第39話 考察

しばらくパソコンで何やら作業している京極君の隣で、納得いかないというよりもさっぱりわからないという風情のテレビ局チームを前にして、田邊教授が軽く咳払いをして、顎に指先を当てる。

「……ふむ。どこから説明するかな。……まず、『海流』というものの性質として、解りやすく例えるならばだね。お風呂の追い焚きを考えようか。」呑み込みの悪い学生を前にしたような積もりでいるらしい田邊教授。いつものように、わりと関係無さそうな突拍子もない例え話から説明が始まる。

「……風呂、ですか?」案の定、中田ディレクターが不審げに相槌をうつ。

「そう。風呂を追い焚きした時、暖められた温度の高いお湯の流れは、湯船の上中下どの層を流れていきますか?」それぞれ自宅の浴槽を思って考え込んでから、

「……まぁ、上の層でしょうな。」中田氏が呟き、皆が賛同する。

「…そう。空気も水も暖められたものは上層を移動しますね。では、冷めたお湯はその時どう動くと思いますか?」それぞれがまた、考え込んでしばし沈黙する。

「…………混ぜなければそのまま下が冷たいと思います。」滑川ちゃんがボソッと呟き、古川ちゃんは首を傾げながら続けて発言する。

「…でも、まぜなくてもしばらくすれば湯船全体暖まりますよね?」うんうんと頷く面々。

「そうですね。そのとき、湯船の中で起きている現象を『対流』といいます。上層を移動日した暖かい水は、湯船の端まで到達すると、今度は下方に向かって湯船の壁を伝うようにして移動して、そこにあった冷めたお湯を『押し出す』訳ですね。それが順番に継続すると、下層にあった冷めたお湯は、いつしか全て暖かいお湯に置き換わります。同じように海の中を一つとして、考えると、暖かい流れの下には、冷たい水の移動が伴うわけですね。……それが、『黒潮反流』です。」

京極君が、パソコンでやっていた作業を終えて、画面を皆に見えるようにする。

「………これで、どうでしょうか。」地図としては、東京湾以南の俯瞰図と並べるようにして上層の海流図、断面図での海流想定図、被害個体の発生区域を、重ね合わせて表示している。

「………ビンゴぉ。」余りにも鮮やかに解りやすい一致をみて、カメラマンの緒方氏が口笛を吹く。東京湾葛西での個体観察から八景島、江ノ島を経由して伊豆下田、三保、焼津までの観測ポイントが、見事に深海底を移動する緩やかな流れである黒潮反流の観測される海域と一致している。

「…すみません、このデータ、うちのUSBにコピーさせて頂いてもよろしいでしょうか。」これだけの深海の観測データが揃っているのは、JAMSTECの観測コンピューターのデータ蓄積あってのことだ。日本近海は、プレートの絡みもあって、深海底の地形の入り組みかたが複雑怪奇だ。ましてや、通常船舶の航行になんら関わりのない、深海底を緩やかに巡回する水の流れなど、観測しているデータがあることすら、多分だれにも知られていないだろう。長年の、地道な観測により積み重ねられた貴重なデータが、思わぬ所で謎生物の行動原理の解明に役割を果たしたのだ。これだから基礎研究は、侮れないのだ。

思わず振り向いて、川崎氏に許可を求めている京極君。川崎氏が、操縦室にいる他の職員に確認してから頷くと、京極君は胸ポケットからUSBを取り出して早速作成した図面をコピーしてくれた。論文発表の折りには必ず提供者として併記しようと心に誓う。

「…という事は、あとは本体を観測することが出来れば一連の事案が総て繋がるんですね。」田邊教授も嬉しそうだ。

操縦室内にアラームが鳴り、上昇を続けていたハイパードルフィンが海面に接近したことを知らせる。それを合図にして、カメラマンの緒方氏を含めたウェットスーツのメンバーが、後甲板のA型クレーンの稼働と同時に海中に飛び込んでハイパードルフィンの浮上を待つ。回収時は、人力によって吊り下げ金具をワイヤーで装着しなくてはならないのだ。そのための要員三名と、せっかく水中カメラマンがいるのだからその回収作業シーンの撮影のために、緒方氏がスタンバイしていたのだ。

『まもなく海面到達します。』風間君の声がスピーカー越しに響く。

「…了解。」A型クレーンから伸びたワイヤーを各自持ちながら立ち泳ぎで待機していると、水底からハイパードルフィンの機体が浮かび上がってくるのが見えた。

「…浮上しました。ワイヤーお願いします。」そう声を掛けながら海面を見ると、何故か潜水士が皆固まっている。カメラマンの緒方氏なんかは、肝心のカメラを横に避けて片手で口元を押さえているようだ。

『ワイヤーお願いします。………どうしましたか?』スピーカーからも不審そうな響きで風間君の声が聞こえる。それを合図に慌てたようにして、潜水士がハイパードルフィンの金具にワイヤーを通す作業を開始する。

「……何で撮影しないんですかね。」隣に立つ京極君が、カメラマンの動きを見て、不思議そうに呟やいている。確かにずっと少し離れた所で立ち泳ぎのまま、口元を片手で押さえ、片手でカメラを持っているのだ。レンズを覗くことすらしていないのだから、多分撮影はされていないだろう。別に私達が番組を作成しているわけではないから、撮影が不要だと判断したのであれば、それでかまわないのだが。いずれにせよ、吊り上げのワイヤーは設置されて、クレーンのウィンチが引き上げを開始しているので、ダイバーはそれぞれ船体の梯子を登って撤収している。

「……え。なんか匂いますね。」ウェットスーツ姿の職員が通り過ぎるときに、古川ちゃんが表情を歪めて呟く。そういわれると、確かに甲板全体が何とも言えない不快な臭気に満ちているように感じる。

「……そうなんだよ。さっき海中で固まったのは、そのせいなんだよ。やっぱりキツイよなぁ。………風間特製の『撒き餌』のせいかなぁ。」女性に通りすがりに臭いと言われたのが、さすがにショックだったらしい職員が、自分の腕なんかを嗅ぎながら肩を落として呟く。

「……いや、さっき風間さんの特製撒き餌は、嗅ぎましたからね。………どちらかっていうとこれは……」以前と比較してあまりにも強烈だが、これに似た臭気には、覚えがある。カメラマンの緒方氏が、撮影する気力が喪失していたのは、多分、前回解剖の立ち会い撮影の記憶がフラッシュバックしたせいもあるだろう。

「……この、金属イオン臭と、ニンニクの臭い。……やっぱり『あれ』独自の臭気なんですね。」京極君が、田邊教授に向かって話している。

「……なんだか、火山とか、温泉とかをイメージする匂いを強烈にして、そこにニンニクぶちこんだ感じします。」やはりかなり匂うのだろう。そういいながら鼻の下に人差し指を横向きにあてて、顔をしかめる古川ちゃん。そういわれてみれば確かに、硫黄のような臭気も感じる。ハイパードルフィンに接近するほど臭気は強烈になるようだ。

「何が臭いの発生源なんですかね。」勇敢というか、鈍感というか、吉邨が鼻をくんくんさせながらハイパードルフィンの周りを巡っている。匂いの染み付きやすいプラスチック部品は、海底の圧力に耐えられないので、ハイパードルフィンの外殻にはほとんど用いられない。金属部分には、基本的に匂い分子を吸着する性質を持っていないから、あんな短時間の邂逅でこびりつく筈もなさそうだが。

「あ。……もしかしたらこれが原因かも。」

吉邨がいつの間にかビニール手袋をして、ハイパードルフィンのマニュピレーター部分からサンプルケースを取り外している。出来るだけ顔から離して目一杯腕を伸ばして持っている所をみると、やはり臭気は強烈らしい。

「……どれどれ。」田邊教授が好奇心を押さえ切れない様子で覗きこみ、臭いに当てられたように顔をしかめる。私も風向きを考えながら近寄って、風上から覗き込むと、サンプルケースのなかには、ソコボウズの皮膚片の他に、マニュピレーターに絡み付いていた白い長細い物体が収容されている。

「……吉邨ー。それ船内ラボに持ち込むなら、今から渡す密閉袋に入れて、ガスクロマトグラフィー検査機のあるウェットラボにしといて。」風間君から、マイク越しに指示がとぶ。ウェットスーツの一人がいわゆる“チャック袋”を持って近寄ってくる。

「……ありがと。いやぁ、それにしても強烈だなぁ。」確かに臭気の発生源はサンプルケースだったのを証明するように、密閉したらあれほど強烈だった臭気が和らいだ。当の吉邨も、かなり我慢していたらしく、ようやく深呼吸をしている。若干の臭いはあるものの、ハイパードルフィン本体は洗浄さえすれば、何とかなるだろう。

「とりあえずまずはサンプルからガスクロマトグラフィー検査して、サンプル本体の検案は、ドラフトチャンバー使ってやろうか。」操縦室から出てきた風間君が、吉邨と相談する。

「……あの?なんちゃらチャンバーって何ですか?」そっと袖を引かれて振り返ると、古川ちゃんがメモ帳片手に疑問符を浮かべている。

「あ、うん。実験用に使う装置で、毒ガスなんかが発生しても大丈夫なように、検体を専用の部屋に入れて検査するためのものがあるんですよ。換気装置が稼働するので、臭気があっても大丈夫です。」通常研究室でも稼働や設置にお金がかなりかかるので、無いところも多い。さすがJAMSTEC、昨日案内されたラボラトリーには、ドラフトチャンバーとグローブボックスが設置されていた。臭気だけで、おそらくは有毒ガスというようなものではないと思うが、吐き気をこらえながら顕微鏡を覗かずに済むのは有難い。

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