はこの程度だという事を思い知らされる。こちらとしても、しんかい6500の搭載カメラの他に別アングルからの画像は、確かに研究の為にはありがたいので、カメラを提供してくれる以上、多少のとんちんかんには目をつぶるしかない。

「……そうですね。生き餌が無駄にならないことを祈ります。」何となく『奴』の移動速度の遅さを考えると、明日の調査が確実に成果を上げるチャンスになるだろうと思うと、緊張が拡がる。ある意味能天気な緒方氏の会話によって、私達の緊張が紛れるのかもしれない。そう思いながら、会議室から船室への廊下を京極君も含めて三人で歩いた。

「……では、明日、よろしくお願いいたします。お疲れ様でした。」緒方氏に挨拶して、部屋に入ってため息をついてしまった。

「………大丈夫ですか?結構会議長くかかりましたね。」先に戻って既に洗顔も済ませた様子の二人に心配そうにされる。謎生物のこれまでの『獲物』の前例からして、シイラよりもサメのほうがより一層生き餌としての効果が見込まれるのは確かだから、しんかい6500の運用上で大型の生き餌の使用前例がないというのが、議論の長引いた主な理由だった。幸い前例至上主義のお役人体質の割合が、やはりこうした最先端の研究機関では少数派であったため、議論内容はすぐに「出来ない」ではなく「どうしたら出来るか」にシフトしたので、あとは実務的な調整や、技術的な工夫の話で時間が長引いたのが本当の所だ。さすがに数多くの『新発見』を実績として掲げる機関を支えている技術者陣は、発想力も柔軟だった。船内に搭載しているあらゆる観測機器を知り尽くした技術者からの提案は、こちらにとっても非常に刺激的で、学ぶべき所が沢山あるのを実感した。物資に限りある航海中に起きる様々なアクシデントにも対応してきた自負が、技師達のなかにも確かに息づいている。机上の空論などではない、『実学』がそこにある。

「……うん。大丈夫。JAMSTECのクルーは、ホントに凄腕ぞろいだね。明日も安心して海上班任せられるよ。」私も寝るための支度をしながらそう応える。この国の研究者達を支えているのは、こうした名も無き技術者達があってこそだ。

「そうなんですか。……凄腕。クルーの皆さんには、あまり接点がなくて。どうしても研究者サイドに目が行きますけど、確かにそういう視点も大切ですね。使うかどうかはディレクター判断になりますけど、そういう画像も少し撮影増やしておいてみます。」なんだかんだ言って、ミーハーではあるものの、基本スタンスは真面目な古川ちゃんは、明日の撮影スケジュールを開きながら滑川ちゃんに撮影場所の相談をし始める。あまり想定はしたくないが、万一結果が出なかった場合には、『調査航海』そのものに関するドキュメンタリーに切り替えなくてはならないのだ。使える素材は多いに越したことはない。私達の論文発表はハイパードルフィンの採取した切れ端でもある程度の体裁を整えて完成させることは出来なくもない。が、やはり欲を言うならば…。

「……明日、上手く行くといいですね。」

部屋の照明を消して、眼を閉じた瞬間に、古川ちゃんの呟きが聞こえた。


「おはようございます。よろしくお願いいたします!」早朝の後部甲板に、京極君の挨拶が聞こえて来る。実験開始予定時刻までは、まだ小一時間程余裕があるが、やはり遠足前のワクワクと同じで、テンションが上がって寝ていられなかったらしい。そういう私も、寝不足というのとは違うがやはり、部屋に落ち着いていることが出来なかった。昨日から何度も読み返したしんかい6500の船内操作マニュアルを片手に、早々に身支度が終わってしまって、手持ち無沙汰だったので、何とはなしに昨日捕獲したアカシュモクザメの水槽を覗いてみる。

「何とか元気に泳いでるな。これなら大役を果たしてくれそうじゃん。」思わず情が湧きそうになる所だったが、吉邨の一言でなんとか踏み留まる。基本的にサメはカワイイので、生き餌と思って冷静にならなくては。

「………そうだね。」どうやら私がサメに同情しているのは、長年の腐れ縁の吉邨にはすっかりお見通しだったようだ。ポンポンと、肩を軽く叩いて準備に戻る吉邨を見ていたのか、今度は京極君が近付いてくる。

「……大丈夫すか?」やはり察知されているようだ。これでも研究者のはしくれだから、一般的な『女子』が言うような『えー!食べさせちゃうなんてカワイソウですよ〰️』なんて言葉は死んでも口にしたりはしない。生物の世界は弱肉強食、弱いものは喰われるのが世の常なのだから。私が釣り上げた時点で、私の側が強者であるのが確定した以上、サメの命の使い方はこちらが握っているのだ。

『……決して、無駄にはしないから。』半ば自分に言い聞かせている。まだまだ私も『甘ちゃん』だ。非情になりきれなくて、自分への苛立ちを感じる。黙ってサメを見ていると、何故か京極君に頭をポンポンされてしまった。いわゆる『女の子』扱いは軽んじられる感じがして腹立たしいが、京極君の表情をみて、同じように感じているのがわかったので、なすがままにされておいた。

「おーい。そろそろ搭乗者準備するぞ。トイレ済ませてこちらに集合だ。」潜航を開始すれば、トイレは艇内にはない。念のため事前に渡された紙おむつも、用足しの後に着用しておく。搭乗員は狭い船内で引っ掛けたりしないように工夫された揃いのつなぎなので、多少のごわつき感もあまり感じずにすみそうだ。搭乗するための最終確認事項をしている間に、アカシュモクザメは容器ごと船体後部に運ばれ、半分海中に沈めた状態のケージ内へと移されている。付近では、カメラマンの緒方氏が、ケージに設置したカメラの角度等をモニター越しに確認しているようだ。

「よし。そろそろだな。」甲板のA型クレーンに吊り下げられたしんかい6500に吉邨、川崎氏の二名のパイロットと共に私も乗り込む。上部ハッチから乗り込んで、天井部にある密閉式の扉を閉め、各種装置類の起動、動作最終チェックを終えた吉邨達のゴーサインで、軽い浮遊感にクレーンの稼働を感じる。

「……了解、………橘、着水するから耐ショック。」吉邨に言われて床に敷き詰められたクッション部に軽くつかまる。

「……了解。着水確認。切り離しお願いします。…はい。」川崎氏が、クレーン操作側からの連絡を受けて動力スイッチを入れ、潜航が開始される。唯一開いている窓越しの光が瞬く間に蒼に染まる。いよいよ待ち望んだ調査の始まりだ。

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