第20話 触発

メールの着信メロディが鳴った。無意識に携帯の画面を確認して、私は思わずガッツポーズをしてしまった。不思議そうな表情の京極君を置いて、私は研究室から教授室へと携帯を片手に走り込む。

「教授ー‼️田邊教授。吉邨から連絡です。例の“傷口”の謎生物の調査、JAMSTECが母船“よこすか”と、“ハイパードルフィン”、“深海6500”セットで出してくれるらしいです!」

「……その言い方だと、なんだか“ご一緒にポテト”がついてきそうだねぇ。」教授はホワイトボードの前で書類を眺めながらコーヒーを飲んでいる。手元をよく見てみると、教授の持っている資料には、見覚えのあるJAMSTECのロゴマークが付いている。

「うちの大学の方の研究審査会が来週あるから、橘君ちょっと申請書作成しておいて。」

田邊教授はいつものことながら高いハードルをさらっと提示する。

「…タイトルだけでも田邊教授決めて下さいよ。」せめてもの抵抗で、責任者としての面目を保ってもらいたい。

「……うーん。……『漂着大型魚類における披損傷原因の調査探求にかかる予算請求。』かな。それっぽく書いて、作っておいて。多分JAMSTECの練習航海に便乗する形にしてもらえるから、僕ら三人の出張費くらいで済むと思うけどね。」手近にあったチラシの裏に、田邊教授の言ったタイトルを慌てて書き留める。来週と簡単に言ったが、今日はすでに水曜日だ。あと2日で、申請書を作成するということだろう。

「三人ということは、田邊教授と、京極君と私ということでいいですかね。…すぐに作成します。」善は急げだ。小走りに研究室へ戻り、パソコンを立ち上げて、申請書のフォーマットに必要事項を入力していく。

「はじめさん、ちょっといいですか?」京極君が肩に手を置いてパソコンを覗き込む。どうでもいいことだが、最近京極君の距離感がちょっと近すぎる気がする。

「んー。何?卒論のことなら、ちょっと待ってて。とりあえず急ぎの書類作ってるから。」そのまま横を向くと京極君の頬に鼻が当たりそうなので、ちょっと首を傾げながらそう答える。いつも思うが、赤面するくらいなら近付かなければ良いのだ。

「……あ、はい。わかったっす。」自分の机に戻るのかと思ったら、そのまま真横に立っている。いつもながら行動に謎が多い。

申請書の書類は、二枚目が定型フォーマットで、一枚目には、申請理由と、その研究に関する意義を簡便に説明することになっている。いつも一枚目が悩み所だ。田邊教授の決めた『漂着大型魚類における披損傷原因の調査探求』というタイトルのあとに『調査意義』と、『調査の目的』というものをそれっぽく、かつ解りやすく説明しなければならないのだ。予算請求委員会は、委員の約半数が事務方で占めているので、専門的な用語は極力避けて、必要性をアピールしなくては通らない。今回は、金額はそれほど多額ではないので、追及はそんなに厳しくはならないだろうが、最新の検査機器なんかを導入しようとすると、かなり根掘り葉掘りと厳しく追及されることになる。昨今の風潮として、“直ぐに結果が目に見えて、かつ、“お金になる”かどうかというのが、チェックポイントのようだ。私達のように、“食べられない”魚の基礎研究は、いつでも肩身が狭いのだ。なんとかそれなりに『意義』と『目的』を捻り出して、書類をプリントアウトして、軽く伸びをする。若干の肩凝りを感じていると、

「肩凝りですか?僕マッサージ上手いっすよ。」真後ろから両肩に手が伸びて、凝りをほぐしてくれる。確かに上手いのだが、ちょっと遠慮があるようで、力加減が優しくてくすぐったい。思わずクスクス笑いながら、

「んー。…もっと激しくしてもいいよー。」というと、何故か急に両手を離して後ろを向いてしまった。耳まで真っ赤になっている。ちょっと言い方を間違えたと気付いたが、言い直すのも何だかかえって恥ずかしいので、何も知らないフリをする。そのまま京極君を残して、プリントアウトした書類を持って田邊教授の教授室に、チェックして貰いに行くことにした。

田邊教授のチェックを経て研究室に戻ると、京極君は自分の机に突っ伏してしまっている。寝ているのかと思ったが、どうやらそういう訳ではないらしい。スマホに向かって何やら打ち込んでいる。そっとしておくことにする。触らぬ神に祟りなしだ。

そのまま卒論の仕上げなんかをしているうちに閉館作業の時間となり、いつものように作業を終えて帰り支度をする。

「…今日は晩御飯どうする?」さっきのいい間違いから、何となく気恥ずかしくて放置していたという自覚が、思わず京極君にそう声を掛けさせた。

「………?」振り返ってこちらを見る勢いの凄さに若干押されたが、あんまり嬉しそうなので、“やめとく”とは言えなくなった。

一瞬尻尾を勢い良く振っている幻覚が見えたような気がする。オコジョというより大型犬か。さっきのはもしかして拗ねていたのかもしれない。思わず祖父母の家で飼っていた大型犬のことを思い出して、隣を歩く京極君の頭を撫でてしまった。

「!!!何するんすか!?」全くの無防備だったらしく、京極君からかなりの大声が出る。慌てて抱えて口をふさぐと、ゆでダコのように真っ赤になって硬直する。

「………しーっ。声が大きい!」これでは、どっちが女子かわからない。誰かに見られたらセクハラと言われてしまうかもしれないので、とりあえず落ち着いてもらわなければ。

しばらく抱えていると、どうやら諦めたらしく、おとなしくなったので、手を離して様子を見る。抱えている間に何故か京極君が汗をかいていたせいか、私の服まで何だか湿っているような気がする。

「…行きますか。」海岸沿いを歩いて、最近よく行くようになった喫茶店で、晩御飯を食べて帰ることにした。

「……そういえばさっきの用事は何だった?」すっかり忘れていたが、研究室で、申請書を作っていた時の用件を、まだ聞いていなかった。シーフードカレーを食べながら、京極君も忘れていたらしく、しばらく考える。

「…あ、そうでした。あの、…大学院の試験受かったら、何か僕にご褒美貰えませんか?」

「……私が?京極君にご褒美?」ますますご主人様とワンコみたいだ。そう思ったということは、言わない方がいいだろう。

「…お願いしますよ。応援すると思って。」

テーブルにのせた腕に自分の顎をのせて、上目遣いにこっちをみる京極君。なかなかあざとい技を覚えてきた。

「仕方ないなぁ。……リクエストは受け付けないからね?」あくまでも“研究室の先輩”から“後輩”への合格祝いだ。まぁ今の京極君のレベルで試験に落ちることはまずないだろうから、今のうちに検討しておこう。

「……うぇー。リクエスト駄目っすか。」残念そうな京極君のことはさておき、今朝の吉邨からのメールについて相談しなくては。

「京極君去年実習航海したよね?」うちの大学には、海洋実習航海という必修科目があり、専用の実習船が二隻ある。その年によってどちらかの船に必ず乗船して、学部学科によるが、3日から10日の航海が必ず行われることになっているのだ。航海実習の内容は、学科によって異なり、“航海士”の資格取得を目指す学科では、外洋まで出てみっちり船舶航海技術を叩き込まれるし、私達の在籍していた水産学部ならば、研究者に必要な各種の検査機器の使用法や、プランクトン採取ネットや底引き網などの使用法等をみっちり実習する。京極君は確か水産学部だったはず。

「あ、はい。行きましたね。」カレーの皿はすっかり空になっている。私も残ったカレーを片付けながら、

「船酔い大丈夫だった?」と、まずは基本的なことから確認する。

「あ、産まれて初めて乗ったので、心配してたんすけど、全然大丈夫だったっすね。」

学生のなかには、全く船を受け付けないレベルでひどく船酔いする人もいて、次の日には船を下ろされて強制送還になるような奴もいるのだ。もちろん必修科目なので、下ろされたら、大量のレポートを提出しないと単位が貰えない。

「今朝吉邨からの連絡で、JAMSTECとの共同研究が決まったから、船大丈夫かなぁと思って。」

「船乗って研究ですか。何かカッコいいっすね。」軽い感じで言っているが、JAMSTECの研究船『よこすか』はうちの大学の研究船とはレベルが違う。うちの大学の研究船は『望洋丸』全長が確か約88メートルで、船の大きさを表すトン数はざっくり2200t、JAMSTECの『よこすか』は、調べてみると、全長105.2メートル、トン数は何と4439tもある。船は大きい程船酔いしにくいので、大学の船で大丈夫ならばまず問題ないだろう。しかも、船内設備各種も、格段にいい。船室も、望洋丸のように五段ベッドなどは無いようだ。もちろん船内の研究設備も超一流だろう。私は『謎の傷生物』に感謝したい気持ちになる。これは、研究者としての経験値を上げる大きなチャンスだ。調査の規模の大きさに触発されて、研究者としての期待が高まって行く。

「じゃあ乗船する研究者としてのこちらの人員は三名として、京極君も数に入れてもいいよね?」田邊教授に提出した申請書には、もう既に確認するまえに京極君を数に入れてしまったが、これで参加意志の確認がすんだ。

「あ、はい。いっすよ。頑張ります。」

相変わらず返事が軽いが、無責任というわけではないのはわかっているので、良しとしよう。着々と調査の準備は進んでいく。

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