第35話 出港
「……えーと、よろしくお願いします?」
テレビクルーとの顔合わせの後に、私はひとしきりまたミーティングと、調査船内の設備等を吉邨達JAMSTEC研究員に案内してもらったり、ついでに荷物や機材、資料などを積み込んだりして、夕方にようやく本部建物内の仮眠室に戻ると、そこにはすでに先ほど同室でと吉邨に紹介された撮影スタッフの女性陣二人が、室内のテーブルにおやつを拡げている所だった。紹介してもらった時にも感じた謎のローテンションのままで、私が部屋に入ると二人とも、黙ってぺこりと会釈する。
さっきまで何やら話していたのは、テーブルの上のおやつの散らかり具合で何となく想像がつくのだが、二人とも人見知りの質なのか、黙り込んで一言もしゃべらずにいる。とりあえず挨拶は済ませたのだから、それ以上こちらからは話をするきっかけも掴めないので、そそくさとシャワーセットと着替えを持って、廊下の向かいにあるシャワー室に向かうことにする。部屋を出て扉を閉める瞬間にに、何故か両手で顔を覆う仕草が目の端に見えた気がする。それからも、部屋に戻ると二人が入れ替わりにシャワーに向かい、何となく気まずいままで眠ることになった。
「……ん。んゎ。」目覚ましの携帯の音に意識が浮上して、枕元を、寝惚け眼でごそごそ探す。スヌーズを停止して、辺りを見回すと、スタッフ二人もまだ布団の中にいるようだ。さっさと身支度をして、顔を洗いに部屋を出て、戻るとすでに二人とも起床して支度を始めていたので、邪魔にならないように部屋の窓際で鏡を見ながら軽く化粧水と、日焼け止めを兼ねたファンデーションだけ塗っておく。
「……ん?何か?」塗りながら視線を感じて振り返ると、スタッフ二人のうち、確かアシスタントプロデューサーのほうの女性が、軽く息を吐いて笑った。
「……いえ。本当に女性なんだと、思いまして。」ようやく昨日からの変な空気の理由に得心がいった。
「…ああ、よく言われますよ。もう慣れましたけどね。」苦笑いしながらそう答える。多分私のことを男性だと勘違いしたままで現着したのだろう。先日のアナウンサーのリアクションを思い出して少しだけ申し訳ない気持ちになる。別に性別を偽ったつもりもないし、男装した記憶もないので、私に非はないと、思いたい。
「……そうですよね、すみません。こちらが勝手に映像みて盛り上がっていただけなのに、なんだかかえって申し訳ないです。……あらためて、よろしくお願いします。」アシスタントプロデューサーのほうは以外と冷静なタイプらしく、普通に会話が交わせるようだ。一方のアシスタントカメラマンの女性は、促されてようやくふてくされたように会釈を返す。
「……あの、何でしたら紛らわしくないようにきちんと化粧しましょうか?」余り周囲には評判がよくないせいでめったに使わないが、口紅もちゃんと、持ち合わせがあるのだ。
「いえいえ、大丈夫です。そのままの雰囲気でお願いします。撮影プランがありますので。」とりなすようにアシスタントプロデューサーさんから言われて、そのまま行くことになった。まぁ、両親にも不評な私のメイクアップが地上波に乗るのは確かによろしくすないと思うことにする。
「お、来たな。忘れ物ないな。んじゃ最終ミーティングは甲板でやるから、船室に荷物入れて集合な。」身支度を済ませて三人連れ立って本社ロビーまで降りると、既に半数以上のメンバーと吉邨、京極君と田邊教授が揃っていた。それぞれ分担して荷物を船に運び込んで、テレビクルーが揃ったのも確認して、最終ミーティングを白々明け始めた空の下で行う。
「……ということで、まずは観測調査予定海域付近到着までは、各自調査のための準備等をよろしくお願いします。」船長の挨拶を最後に甲板から船室に移動して、研究準備室で、もう一度必要な備品の確認と、設置機材の使用法をチェックしておくことにする。
「お疲れ様でした。昨日の夜、テレビやさんどうでした?」京極君が心配そうに聞いてくる。
「どういうこと?」男性陣は会議室で雑魚寝(もちろん教授には部屋を開けてもらえた。)のため、どうやら彼女達の様子のいきさつが漏れ聞こえたらしい。
「いや、はじめさんを、イケメンとして喜んでたのに、前回うちで撮影した緒方さんが、あっさり暴露したらしくて、…」確かにそれはいたたまれない。ちらっと挨拶しただけだが、プロデューサーもカメラマンも前時代的ステレオタイプなセクハラ発言をしそうな人物だ。あのテンションも納得だ。
「うん。なんか変な雰囲気だなぁとは、思ったけど、今朝には普通に話してくれたよ。」そういうと、京極君は少し安心したように笑った。その様子をみるだに、やはりテレビクルーの男性陣の言動が想像出来る。私も内心、撮影時に表情を変えないように努力する覚悟をきめた。一般論とは思いたくはないが、未だにこうして女性をことあるごとに愚弄するチャンスを狙う男性もいるのだという事を、現在のように恵まれた環境にいると、つい、忘れそうになる。気を引き締めていこう。船室内に、錨を引き上げるガラゴロという重低音が響きはじめた。遠慮がちに汽笛が鳴らされて、船体が動き始めるのを感じる。
「……あとは、『奴』が海域から移動していないことを祈るしかないね。」
「………そうっすね。」深海底というのは、真の暗黒の世界だ。発光器官をもつ生物群も、いるにはいるが、圧倒的質量をもって迫る深海の暗黒の前には何の役にもたたない。そもそも発光器官は、深海の生物にとって『周囲を照らす』ためにあるものではなく、自分を狙う捕食者から『身を隠す』為のモノとして発達したものなのだ。海の底から海面を見上げた時に、明度の違いで自らの影を関知されない為だけに控えめに発光する。つまり、たとえ高性能なライトを搭載した探査機でも、そのライトの照らし出すことが出来る範囲内のごく限られた場所しか、探査することは叶わないのだ。どこまでも、人間の力が及ぶなんていうことは、単なる思い上がりだ。私達は、まだ、この惑星のほんの一部だけを垣間見ているだけに過ぎないということを、忘れてはならないのだ。これまでに発見されてきた数多くの深海生物も、単なる偶然の賜物で探査出来る範囲内で出くわしただけにすぎないのだ。まだまだ、この星には『未開の地』がうんざりするほど残されている。
『新種発見』が研究者の夢なのだ。広々とどこまでも広がるこの大海原で、ちっぽけな人間がどこまで自分の幸運を試せるか、夢を思い描くだけで終わることのほうがはるかに多い中、こんな風に偶然の人脈の繋がりを辿って実現したことに、感謝の気持ちをしみじみと味わう。どんな調査でも、最終的に成果が出るかどうかは運次第。大自然を相手にする以上、それこそ血の滲むような努力を重ねても、なにも結果が残せない事だって沢山あるのだ。数々の先人達の積み重ねてきた成果もそうした幾千幾万もの無駄足の中から生まれてきたモノだ。研究者に対して、『費用対効果』を求めるほど、愚かな考え方はないと思う。それは、研究というモノの本質を理解していないが故に出てくる発想なのだろう。
そんな事をつらつら考えながら船内のラボラトリーにある、数々の最新鋭機器達をすべて使い方と、使える状態にあるかをチェックしていると、船内アナウンスが入った。
「現在から、黒潮を横断していきますので、船体の揺れが激しくなります。荷物や機材などの固定と、船内での転倒にご注意下さい。」京極君と、あわててテーブル上の資料をカバンに突っ込み、転がりやすいものをまとめて固定したり機材が滑って移動しないように棚のなかに押し込んだりして対策をとる。日本の太平洋側を流れる黒潮は、かなり大きく、力の強い海流だ。大型の船舶でも、横断するにはその流速を考慮に入れて海路を設定しなくてはならないほどに。当然横方向の力を受けて進むために船体は抵抗をうけて揺さぶられる。今回のように南下するためには、真正面から逆らうなんて事はせずに、一旦横切って潮流の向こう側に抜けてから南下し、再び潮流を横切って湾内に入るのがセオリーだ。駿河湾の場合、少し南側からならば焼津周辺に流れ込む黒潮分流があるため、そこまで移動してからの駿河湾内へ入るのはそれほど大変ではない。簡単に言えば、この、黒潮横断が、今回の航海の山場だろう。
「あ、カメラさん達、大丈夫かな。」自分たちのほうの作業を終えて、ふと彼女達の事を心配する。うっかりミスでもあの上司ならこれ幸いと騒ぎ立てるだろう。京極君と一緒にラボの鍵を閉めてからテレビクルーの荷物のある場所に駆けつける。段々船体の揺れが増していくなか、案の定二人は不安そうに周りの職員が様々な機材固定に走り回るのをただ呆然と見ていた。
「…古川さん、滑川さん。これから船が結構揺れますから、壊れる可能性のある機材、固定しないと。」私が声を掛けると、二人も頷いて機材置き場にしている一画のなかで機材を選り分け始める。私がそれを持ってきた緩衝材代わりのボロ布を挟んで、京極君が慎重に紐で括っていく。そうしている間にも、船体は海流を横断するときの独特の上下動を始める。波に対して垂直になるように船首の向きを調整するので、まるでジェットコースターの登り降りのような動きになるのだ。
「…こ、こんなに揺れるんですね!」壁際にしがみつきながら二人は目を丸くしている。やっぱり上司からの説明はなかったようだ。カメラマンもプロデューサーも以前によこすかに乗船してしんかい6500の番組を作成していると聴いているので、注意点として知らない筈は無いだろう。現にうろたえて部屋からでてきたのは、水中カメラ担当の緒方氏だけだった。
「…うん。まぁ、ここを乗り切ればあとはそんなに揺れないから大丈夫。」そうしている間にも、アナウンスが再び入って、まもなく黒潮を抜ける事を教えてくれる。
船は無事に山場を乗り切り、目的地への航海は順調に進んで行く。
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