第32話 進展
「……はい。わかりました。では、当初の予定通りに、今月の第二週に最終ブリーフィング、翌週月曜日に横須賀港より出航という形で進めましょう。……はい、よろしくお願いいたします。」田邊教授が電話を終えて振り返る。私と京極君は思わずハイタッチをしてしまった。何度かネット上でのブリーフィングを重ねて、先日の焼津のサンプルの件も併せて検討を行い、ようやく調査海域が決定されたため、必要な条件がすべて整ったのだ。
「これであとは出張の間の業務調整したら完璧ですね?」問題はそこなのだ。大崎の館ほどの少数精鋭ではないが、うちでも学芸員は私と鈴村さん、日置さんと、子育て中の時短勤務している野口さん、事務局と餌やりを兼任してくれている渡辺さんの5人体制で、そこに田邊教授のゼミ生の大学生が補助で7人から8人ついて日常業務を廻している。実務的には、なんとかなるが、それも飼育業務以外を“保留して”初めて何とかなるというレベルだ。まあ、調査航海とは言っても、横須賀港から出航して焼津沖の指定海域の調査が、ハイパードルフィンで1日、しんかい6500で1日から2日、前後を1日づつ移動日としても正味5日から6日のことだ。何とかなるだろう。戻ってからが大変そうだが。
「……まぁ、それはある程度は仕方ないね。……戻ってからなんとかするでしょ。」田邊教授もしばらく遠い目をしながらも、その一言で片付ける。何処の水族館も、博物館も人手は足りることなどない。宮田が以前言っていたが、『学芸員資格保持者は毎年星の数ほど生まれるのに、国が保持者を採用して育成する気がないからね。』この国で黒字経営を成し遂げているのはごく一握りの館だけで、残りは青息吐息の助成金と補助金頼りの自転車操業ばかり。人員を増やしても、人件費の目処がつかなかったら、年間予算から『切り分けるパイの一切れ』が小さくなっていくだけなのだから、自分たちの首を締めてまで人材育成するような奇特な館など存在しない。
「……そうですね。何とかします。あとは、こちらから提供するような機器類なんかは、有りますかね?」
「…うん、まぁ……無いね多分。向こうは最新鋭の観測機器搭載してるだろうし。こちらからは、マンパワー一本でいいんじゃない?
…頭脳の貸し出しって感じ。」幾分なげやりに聴こえるのは、多分私のやっかみも混ざっているからなんだろう。都立の大沢の所では設置されているガスクロマトグラフィー検査機器が、うちには無くて、外部の検査機関に発注しなくてはいけないのも、予算がギリギリなせいなのだ。
「……そういえば、大沢の所でガスクロマトグラフィー検査の結果をもらってきたんでした。」私達が感じた『異臭』に近いものを、どうやら大沢も感じたらしい。サンプルを取りに行ったときに、そんな話をしていた。
「何か変わったデータとれたの?」田邊教授が珍しく関心を示してくれたので、私は研究室に戻って大沢からもらったデータをとってくる。教授室にもどるとき、ちょうど一階から上がってきた事務所の渡邉さんが、事務所で一括して受付した郵便物を持っているのに気づいて、ついでにと、受け取って行くことにする。
「…失礼します。」両手がふさがってしまったので、ノックせずに扉を開けて入る。
「あれ、結構郵便たまってるね。ありがとー」日置さんが気付いて手紙の束を受け取ってくれた。そのまま休憩スペースの会議机の上に拡げて仕分けを始める。
「お、やっと理化研からの、検査結果きたね。」どうやら日置さんの所の検体の返信が届いたらしい。私が田邊教授に大沢からの結果報告書を見せていると、封筒を開けていた日置さんが、束になった紙の中から、一枚抜き取ってこちらに渡してくれた。
「向こうさんも、経費削減の嵐吹いてるのかね。同封されてたよ。」確かに同じ部署に送付資料があれば、まとめたほうが多少は得かもしれないが。研究に関する費用を削って、この国は一体どこへ向かっているんだろうか。ともかく書類をうけとると、タイミングよく同じガスクロマトグラフィーの測定結果報告書だった。
「…あ、ちょうど良かったですね、比較してみれますね。」三人で額を付き合わせるようにして、二枚の報告書のグラフを覗きこむ。
「………メタンとか、典型的な腐敗ガスは、あまり検出されてませんね。……これは、なんでしょうか?……」小さな文字で、比較的数値が高い物質の下に物質名が書いてある。最近とみに老眼の進んだ田邊教授が顔をしかめているのを見かねて、京極君がいくつかあるそうした物質の下のスペルをホワイトボードに大きく書いてくれた。
「…Ammonium……それと、これは、……何て読むんですかね?Hydrogen sulfide?」
「…硫化水素だね。確かにそんな匂いだった気がするね。」よく表現されてるのが、『温泉の匂い』もしくは『卵の腐ったような匂い』という奴だ。
「……もう一つ数値が高いのが共通してますね。……Diallyl sulfide?なんですかね?」
田邊教授も首を傾げているところをみると、あまり一般的に検出されることのない物質のようだ。しかしどちらの検体にも、比較的高い数値で検出されているのが、一目瞭然だ。普段検出されることなどない物質が、どちらの検体にも、同じような数値で検出されている。
「…サルファイド……ということは、硫化物ではあるんでしょうね?」京極君がスマホでググる片手間にもう一度検査結果のグラフを見る。欄外には、検出限界点以下の、数値化出来るほどではないが、存在を検知した物質名称も記載してある。各種微量金属元素に加えて、そこにも通常遊泳性の魚類にはあまり含まれないマンガンという金属元素が記入されている。
「…あ、ありましたよ。『硫化アリル』です。……特徴的な匂いがあり、『ニンニク臭』の、主成分だそうです。」やはり気のせいでは、なかったのだ。問題は、何故この“謎生物”に襲われたときに、『硫化アリル』という成分が傷痕に遺されたのかだ。
「……気のせいじゃ、なかったんですね。」これで、科学的に裏付けがとれた。少なくとも二件は同じ生物によって襲撃されたのが証明できた。欲をいえば、もう少し被害個体のデータが欲しいところだが、贅沢は言わないでおこう。少しずつでも、分厚く閉ざされた謎のヴェールがめくられていくように、地道に調査を進めていこうと思う。
「さて、そろそろ通常業務をこなして行こうかね。」田邊教授の一声で、それぞれ持ち場に散っていく。1日の業務は、いつものように、滞りなくすすみ、そろそろ閉館作業も終わろうかという時間帯に、携帯が振動して、着信を知らせる。
「……はい。橘です。……うん。あ、そう。……了解しました。」相手は吉邨だった。どうやら田邊教授が、JAMSTEC側に先ほどの検査結果をファックスしたらしい。
「どうしたんですか?」不思議そうな京極君を伴って、急いでパソコンを持って教授室に向かう。
「…失礼します。いま、吉邨から電話がありまして、これから少々ネット会議をしていただきたいそうです。」教授室では、すっかり帰り支度が済んだ田邊教授が、上着を片手に振り返る。
「…あー。……思ってたよりも、JAMSTECさんは、フットワーク軽いねぇ。」ファックス送ったその日の夕方に、関係者を集めての会議が召集されるほどに、各種報告に対しての対応がすばやい。大きな団体になればなるほど大抵、報告が上がるのは遅れがちだし、集合をかけても集まるまでにも時間がかかるというのは、世間の常識だ。それを見越して田邊教授が早めに送付した資料が、その日のうちに検討されて、議題に上る。世界を相手に最先端分野での研究を進めていく機関の凄みを思い知らされる。とりあえず相手を待たせているので、まずはパソコンのセッティングを済ませて、京極君に資料とサンプルを取りに行ってもらいながら設営をすすめ、うちにしては最短の時間でテレビ会議の体制が、整った。
「…大変お待たせいたしました。橘です。よろしくお願いいたします。」画面を立ち上げて、カメラに向かって話始める。
「はい。お疲れ様です。ちょっとそちらさんからの送付資料について、二、三点確認したいことができたもんだから。急で悪かったな。」先方は今日は吉邨がメインで進行するらしい。気安い仲なので、幾分緊張が和らぐのを感じる。
「…時間もあまりないからさっさと本題に入りましょうか。」吉邨の横からひょこっと顔をだしたのは、なんと、多忙な筈の高畠氏だ。何故急なWeb会議になったのか、謎がとけた。
「まず、先ほどそちらから送付されたガスクロマトグラフの検査結果報告書を拝見しましてですね。こちらも独自ルートで漁協さんから被害個体をもらいうけたものがありましたので、同じ検査をいたしました。」先方の操作で、画面下部にその検査結果報告書が送られてきた。
「!……これは。……」まるでコピーしたかのように、同じ物質の検出が示されているのが、はっきりと見てとる事ができる。
「非常に近い形のグラフが、これで計3枚。どうやらこの『謎の生物』からの傷口には、硫化物の検出が伴うというのが、確定しているようだ。」通常の組織検査では、行うことのほとんどないガスクロマトグラフという検査の結果が、三件同じような数値になる。これは、よほどの共通項がなければ有り得ないと言っても過言ではない。
「という訳で、申し訳ないが、もう一度傷口の中から取り出した検体での成分分析が出来ればと思ったのですが。」高畠氏の発言を受けて、田邊教授は額に手を当てて、残念そうな表情をする。
「…いやぁ。昨日ちょうどホルマリン原液の、搬入がありまして、それに伴って固定用ホルマリンプールの溶液入れ替えのついでに、検体を液浸してしまった所なんですよ。」おそらく傷口の内部に、仮に硫化物が残留していたとしても、非常に微量であることは、予測できる。つまり、液浸保定したら、ホルマリンの作用によって検出不可能となってしまうだろう。たまたま今回ホルマリンの溶液入れ替えのタイミングとかぶってしまったが故に通常より早い液浸作業となってしまったのだ。間が悪かった。
「……あ。はじめさん。ありますよ。もうひとつ検体!」京極君が立ち上がって叫んだ。
「……え?」
「葛西臨海水族園ですよ!」そういえば、先日サンプルをもらいに行った時も、職員の寿退社で、人手が足りなくて、事務処理に追われて業務が滞っていると、ぼやきを聴かされた。田邊教授と、高畠氏の視線を受けて、慌てて大沢に電話を掛ける。
「……はい。……大沢ですが。」携帯にはメールしか登録が、なかったので、名刺を見ながら水族館の代表電話で呼びだしてもらう。
「あ、大沢?橘だけど、いきなりだけど、こないだのイタチザメ、まだ液浸してない?」
「…あぁ。まだちょっと作業追い付かなくて。あのあともう一度冷凍してあるよ。」
面倒くさそうに答える大沢に、被り気味で
「そのまま置いといてそれ。明日にでも、JAMSTECの人が取りに行くから。頼むね?」Web会議の向こう側でも、吉邨が川崎氏とスケジュールの確認をしながら頷いているのが見えた。
「…え?……え?JAMSTEC?」いきなりの展開に、目を白黒させた大沢に、さいど念押しをして電話を切る。田邊教授も、画面の向こうの川崎氏と高畠委員もほっとした表情をしている。
「…では、うちの職員から葛西臨海水族園にはサンプル引き取りを派遣します。ご協力、ありがとうございます。」あとは、当日までの確認事項や、これ幸いと、母船よこすかの設備関連の質問をして、何とか急なWeb会議は終了した。
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