第31話 共動
自転車に乗って、坂道を一気に下り、いつものように勤務先の駐輪場に乗り付ける。施錠するのももどかしく、さっさと早足で警備室から名札を受け取り、通用口から館内に入る。二階奥にある事務所の半分が学芸員の詰所なので、まずはそこで一通り出勤からの業務をこなして学芸課長の出勤してくるのをじりじりとした気持ちで待つ。何もしないでただ待つのは性に合わないので、ついでにふと思い付いて自分の机の標本箱の中から、2、3個サンプルを選び出して鞄に放り込んでいくことにする。
「あ、おはようございます。今日は早いっすね。水野先輩。」背後から話してくるのは、一年後輩の高田君。優秀だが、言葉使いがヤンキーみたいなので、あまり頭が良さそうに見えないのが玉に傷だ。いつも私とペアで餌やりを回っている。
「…ねぇ。今日悪いけどさぁ、私ちょっと出かけるから、餌頼んでいいかな?」まずは課長が来る前に根回ししておこう。今日の私の担当区域は、シーパレスという陸地に建った建物の中の水槽の餌やりだ。その他に魚類担当者は日替わりで湾内に浮かべた船内の大水槽の潜水餌やりショーを受けもっている。
「あー。そっすね。シーパレスなら、ちょっとタイムオーバーしても問題ないっすからね。いっすよ。……でも、何しに行くっすか。…まさか、デートとか?」被っていたキャップを脱いで頭をポリポリ掻きながら高田くんは探りを入れてくる。
「いやいや、昨日の夜、オンライン飲み会で同期と研究の話してたんで、そのサンプル確認しに行ってくるだけ。」私は事実を簡潔にのべるだけに留めておく。そうこうしているうちに学芸課長が出勤してきたので、私はさっき作成しておいた出張申請書を提出する。
「……ん。珍しいね。研究のために出張ね。」うちの館は、基本経営母体が観光会社なため、余り研究に対する圧迫がない。結果を出せ出せと迫る事がない分、マイペースで好きな研究が続けられるというメリットがあるが、熱心に応援してくれる訳ではないのだが、今の課長はわりと研究に対して寛容な人物だから決して反対される事はないと思う。
案の定課長は、あっさりと書類にハンコを押してくれた。
「じゃあ、今から出張して来ます。」
「餌やりはどうなりますかね?」想定内の質問がやはりかえってくる。
「あ、高田君に、お願いしてあります。」さっきの根回しがここで利いてくるという訳だ。内心でガッツポーズをしながらも、真面目くさった表情を保ちながら身支度をする。
「……では、行って来ます。」
「はいはい。後で領収書提出してね。」おかげでどうやら熱海から新幹線が使えそうだ。大幅な時間短縮の目処がついた。私は駅まで自転車を飛ばして、やってきた伊豆急の熱海行きに飛び乗る。熱海駅から新幹線のこだまで約30分余りで静岡駅、そこからさらに電車とバスを乗り継いで結局昼過ぎになってしまったが、なんとか橘の水族館に到着する。
「あ、連絡。忘れてた。」面倒なので、チケット売り場で直接呼び出して貰うことにする。
「……あ、えーと、学芸員の橘さんに、会いたいんですけど。」まるで素人のファンか何かが呼び出ししてるみたいになってしまった。受付のお姉さんも、思いっきり不審そうな表情でこちらを伺っている。
「あの、橘の同級生の、水野が来たって言えば判りますんで。」慌ててそう補足する。
「あ、はい。わかりました。………少々お待ち下さい。」内線で呼び出しをしている間に、携帯のほうでも橘に一報入れてみる。
昨日の夜にも『そっちに行くわ』と伝えてあったから、多分予想はしていたんだろう。
展示室の水族館の陰からPHSで話しながら、見覚えのある、ひょろっと細身のシルエットが近付いてきた。片手を挙げて、受付のお姉さんに挨拶をしている姿は、間違っても同性の友人には見えない所も、相変わらずだ。
「…結構早かったじゃん。夕方になるかと思ってたのに。」そう言いながらスマホをポケットからだして、画面を確認して苦笑いしている。
「……到着してから連絡って、遅すぎでしょ。」それは言われると思っていたので、とりあえずへらへら笑いでごまかしておく。
「…サンプル、直接見ながら説明したいんだけど。」私がそう言うと、橘は手招きしながらバックヤードを通り抜けて、エレベーターで研究室へと誘導してくれた。
「…失礼します。」扉の上に『教授室』というプレートが見えたので、私はあわてて背筋をのばして、橘に続いて入室する。
「あ、お疲れさんね。…水野君だっけ。水産学会でも、会いましたね。」コーヒーメーカーの前で振り返りながら田邊教授がにこやかに話しかけてくれた。
「あ、はい。その節は、お世話になりました。」
「いや、特にお世話してないからね。…まあ、とりあえずここで座って。」社交辞令をあっさりかわして、田邊教授はテーブルにマグカップを置いてくれる。おとなしく座ってから、私は、即座に鞄からサンプルの入っているポーチを引っ張り出した。
「で、早速なんですが、現在こちらの研究室でJAMSTECさんとの共同調査が行われているそうですが、ひょっとしたら私の研究対象のサンプルがお役に立つのではないかとおもいまして………」橘のことだから、昨日の今日だがさっさと報告をしているに違いないと思って、はしょった説明をする。
「……またずいぶん簡単に説明するねぇ。まぁ、聴いてますよ。こちらが解剖で発見したサンプルの形状に、お心当たりがあるそうで。」扉の開け閉めの音がして、隣に座った橘が、テーブルの上にシャーレを二つと、持ち運び型の顕微鏡を運んできた。私はポーチの中から持ってきた標本瓶を二つ引っ張りだす。外側を茶色く着色してあるのは、紫外線による変質を防ぐ為だ。
「…ピンセット、借りていいかな?」あわててでてきたので、いつものケースに入った採取セットが鞄に入っていなかった。橘を振り向くと、既に、顕微鏡用のプレパラートに生理食塩水を少々いれて、待機したままピンセットを手渡してくれる。慎重な手つきで、瓶のなかから少量のサンプルをつまみ出して、プレパラートの食塩水でピンセットの先端をゆすぐようにしてサンプルを広げる。とにかくくしゃみ一発で消し飛ぶような小さなサンプルなので、急いでカバーガラスを貼り付ける。
「これが、私の研究対象の星口動物の仲間から採取したサンプルです。まず、見て下さい。」私が在学中から継続して研究を続けているこの生物の仲間は、一般には“ホシムシ”と呼ばれる蠕虫状の海産無脊椎動物で、世界中で約250種ほどが知られている。砂の中や、岩石の隙間等に棲む、非常に単純な構造の生き物だ。国内では余り食用として一般的でないが、お隣韓国では『ユムシ』といわれて、食用になっている。今日持ってきたサンプルは、その一般的なユムシのものと、もうひとつ、別の種類のものだ。顕微鏡にプレパラートをセットして、ピントを合わせた状態でそれぞれ二人に見てもらう。
「あ、すいません、僕もいいですか。」確か京極君か。橘と共同研究している院生の男前君が言う。確認する眼は多いほうがいいだろう。三人ともが一つ目のサンプルの形状を確認した所で、私がもうひとつの方を準備する。今度のサンプルは、明らかに先程のものよりも大きいのが、肉眼でもはっきりわかる。同じようにしてプレパラートでピントを合わせて見てもらった瞬間、橘の表情が変わった。無言のまま、田邊教授、京極君と続けて見てもらう。
「……これは………確かに。」三人とも、顔つきはかなり真剣だ。私が持って来た二つ目のサンプルは、かなり以前に底曳き網に偶然入った、まだ種類もきちんと同定できていない個体から取り出したモノだ。
「…これは、おそらく深海性の星口動物の一種の、陥入吻と呼ばれる口の中にある刺です。動物の毛と同じようなクチクラ質でできたものです。」私がそう説明しながら、自分の鞄からパソコンを出して起動し、本体の生物の写真を出している間に、京極君が新しいプレパラートにシャーレから出したサンプルをセットしてくれている。
「………やっぱり良く似てますね。」顕微鏡で比較すると、やはり一目瞭然だ。全体的な大きさは半分程だし、先端の鋸歯状の構造の鋭さ、硬さは橘のほうが明らかに上だが、まるで親子のように相似点が非常に多い。
「…これ、向こうの部屋の撮影用顕微鏡で写真撮らせてもらっていいかな。」私が頷くと、橘と京極君はそれぞれサンプルを持って部屋から出ていく。ようやくパソコンの画面が立ち上がり、田邊教授に元の生物の姿を見せることができる。
「……星口動物……あまり知られていないが、このタイプは、まだ研究の余地がありそうだね。」田邊教授は口元に手のひらを当てながら画面をしみじみと覗きこんでいる。この、深海性の星口動物は、おそらくサメハダホシムシの仲間になるだろう外見的特徴を備えている。全長としては30センチ程度で、体の直径は、吻を収納して膨らんだ状態で約2.5センチ、伸びた状態で約1.5センチ程度だろう。謎の傷の受傷個体の傷口の直径が平均8センチだから、もし謎生物がこうしたホシムシの仲間であるならば、さらに大きな個体が生息していることになる。海外の文献では、ホシムシの最大体長の記録は50センチ程度まで報告されているから、全くあり得ない話では無いものの、まだ他の疑問点が説明出来ない。
「……これらの星口動物は、自力での移動の能力としては、どの程度だろうかね。」
やはりそこなのだ。最も疑問が残るのは。星口動物は基本的に、採餌のために移動することは出来るが、主食がデトリタスという砂の中に含まれる有機物であるため、捕食の努力を全く必要としないため、移動スピードは、非常にゆっくりとしている。行動半径も、同じ理由で、非常に狭い。今回の北海道から静岡までの道のりを、例え潮流に乗ったとはいえ移動していくとは考えにくい。
「……やはりそこが、最大の疑問点になりますね。既知の種では、説明しきれない特徴が、あるのかもしれません。」私も、教授の疑問には共感して、そう答えて、写真撮影したあとのサンプルを橘から回収して、ついでに今回の撮影した写真をメールで送ってもらうように、頼んでおく。
「また、何かわかったら教えて。あと、星口動物ならまた、いつでも聞いてもらってかまわないからね。調査、頑張ってね。」そろそろ閉館時刻が近付いて来たようだ。私も、辺鄙なところの水族館の付属宿舎が自宅だから、あんまりのんびりしていると、熱海から先の電車が無くなってしまう。旧交を暖める暇もなく、田邊教授にお礼を述べて、アリバイがわりにショップで焼き菓子を買って、バスに飛び乗り帰途につく。
「…はぁー。疲れた。……それにしても美男には美男がつくもんだなぁ………BL漫画みたいな組み合わせだわ。アレは。」元々イケメン女子の橘に、醤油顔イケメンの代表みたいな外見の院生、顔面偏差値が高すぎる。平均的水準の自分の水族館が、なんだか恋しくなってしまった。
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