第28話 検討
メール画面が、着信を知らせた。
事務作業がたまっていたので、研究室で残業していると、机の横に放り出してあったスマホの画面が、鈍く光る。
「……誰だ。こんな時間帯に。」そういいながらも、こんな時間帯まで残業しているのは、自分だけだと思っていたので、同志を見つける気分でスマホ画面をタップする。
「……おぅ。橘か。用件は何だ?」独り言をいいながら画面を開くと、いきなり添付された写真ファイルが開いて、魚の解剖写真のドアップにちょっとのけぞる。同じ水族館の学芸員として、別に苦手な訳ではないが、それにしても、先に前置きの一言があるのが当然の常識だろう。大学時代から常々思っていたが、この橘という奴は見た目と中身のギャップを始めとして、いろいろと、他人の予測を裏切る傾向が強い。相変わらずの予想外に、苦笑いしながら画像をスクロールしていくと、解剖写真の下から、ガラスシャーレに入った骨片のように見えるものが上がってくる。
「……なんだこれ。……肋骨か?……いや、先端部のギザギザからすると、歯のようにもみえるな。」シャーレのサイズ感からして、拡大した写真であることは間違いない。よくみると、ごていねいにも画面の端にスケールがきちんと写り込んでいる。どちらにせよ、全長一センチあるかないかというサイズの形状は刺とも見える謎の部品の写真。
「……何が言いたいんだ、一体。」写真を見ながら首を傾げていると、更に追加でPDFファイルが届く。それらを総合して、簡単に言うと、ようは、去年の12月にうちが搬入したイタチザメの標本から、ガスクロマトグラフィー検査と、傷痕の再検索をしてほしいという依頼のようだ。先日の水産学会のときに提出したデータに基づいて関係先各所に書類で送付したという。
「……あれ?見た覚えは………ないな。」机の周りを見渡すが、橘のいる水族館の名前の入った茶封筒は、記憶にない。というよりも、何故俺が今こんな時間帯に残業してまで事務処理をしているのかというと、館の事務職の女性が寿退職して、人員の補充が間に合わずに事務所に書類が積み上がった状態を何とか通常に戻す為に相違ない。つまり、件の封筒は、机の上に積み上がった書類の山に埋もれていると考えて良いだろう。他館の連中からは既に回答があり、業を煮やして直接メールしてきたということだろう。昔から橘は行動力が半端ない上に、待っているのが嫌いな突撃タイプだった。そのくせ、恋愛関係に関しては、勘の働かないこと甚だしい奴で、かくいう俺も、余りの鈍さに玉砕したクチだ。それでも未練がましく橘のメールには、即座に反応してしまう自分が、少々情けない。
「ガスクロマトグラフィー検査か。……一体何が気になってるんだろうな。」昔から奴の“研究者の勘”みたいなモノは、群を抜いて鋭かった。同じテーマでレポートを書いても、その視点や、切り口の斬新さ、思考回路の鮮やかさには、定評があった橘のことだ、田邊教授の秘蔵っ子として、これからも活躍していくんだろう。
「……仕方ないな。協力してやるか。」まずは、メールを返信してから、事務作業を切り上げて、作業服に着替えてからガスクロマトグラフィーの検査器をスタートさせて検体を採取するために標本室へ向かう。うちの館は、都の直轄のためか、他館よりもかなり恵まれている。他館ならば外部に検査委託しなくてはならないような高度に専門的な検査もほとんど全て賄うことができるような、最新に近い検査機器が揃っているのが強みなのだ。不幸中の幸いというか、寿退職の人手不足のおかげで、標本の液浸処理までも滞っており、通常ならば12月の搬入の標本個体なんかはとっくに液浸処理されてしまっていた筈のものがまだ冷凍室に置き去りになっている。液浸処理していたらガスクロマトグラフィーにかけても採取できるのはアルコールかホルマリンだけだ。これは橘が強運の“引き”を持っている証拠だろうか。そんなことを考えながら、冷凍室から搬入個体を密閉ポリ袋ごと運び出し、二重になっている袋の内側まで開けた時、辺りに漂う独自の匂いにピンときた。
『ガスクロマトグラフィー検査の理由は、これか。』通常ならば冷凍室に保管している状態で、こんな“異臭”を放つ状態になるはずかないのだ。しかも、今回のコレは、軟骨魚類のイタチザメだ。分解してアンモニア臭がするならまだしも、明らかに通常とは異なる異臭。例えば硫黄や、金属イオン、かすかなニンニク臭のような、特徴的な匂いだ。検体を採取して、再び袋を密閉しようと思った所だったが、ふと思い直してポリ袋ごと解剖台へと移動する。
「……確か、傷痕の再検索だったか。」冷凍室から出したばかりで、まだ凍りついたままだが、傷痕の部分にライトを当てて、一つを固定した後で、もう一つの光源を移動しながら傷痕の奥深い所までしっかりと確認する。
「さっきの刺みたいな奴が、傷痕の内部から見つかったんだよな。」独り言がすっかり癖になりつつある。冷凍状態から少しずつ解凍されて、表面に付着していた霜の煌めきが消え始めるタイミングで、傷の奥に何かが光るのを見た気がする。
「………あれ?」もう一度光の当てる角度を変えながら何度か同じ場所を往復して、確認すると、やはりそこに『何か』光っている。
「…これ、絶対霜とか、氷じゃないよな。」
シャーレを用意して、改めてピンセットを慎重に差し込んで、光を鈍く反射する“それ”をそっとつまみ出す。注意しながらシャーレに“それ”を置き、念のためと、もう一度傷の内部を照らしてみる。
「……あれ?もしかしてこれも。」目が慣れたせいか、解凍が進んだせいか、傷口の中にまた一つ同じように光る“モノ”が見えてきた。どちらもやはりつまみ出してみると、送られてきた写真のモノと、大きさや形状ともに瓜二つと言っていいほどそっくりに見える。慎重にシャーレにしまいこんで、その後も、何度か光で照らして検索したが、傷口の周りが、すっかり解凍された状態になるまで調べても、同じモノは見つけられなかった。
『……とりあえずこれだけでも、よしとしておくか。』シャーレ内で少し生理食塩水に浸してから、拡大鏡を使用して、何枚か写真を撮影しておき、更にスマホで撮影したものを画像添付で橘にも送付しておき、再びイタチザメを袋に詰めて冷凍室に保管する。
「あ、やべ。そろそろ終電なくなるわ。」使用した器具や部屋の片付けを済ませて、研究室のパソコンのシャットダウンをしつつ、シャーレに入った“モノ”を自室の冷蔵庫にしまっておく。共同で使用している冷蔵庫は、サンプルのほかにも職員の私物もあるので、大切なものは、名前を書くか、自分の冷蔵庫を設置して管理することになっているのだ。万が一でも、紛失したら目も当てられない。
何とか滑り込みで乗り込んだ最終電車の中で、スマホがメールの着信を告げる。
「……何だ?………」発信元は案の定橘だった。開いてみると、一言、
『今、電話いい?』だけ。あわてて今現在電車内で帰宅途中であることを伝える。そして、時間は多少遅くなるが、自宅に着いてからまたこちらから連絡する旨を追加しておく。自分でも未練がましいこと甚だしいが、迂闊にも自宅に到着するまでの時間、口元が緩んでにやついているという自覚があった。
正々堂々、『必要があって連絡する』のだ。
以前何となく電話したときの、けんもほろろな対応に萎縮したのを思い出しながら、途中のコンビニで夕食を調達して自宅への帰途を早足で急ぐ。部屋に入って早々にスマホ画面を開いて、橘の連絡先をタップして通話を繋ぐと、どうやらジリジリ待ち構えていたらしく、2コール目で通話が繋がる。
「…家着いた?さっきメール画面で送ってくれた画像のことだけど……」あわててスピーカーに切り替えて、持ち帰ったタブレットに写真を呼び出す。
「ああ。今家。……画像ってこれだろ?」スマホのほうもテレビ通話に切り替えてタブレットを画面に向ける。向こうもどうやら自宅らしく、橘の顔ごしにカーテンやら何やらがちらっと写りこむ。相変わらずの性別不明な
“美少年”顔だ。
「そう!それ!……二本あったってこと間違いないよね?………」かなりビッグニュースだったらしく、凄く嬉しそうで、珍しくニコニコしている。その笑顔に性懲りもなく撃ち抜かれながらも、かろうじて表情を変えずに頷いてみせる。
「お、おう。間違いない。あと、ガスクロマトグラフィー検査のほうもデータ上がってくるけど、どうすればいい?」
「…とりにいくわ。」
「……は?」
「そっちに、取りに行くから。」
「………いや、来るって……いつ?」
「あした?」
「…………はぁ?」脳味噌が情報の受け取りを拒否したのか、若干頭の悪そうなやり取りに、橘がイラッとしているのがわかって、更に頭が真っ白になる。
「…あ、いや。明日って言ったって仕事あるだろ?……俺も仕事だし。」しどろもどろになりそうなのをこらえて、常識的な事を口にして、自分の正気を保つ。
「だからね。仕事終わってから新幹線でそっちに取りに行くっての。こっちも暇じゃないし、貴重なサンプルを万が一の郵便事故なんかで紛失するわけにはいかないからね。」
「……わ、わかったよ。んじゃぁ、明日の仕事終わり次第、東京駅八重洲口でいいな。」平静を装いかろうじてそれだけを口にすると、
「了解。じゃぁ、明日新幹線乗るときまた連絡するわ。検査結果もその時頂戴。」それだけを告げて、久しぶりの橘との通話は途切れた。翌日の朝からの仕事が、異常なハイテンションでさくさくとすすみ、他の職員にまで
「……大沢さん、今日機嫌いいっすね。」とまで言われる始末だ。ついでに、先日検査実験用に準備した寒天培地を、シャーレに薄く張り付けて、昨日のサンプルの紛失を防ぐために埋め込んでおくことにする。更にラップでしっかりとくるんで、更にジッパー付きビニル袋にいれて、準備も完了する。もちろん昨日のガスクロマトグラフィーの検査結果も忘れずにいれて、支度まで完璧に終了し、当然残業するような素振りも見せずに閉館作業もきっちり済ませて事務所に戻る。
「……今日、何かあるんですか?」連日の残業を知っている同僚や先輩がたの詮索を、なんとかかわして、終業の挨拶もそこそこに、全ての準備を持って、最寄りの駅まですたすたと歩き出す。駅に到着したところで丁度、橘から『新幹線乗りました!到着は18時45分予定』と連絡が入る。最寄りの葛西臨海公園駅から東京駅八重洲口までは、20分もかからないので、少しだけ歩調をゆるめる。
『ついでに、食事くらいは誘っても、いいよな。』時間に余裕が出来たので、電車の中でおもわず『東京駅周辺のレストラン』やなんかを検索してしまった。
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