第36話 調査 2

黒潮を無事に横断し、外洋を南下して約8時間後、ずっと右手側舷側に見えていた陸地が船首方向へと移動しているのに気付いた。

「あ、もうすぐ駿河湾内に向かうね。」ひとしきり固定した荷物を元通りにしたり資料の確認をしたりした後、何となく甲板で京極君と海面を眺めながら飲み物を飲んで息抜きをしていたので、船が進行方向の転回をするのに気が付くことができた。船室内にこもっていると、エンジン音の高低くらいしか船の移動に関しては知りようがない。

「え。何でわかるんですか?」背後からそう話掛けられてふりむくと、アシスタントカメラマンの滑川さんが、いつの間にかカメラを構えて背後から撮影していた。航行している間も、この人はこまめにこうして撮影して、地道に『素材』を 集めている。しょっちゅうカメラを向けられているように感じるのは、きっと気のせいだろうと思うことにする。

「ああ、そこに見えてる陸地が、さっきとは見える場所が変わっているので。」簡単に説明したが、今一つというリアクションだったので、手元のノートに簡単な図を描いて説明する。

「……なるほど。そうやって陸地の見えかたで船の向きを知ることが出来るんですね!」

ノートを見ながらすかさずその場面も撮影する滑川さん。使えそうなものは何でもというハングリー精神に敬意を表して、もう一つ。

「あと、日本の太平洋沿岸を北上する暖流を『黒潮』と呼ぶ理由が、多分もうすぐ判ると思いますよ。海面を撮影しといて下さい。」

不思議そうな表情ながらも、素直に甲板から見える陸地方面で海面にカメラを向けて撮影を始める。先ほど船の向きが変わったのは、駿河湾内に向かって流れ込む黒潮分流に船を載せたからだ。このまましばらくいくと、多分、はっきりとしたいい画像が撮れるポジションがあるはず。

「………!!?海面の色が!なんですかコレ?二色ですよ?」案の定、カメラを覗きながら滑川さんが声を上げた。条件にもよって撮れたり撮れなかったりする現象なので、案内した私も胸を撫で下ろす。

「…はい。今船が乗っているのが、『黒潮分流』という、『黒潮』からの分岐した海流です。どうして『黒潮』と呼ばれているのか、見たらわかりますよね。……“黒い”流れが船の下にあるのが判りますか?」そう。沖から日本に近づく時が、一番顕著に現象としてわかりやすいのだが、明らかに海面には『黒い』流れる帯が見えることかあるのだ。暖流であり、温度差や、塩分濃度の違いなどの様々な要因が、複雑に関係しあって、結果として『黒く』みえるだけで、実際にその中にバケツをつっこんで汲み上げても、普通に透明な海水が見られるだけなのだが。こんなふうに、海には、まだまだ未解明な現象が数えきれないほど、ある。

「凄い‼️こんな理由が、あるんですね?キレイにはっきり船の周りが黒く見えます!……

ところで、今のコメント、もう一度、最初からお願いしてもいいですかね。」滑川さんは、ひとしきり喜んでからプロフェッショナル意識を取り戻して、こちらにカメラをむけて問答無用に撮影をはじめる。もう一度同じコメントをと言われると、どうしてスムーズに話せなくなるのか。結局二回撮り直してもらって何だか大したことではなかったはずなのに、疲労感が残った。

駿河湾内に入り、焼津漁港沖に停泊して、明日の朝一番に出航して目的地の石花海(せのうみ)での調査に備えて最終ブリーフィングとなる。

「…えー。先ほど通過する際にアクティブソナーを発信して撮影した画像がこちらです。」食堂兼ミーティングルームらしく、船室の広い一角には、きちんとスクリーンが設置されており、いわゆる音波探査画面が四分割で投影されている。江戸時代から漁場として知られていたこの海域には、驚くような水深の差があることが、知られている。

「現在地は石花海海盆内に停泊中ですが、先ほどの音響航法装置からの海底地形図から、明日の午前8時より石花海北堆上でハイパードルフィン投下による事前調査を行うことを決定しました。」石花海北堆は最浅水深が40mの海域で、そこからたった4km以内の距離で傾斜角20度前後の崖っぷちで水深が1900mまで落ち込むという、地上では考えられないようなダイナミックな地形の場所だ。 前回までのミーティングの結果、ハイパードルフィンの操縦は風間氏が担当することになっているようで、風間氏は一昨日とは打ってかわって緊張した面持ちで調査行程の説明を始める。それによると、石花海堆の端から、ハイパードルフィンの航行能力から計算して、最大深度1900mまでの到達時間は約一時間半程度となるようだ。周辺海域に関して無人探査を行い、一旦帰投してデータ分析を行うつもりのようだ。必要になる可能性の高い検査や、資料などに関して高畑教授や田邊教授とのディスカッションが白熱し、調査に対しての期待度も高まる。

「……つまり、その試料から推測するならば、謎の生物はいわゆる魚類というよりは、肉食性の星口動物や、環形動物に近い種類である可能性も多いにありますね。」標本から偶然発見したサンプルの拡大画像と、水野から借り受けた星口動物の吻の鉤の画像を比較しながら白熱する議論を、キリッとした表情で撮影するカメラマン。こうしたマスコミ関係の人々のオンオフ切り替えスイッチにはほとほと感心するばかりだ。さっきまではアシスタントの滑川ちゃんに任せっきりで 甲板にも姿を現さなかったのに、肝心な所はしっかり持って行くらしい。その様子を横目で見ながらこちらは必要機材や検査内容を逐次チェックしていく。この調査結果によって、本調査であるしんかい6500の運用方針が変わってくるのだ。

「……調査予定海域の海底地形図はこちらになりますので、各分野サイドからの留意点などありましたら、挙手発言願います。」

乗船しているのは、私達魚類等の専門家の他にも海流や、水質等の専門家もいる。それぞれの専門分野からの複数の視点でのディスカッションを行い、そのまま懇親会を兼ねた夕食を経て、消灯、就寝となる。消灯といっても、船内は完全な暗闇にする事はなく、必ず当直制で操舵室には二人は交代で勤務しているので、ほんのり明るい赤色灯に切り替わるだけなのだが。船内通路は、基本的に客船と違って配線や配管が剥き出しなので、暗いと、かえって危なくて歩きにくいのだ。結局消灯後も田邊教授の部屋で様々な確認調整に時間をとられて、薄明るい通路を歩いて部屋に戻ると、先に船室に戻っていたアシスタントさん二人が、悩ましげになにやら相談している。

「…何かありました?」慣れない船内泊で、何か困ることが有るかもしれない。

「……あの、多分難しいかなー……と思うんですけど、シャワーとかって………」1日甲板や船内を動き回って撮影していたり、プロデューサーの代わりに雑用で走り回ったりしていた筈だから、確かに潮風と汗のベタつきが気になるだろう。

「……うーん……シャワーは多分稼働してないので、シャワールームで、洗面器のお湯を使って身体をタオルで清拭するくらいで良ければ。シャンプーは、勘弁して下さい。」

船中泊で、男性陣の割合が多いと、こういうことが起こるのだ。比較的若い男性陣が多い時は、身なりを気にして身体を拭く人が出るが、今回結構年齢層が上のため、いわゆる『おぢさん』の論理がまかり通ってしまったようだ。要するに『2日くらい風呂に入らなくても死にゃしない。』という奴だ。いつの間にか私もすっかりそれに慣らされてしまっていたのか、全く念頭にも上がらなかった。

とりあえず今日はそれで我慢してもらうことにして、最低限洗顔料だけは持ってシャワー室に案内する。シャワー室の稼働はしていないが、手前の洗面所でお湯は出るので、洗面器にお湯を汲んでタオルを浸して、各自シャワールームに入って身体を拭き、洗面器のお湯を流すついでに洗面所で洗顔して終了だ。このときも、船内真水が貴重なため、流し水ではなくて必ず洗面器に汲んだ分で洗うようにお願いする。

「……意外と不便なんですね。」ぽつりとそう呟く滑川ちゃん。豪華客船ならいざ知らず、こうした調査船や、実習船等では、節水は当たり前のことになっている。調理なんかでも、下ごしらえ何かは海水を使っていたりするくらいだ。地上に戻ると、しみじみ水の有り難みを噛みしめることになる。

「船ですからね。明日の夜は、シャワー使えるように交渉してみますね。」黙っていたら多分、横須賀に帰港するまでシャワールームは稼働しないことになるだろう。実習船の時は小笠原諸島への往復10日間で、行きに一回、帰りは洗面所のみというシャワーの稼働率を知っているだけに、船員サイドには『3日4日くらい』という感覚が染み付いている。帰り道の公共交通機関利用を考えると、私達もシャワー室を使えないと新幹線の車両で鼻をつままれる羽目になりそうだ。

「……はい。よろしくお願いします。」普段全く女性扱いされないことに慣れすぎてしまっているが、ここは折角女性サイドに加えてもらったのだから、役に立たなくては。

とりあえず部屋に戻って明日に備えてそれぞれ就寝する。

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