第37話 水底へ。
朝日が昇り始めたころに、携帯のタイマーで目を覚ますと、錨を巻き上げるモーターの駆動音が枕越しに響いてくる。日の出の時間と共に石花海北堆まで移動を開始して、到着後すぐに無人探査機『ハイパードルフィン』の潜航を開始する予定なのだ。手早く身支度を済ませて、同室の二人も連れだって後部甲板へ急ぐ。船体後方にある、赤いA型クレーンには、昨日の時点ですでにハイパードルフィンがセッティングされた状態になっている。
「お、早いな。もう来たのか。」近付くと、本体の向こうがわから吉邨と、風間氏が顔を出す。どうやらマニュピレーターの最終チェックと、カメラ、ライト類の動作確認をしていたようだ。遠隔操作で船内から操縦するタイプの無人探査機だから、実際投入してからは、可動範囲外の細かい角度調整は難しい。今も、二人でインカム片手に操縦室と連絡をとりながら微調整を繰り返している。カメラマンの滑川ちゃんは、しっかりその状況もハンディカメラを向けて、記録を撮っていた。さらに近付くとなんだか異臭がする。
「……何の臭い?……強烈だなぁ。」思わず鼻口を手のひらで覆いたくなる。生臭いだけではなく、明らかに腐敗臭もあるようだ。
「…ああ。深海生物って視覚に余り頼らない奴らが多いからね。誘き寄せ用の特製液体餌だよ。くさくさ、うまうま〰️…ってね。」楽しそうに某カレーうどん店のCMソングのメロディで替え歌を唄う風間氏。悪臭漂う吐瀉物そっくりな外見の餌袋を降ってみせる。しばらく申し訳ないが、カレーうどんをみるたびに、臭いの記憶がよみがえってきそうなインパクトだ。吉邨もさすがに苦笑いしている。
「……臭いほうが、効果があるんですか?」
多分息を止めているのだろう。若干の鼻声で、古川ちゃんが風間氏に尋ねている。
「そうですね。」そこで風間氏はカメラの存在にようやく気が付いたらしく、突然キリッとした表情でカメラに向き直る。
「…えー。一般的に深海というのは暗黒の世界です。つまり、基本的には視覚はあてにならないわけですね。では、深海生物は一体どうやって食料を確保しているのか。……その答えは、嗅覚にあると言われています。実際に深海の魚類と浅海性の魚類の脳の各部の大きさや発達具合を比較すると、臭いを司る臭球と呼ばれる部分の発達が見られます。…」
一息にカメラ目線でそこまでしゃべって、風間氏はにやりとする。会心の笑みだろう。確かに採用されるかどうかはわからないが、それだけのことを噛まずに話せただけで、かなり達成感があるだろう。
「…すみません、僕専門が魚類の脳の機能研究なので、つい語りました。…この餌、実際に前回同じ深海探索で使用して、結構珍しい深海魚の誘因に成功してるので、実効性に関しては折り紙つきです。」ちょっとはにかみながらそう付け加えて、風間氏は吉邨のほうへ向き直り、作業を再開する。
「…そうなんですね。解説ありがとうございました。」古川ちゃんは立て板に水形式で語られるのに慣れていないのだろう、若干引きぎみになりながらも、かろうじて素材としての風間氏に価値を見出だしたらしい。外見的にはイマドキなチャラ男キャラが、小難しい事を熱く語るのは、ギャップが逆に新鮮なようだ。手元にあるタブレットで何やら書き込みしている。ちらっと見えた様子だと、
『若手イケメン研究者、ハイパードルフィン操縦担当』と書いてある。何にせよターゲットが集中しないですむのはありがたいので、枕詞の『イケメン』の基準についてはノーコメントを貫くことにする。いわゆる『美人女将』やなんかと同じ枠なのだろう。取材相手に対する、社交辞令という奴だ。そうこうしているうちに、各機材の微調整が終わったらしい。風間氏は立ち上がって操縦のためのコントロールルームを兼ねた後部操舵室へ、吉邨はどこから取り出したのかヘルメットを被って、周りのテレビスタッフや私達にもヘルメットを被るように配り始める。それが全員行き渡った所で甲板のA型クレーンが稼働音を響かせ始める。ハイパードルフィンに接続したケーブルの束を捌きながら、吉邨が誘導の合図を後部操舵室の方へ送っている。
「いよいよですね。なんだかワクワクしてきました。」カメラを2台フルに使って別角度からの映像を押さえているカメラマン二人を見やりながら、アシスタントの古川ちゃんが小声で話しかけてくる。ワクワクするのはこちらも同じだ、そして緊張感もいや増しに増してくる。未知の肉食生物が、暗黒の海底に潜んでいるかもしれないのだ。ハイパードルフィンは無人探査機だから、襲撃されたとしても機体にダメージを負うほどの非常事態にはなかなかならないだろうとは思うが、嶋野のいる浅虫水族館で収容した個体はハナゴンドウだ。かなり大型の魚類や海生哺乳類が襲撃されている所を見ると、決して温和な性質の生物ではないというのは当然の予想だ。
『危険を伴う可能性のある有人探査機調査の前に下調べ』となると、運用にも慎重さが求められて当然だ。吉邨も京極君も同じように思っているらしく、表情にも緊張が滲んでいる。この後に控えている有人探査機しんかい6500の投入を万全に実施するならば、ハイパードルフィンが少しでも誘引効果を発揮してくれたらとも思うが。
クレーンが高度を下げて、無事にハイパードルフィンの機体が海面に着水する。その様子を見届けて、モーターが始動して少しずつ機体が潜航を開始しているのを確認しつつ、後部甲板の操舵室のタラップを登る。
「9時05分着水。潜航中です。速度1.5ノット。視界良好です。」扉を開けて中に入ると正面はガラスで、その下部に並んだモニター画面には既に青い海中の画像が並んで映し出されている。
「…確かに透明度はかなり良好だね。」私達に続いて上がって来ていた田邊教授が、モニター画面を覗きながら頷いている。陸地からは少し離れた位置にあるので、河川からの淡水流入などの影響はあまりないせいか、画面にはまるで水族館の水槽のような透明度で蒼い世界が広がっている。
「海の中ってホントに青いんですね。」画面を眺めながらため息混じりに呟く古川ちゃん。どうやらしんかい6500がらみの仕事は今回が初参加のようだ。
「…現在の水深が約10m、水深50m位まではこういう明るい青ですが、こちらの深度計から見ると、あと5分ほど潜航するともっと暗くなりますよ。」モニター画面隅の現在位置を示している深度計を指差しながら説明していると、画面の青がだんだん濃くなっていくのがわかる。すると聞きなれたアラート音が鳴り響く。
「…え?何ですか?何かありました?」私達関係者にはわかるが、突然の警報に驚いて、古川ちゃんがキョロキョロする。
「ああ、大丈夫ですよ。まもなく海底付近だという警報ですから。」
「え?もう深海に到着したんですか?」モニター画面は濃い藍色の海中を映し出している。
「いやいや、到着したのは、石花海北堆の海底付近、つまり海底にある山の頂上付近という感じですよ。ここから更に移動しながら先ほどの餌を撒いていくんです。」ゲーム機のコントローラのようなスティック状の操縦悍を操作しながら風間君が説明してくれる。カメラを操作したらしく、画面の一部に海底らしき砂利混じりの平坦面が映し出される。
「北堆海底到達しました。誘引餌投入開始しながら移動します。」画面の隅に映っているマニュピレーターが動いてもや状の餌が水中を漂っていくのが見てとれる。海底には以外とゴロゴロした大きめな砂利が転がっている。
「以外に砂利の粒が大きめですね。」京極君が呟くと、
「うん。砂地というよりも礫層だね。海流があるから、砂は残らないんだよ。富士山由来のアルカリ玄武岩や、流紋岩質の凝灰岩がほとんどだね。」風間君の隣で操縦のサポート業務をしていた職員がそう解説してくれた。作業服には『かいこう』の文字があるから、同じJAMSTECの研究者で、地殻や岩盤の研究者なのだろう。駿河湾に流れ込む黒潮分流は、結構力の強い潮の流れだから、たしかに細かな砂は強風に吹き飛ばされるように流れに運ばれてしまうのだろう。モニターに映る周辺の景色は、荒涼とした岩石砂漠のようにも見える。そんな風景のなか、やはり撒き餌の効果か、コンゴウアナゴが何匹か近づいてくるのか見てとれた。カメラはすかさずそちらにピントを合わせながら接近を開始する。
「わぁー。以外と大きな魚ですねー。」古川ちゃんが驚きの声をあげる。クジラの死体なんかによく群がっている、典型的な腐食性の『海底の掃除屋』と呼ばれる種類の、太さのあるうなぎみたいな見た目の魚だ。ハイパードルフィンはそれを掠めるように通過して、その先の傾斜している方向に向かって進路を取る。
「ではこのまま石花海北堆より降下を継続していきます。」画面でもはっきりとわかるほどの急な傾斜が目の前に広がっている。明らかに周辺の映像が暗くなっていく。
「まもなく水深100m到達します。」モニター画面はすでに暗黒の世界、ハイパードルフィンの照明が照らし出す範囲外には暗黒の世界が広がっている。たまに機体にかすめるようにして、ニジクラゲの仲間などの深海性のクラゲが掠めるくらいで、特に生き物の気配は無いままで、ひたすら30分ほど暗闇のなかを降下していく。
「……まるで宇宙空間にいるみたいですね。」 ぽつりと京極君が呟いた。大量の燃料を消費して巨大なロケットを打ち上げなくても、私達の生活している空間のすぐ近くに、このまるで宇宙空間のような未知の領域は広がっているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます