第22話 日常

「おはようございます。」いつものように海岸を歩いて研究室に到着して、上着を羽織ってから、教授室に向かう。

「…失礼します。」扉をあけると、中にまだ来ていないと思っていた京極君がいて、少し驚かされる。調査航海にむけてここのところ連日遅くまで残って作業や準備をしているので、京極君の来る時間は普段よりも遅くても構わないと伝えてある。それでも他の学生に示しがつかないと言って、最近京極君は遅刻にはならない範囲内でゆっくり来るようになっている。

「あ、おはようございます。」何やら田邊教授と話をして、京極君はこちらを振り返ると、ニコニコしながら挨拶した。

「…あぁ、おはよう。」おはやっすではなく、おはようございます。いつもより丁寧な挨拶に、ニコニコと嬉しそうな表情。田邊教授も機嫌が良さそうだ。挨拶を返しながら様子を伺う。案の定田邊教授がこちらを向きながら、一枚の通知書を私に見せてくれる。

「京極君、大学院試験受かったよ。来年度から、正式にうちの研究室に所属も決まったから、橘君指導お願いね。」そろそろ結果の発表がある頃だとは思っていたが、日常の忙しさにかまけて、全く『ご褒美』を考えていなかった。

「…京極君なら受かると思ってましたけどね。とりあえずは合格おめでとう。」握手して、ついでにハグして背中をポンポンしてあげてみる。……内心これで“ご褒美”にならんかなと、期待しながら。田邊教授が生暖かい眼で見ている気がする。

「…………そろそろいいかな。……離そうか。………………離せっ……つーの。」いつの間にか立場逆転して全力でハグされてしまったので、何とかして引き剥がして研究室に戻る。後ろで京極君がゆでダコのようになりながらもにやけた顔をしているので、何だかこっちも気恥ずかしい。

『ワンコのくせに生意気な。』身長差は多分10センチ以上はあるだろう。私も身長165センチあり、女性としては背が高いほうだが、京極君はさらにひょろ長い。別に張り合うつもりはないが、自分の非力を思い知り、若干悔しい気持ちもある。とりあえず研究室のそれぞれの机について、今日の分として予定していた卒業論文の作業に取り掛かることにする。出来る作業をサクサク終わりにして、お昼の休憩時間になる。

「……はじめさん。ご褒美……」やっぱりそうきたか。京極君がパソコンをスリープにしてこちらに向かってきた時点で予想はついていた。諦めて私もパソコンを閉じる。

「…ご褒美ねー。こんど、レンタカー借りて、“さわやか”食べに行こうか。……もちろん私の奢りで。」市内では有名なハンバーグ店だ。このくらいで勘弁してほしい。

「わかりました!いつにしますか?」嬉しそうな京極君の様子にほっこりしながら、休憩のために教授室に向かうと、背後から鈴村さんが、小走りでやってきた。

「あー。ちょうど良かった!まだ昼飯済んでないよね。ちょっと今から由比漁港まで行くから手伝って。……弁当だった?」今日は偶然私も京極君もカップ麺のつもりだった。それぞれが手に持っているカップ麺を見て、鈴村さんは、にやりと笑う。

「コンビニで何か昼飯奢るからさ。」

「由比で何かあったんですか?」『謎の傷』のこともあって、思わず聞いてみる。

「あー、違う違う。由比漁港の漁師から、生体のサクラエビが採れたって連絡きたから。」鈴村さんの、今季の研究テーマはサクラエビの生態研究だ。この種のエビは、この駿河湾の特産品として、昔から知られているが、その割には生態が不明な点が多い。継続して飼育するのも非常に難しく、まだ、継続飼育日数も二週間が限界だ。繊細なために取り扱いにも注意が必要なので、生体が採取されたら、タンクのある水槽車で、水ごと移送することになる。つまり運転手と、管理する人員二人で行かなくてはならないのだ。

「わかりました。教授に一声掛けてきます。」京極君にカップ麺を研究室に戻してもらって、教授室を開けて田邊教授に声をかける。

「サクラエビ回収に付き添って来ます。」

「あー。はいよ。行ってらっしゃい。」教授も今日は珍しく愛妻弁当ではなく、カップ麺だった。スーツに汁が飛ぶのを嫌って襟からハンカチをぶら下げて、麺をすすっている。

毎度ながらオシャレに気を遣うダンディーなおぢさんだ。作業服を二つ掴んで一階の駐車場に向かうと、既に京極君と鈴村さんが、長靴と機材を積み込み終えていた。

「よーし。出発するぞー。」2tトラックを改造した水槽車で、由比漁港まで向かう。途中のコンビニでおにぎりとお茶を鈴村さんに奢ってもらい、もそもそとお腹に流し込みながらのドライブだ。コンビニを出てからバイパスに乗って海岸ぞいの線路と高速道路に挟まれた道を走ると漁港が見えてくる。近づくと桟橋に横付けした漁船の横でこちらに向かって手を振っている人影が見えた。

「ご連絡ありがとうございます!××大学海洋科学博物館です。」鈴村さんが、運転席から降りて、漁師さんと話をしている間に、私がトラックを漁船の近くに駐車する。最初の頃は、なかなかトラックの車幅感覚に慣れなくて、よく冷や汗をかいたが、さすがにもう慣れた。トラックの運転が出来なくては、水族館の学芸員はやって行けない。しかも、今時マニュアル車だ。免許を取りに行った自動車学校でも、珍獣扱いされた。よくある定番の、『へぇー。オンナノコなのにマニュアルなんだー。』という奴だ。いつも思うが、職業にも、免許にも、性別は関係ない。いつまでソコに線をひくのか。なかなか進歩は見られない。今時女性のいない職場のほうが少数派だというのに。それはそうとして、私はトラックの荷台にある水中ポンプのスイッチを入れて、京極君にタンクの蓋をあけて準備してもらう。

「スタンバイ完了しましたー。」トラックの荷台から漁船のほうに乗り込んでいる鈴村さんに声をかける。

「了解でーす。じゃあホースこっちに投げて。あと、水位調整ホースも下に垂らして置いて。」水位調整ホースというのは、これから海水ごとサクラエビを吸い上げて、水槽に移送するために、海水が水槽から溢れないように調整するためのホースで、せっかく吸い上げたサクラエビをこぼさないように、フィルターがついている。サイフォンの原理で、水槽よりもホースが下がっていれば、自動的に水位を調整してくれる。

「はぁーい。じゃあ行くよー。」鈴村さんの合図で漁船のタンクからサクラエビが吸い上げられ始める。タンクの水位が上がるにつれ調整ホースからトラックの荷台に海水が流れてくる。長靴を積んでいたのは、そのためだ。水槽車は、海水を扱う前提で、荷台にはコーティングが施してある。じゃないとあっという間に錆びて使い物にならなくなるのだ。荷台に流された余分な海水は端から地面に流れて行くように溝もきってある。タンクの中を覗くと、今回はいつもよりもサクラエビの密度が低いような気がする。

「はい。完了しましたー。ポンプ止めて!」鈴村さんの、掛け声に、水中ポンプのスイッチを切り、ホースがどちらも空になるのを確認してから収納する。タンク内は、エアポンプが稼働しているので、海水はゆっくり循環している。サクラエビの遊泳能力は低いので、それに合わせてエアポンプも水流弱めに調整しておかなくては。

「京極君、荷台の床の水を、そこにあるデッキブラシと、スクレーパーでしっかり排水しておいて。」

「あ、はい。了解っす。」しっかり排水しておかないと、車が一般道を走るときに、後続車に海水の飛沫を浴びせてしまうことになる。ただの水だと侮ってはいけない。海水だ。ワイパーで拭っても、あとから“塩分”がガラスを真っ白にしてくれるのだ。何日か経過してから『なんじゃこりゃー?』となる。

「はい、お疲れさま。さてと、帰りますか。」乗り込む前にと、トラックの周りを確認していると、漁師さんと鈴村さんが、話している。

「今回はいつもより少ないですね。」やはり気のせいではなかったようだ。

「今年はサクラエビも不漁でね。網打っても半分位しか入らんのよ。」漁師さんの隣に立つ人物もうんうんと頷いている。

「サクラエビ“も”と言われましたね。…他に何かありましたか?」思わず口を挟んでしまう。JAMSTECの吉邨が集めた漁業被害が脳裏をよぎる。

「あぁ、うん、…何だっけね?」漁師さんが、隣に立つ人物に話題をふるように見やる。

「うちのほうだと、底曳き網が軒並み五割減、定置網は三割減ってるね。」隣の人物もどうやら漁師のようだ。

「定置網の魚に損壊されたものはいませんか?」研究者の勘だが、漁師は売上にならない魚は目に入らないので、吉邨も報告には上がらないと言っていた。案の定漁師は少し驚いた表情でこちらを見る。

「なんで知っとるかね。最近は、漁獲が少ないうえに、食い散らかされとるもんで定置網は仕事にならんのよ。」大当たりだ。

「…どちらで船を出してますか?」港を聞けば漁業の海域が大体わかる。

「あぁ、焼津港だ。今日は仕事にならんから兄貴の所を手伝いに来たんだ。」兄は由比でサクラエビ漁、弟は焼津で定置網と底曳き網という訳だ。念のためもう一つ確認してみる。

「……どの辺でいつも定置網してますか?」

「あ?そりゃあんた、焼津からならいつも石花海盆か、石花海だね。」ビンゴだ。連れてきてくれた鈴村さんに感謝する。

「あの、私こういう者です。ちょうどいま、その漁業被害について調査を始めた所ですので、また、後日改めてお話を伺いにお邪魔してもよろしいでしょうか?」名刺を渡してアポイントメントをとる。漁師弟は普段こういう名刺のやり取りに慣れていない様子で、目を白黒させながら漁師兄に助けを求めているようだ。多分私のことは『手伝いの兄ちゃん』としか認識していなかったのだろう。

「…いいんじゃねえの。話する位はよ。あんたみたいなキレイな顔の兄ちゃんが話してくれるんならお前の嫁さんも大歓迎だろう。」若干認識に齟齬があるような気がするが、とりあえずの助け船に乗らない選択肢はない。

「お、おう。わかった。協力するわ。……名刺なんてコジャレたもん俺は持ってないんだが……」横から漁師兄が自分の名刺をとりだして、漁師弟に連絡先を書かせて渡してくれた。

「ありがとうございます。協力よろしくお願いいたします。」鈴村さんからも一声添えてもらって、私達は由比漁港を後にした。

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