第17話 日常
いつまでも『傷口』の謎で盛り上がってしまっている、困ったおぢさん二人に、“そろそろ時間ですよ”とお開きを伝えて、吉邨達は駅へと向かった。私達は駅前に予約したビジネスホテルにチェックインの手続きをする。
エレベーターで部屋に向かう所で、私は田邊教授に一言文句を言っておくことにする。
「教授、ひどいじゃないですか。京極君が院希望してるなんて、一言も聴いてませんよ。…合格したら私が面倒見るんですから早めに教えてくれてもいいのに。」教授は話に夢中で余り呑んでいないのでしゃきっとしているが、京極君は吉邨に散々呑まされてふらふらしているので、見かねて肩を貸してあげている。顔を真っ赤にして、密着度が高くて暑苦しいが、それは仕方がない。
「…あぁ、まあ、京極君が合格するまで黙っていて欲しいって言ってたからねぇ。」本人に問いただしたくても酔っぱらいでは話にならない。とりあえず部屋のある階に到着したので、教授に荷物を持ってもらいながらまずは京極君の部屋に本人を運びこむ。
「んもぅ。ほらあと少しだから頑張って。……スーツのまま寝ないの。…はい、脱いで。ほら、ズボンも。今さら恥ずかしがるんじゃない!…さっさとする!」べろべろならばシャワーは明日に持ち越しでかまわないのだから、スーツだけはちゃんとハンガーに吊るさないと後が大変な事になる。急にもじもじする京極君を叱咤しながらスーツを脱がせてハンガーに吊し、何故か室内に入らず廊下で待っていた田邊教授から京極君の荷物を受け取って部屋に放り込み、扉を閉める。
「……何ニヤニヤしてるんですか。」『生暖かい眼』と言ってもいいような田邊教授の表情に気付いて、思わず文句を言う。
「…いや、一応彼も“お年頃”の成人男子なんだから…ねぇ。」そういえばそうだった。でもまあ、館内でゼミ生達はパンツ一丁で水遊びなんかをしているので、別に今さら意識するのも今一つピンと来ない。何を今さらという表情をした私をみて、田邊教授は何故か一つ、ため息をついた。
「……気の毒にねぇ。」どういう意味かと思ったが、とりあえず明日の新幹線の予定があるので、休息を優先する。幸い三人並びで部屋を取れたので、教授の部屋に荷物を入れてから、私も部屋に入ってさっさとシャワーして寝ることにする。
『……明日の朝食は……7時からか。新幹線は昼の予約、お土産と、都内観光する時間あるといいなぁ。』実家は関東なので、都内は馴染みだが、余り逆に観光らしいことはしたことがない。教授は静岡県出身だし、京極君は確か長野県の出身だったはず。
『…東京タワーでも行くかなぁ。』そんな事を考えながら眠りについた。
翌日、朝から男性陣二人を携帯で叩き起こして朝食バイキングの会場に集合する。田邊教授はパンとコーヒー、フルーツ少々、京極君はどうやら二日酔いらしく、ジュースとフルーツだけで朝食、私はせっかくなので、普段食べない玉子料理とソーセージにコーヒーとフルーツにしてみた。
「……橘さん元気っすね。」ぐったりしている京極君に手持ちのピルケースから二日酔いの薬を取り出して、さっさと飲ませる。私は一人っ子で兄弟がいたことはないが、多分弟がいたらこんな感じだろうか。そんなことを考えながら、教授と京極君に今日の予定を確認する。二人とも特に行きたい場所などの希望はないようで、午前中に少し観光して帰るという点には異論は無いようだ。とりあえず東京駅まで移動して、荷物をロッカーに預けてから観光することに決めて、各自支度のために一旦解散する。
再度ロビーで集合してチェックアウトすると、薬が効いてきたのか京極君は大分しゃきっとしてきた。田邊教授も京極君もスーツではなく、私服でそれなりに動きやすい格好をしている。
「………橘さん。珍しいっすね。」
「…たまにはね。」私服は荷物になるのが嫌なので、今回はワンピースにしてみたのだ。ヒールは持ち歩きが面倒なので、昨日と同じローヒールだが、パンツスタイルでもスカートでも使えるデザインなので、違和感はないと思う。教授は別に私のスカート姿が初見という訳ではないのでノーリアクション、京極君は珍しい動物でも見るようにしてから、きちんと撫で付けてセットしていた自分の髪を何故か掻き回してぐしゃぐしゃにしてしまった。相変わらずよくわからない。
「じゃ、行きますか。…まずはせっかくなので、東京タワーでも行きますか?」東京駅に到着してから、新幹線中央口近くのコインロッカーに荷物を預けて、東京タワーへ。
とりあえずは展望エレベーターに乗り、展望台で定番の記念撮影を、通りすがりの人に頼んで一枚。何故か田邊教授が京極君のスマホを借りて私と京極君のツーショットを撮ってくれた。しかもポージングの指示までして。あとは特にすることもないので、東京タワーの周りの土産物をいろいろ買って、東京駅から駅弁を買って新幹線で静岡県に向かう。最寄り駅から研究室のある水族館まではタクシーを利用させてもらって、研究室で解散する。まだ閉館時間ではないが、さすがに今日は作業の手伝いはしないで、先に帰らせてもらう。学生室に東京のお土産を届けに行くと、何故か学生達がざわざわする。
「……?何かあった?」京極君に耳打ちすると、耳を押さえて壁際まで勢いよく下がってから、横を向いてボソッと呟く。
「…スカート珍しいからじゃないすか。」そういえば着替えてなかった。面倒なので、そのままスルーして、さっさとお土産を配って帰ることにする。
「お疲れ様でした。…じゃ、また明日。」何故かまたうちの前までついてきた京極君と、挨拶して別れる。
部屋に戻ってから、着替える前にしみじみと玄関横の鏡を眺める。そういえば確かに今回は電車移動で荷物になるのが嫌でワンピースにしたが、普段の学会などの時は車で移動のことが多いので、ジーンズ姿がほとんどだ。
『……だからといってあんなにざわざわしなくても……』学生は正直だ。不本意だが。
「おはようございます。」翌朝も毎日の日課のビーチコーミングをして、研究室でいつものように白衣を羽織って教授室に入る。休憩コーナーでコーヒーを淹れながらホワイトボードをチラ見すると、いつのまにか私がもらった資料が分類されて張り付けてある。
「や、おはよう。後でその資料のデータをそこの地図に書き入れておいて。また、JAMSTECの川崎さんから連絡あるから。」
「わかりました。…いつのまにかそこまで話進んだんですか?」
「あの後からメールでやり取りして、先方がめちゃくちゃ乗り気だから。」にやりと笑う田邊教授。
「鉄は熱いうちに打てっていうでしょ。」
目撃海域の水深を考えれば、一地方の私立大学が単独で調査を行うのはかなり予算的にも厳しいものがある。スポンサーとしては、最高のパートナーだろう。
「あと、教授、京極君の卒論は、学会の発表資料から仕上げてもらっていいですよね。」
「…うん。そうだった。院試も今月末だから、試験勉強と、卒論の仕上げ手伝ってあげてね。」なかなかスケジュールが詰まってきた。気を引き締めて取り掛かろう。
教授室を出て研究室の扉を開けると、すでに京極君はパソコンに向かっている。私も本棚からいくつかファイルを取り出してからパソコンの電源を入れて、作業の下準備をする。
「…あ、おはようございます。」よほど集中していたのか、やっと気配に気づいて、京極君が振り返る。
「院の試験も近いから、卒論手伝い教授に頼まれてるからね。このファイルが院の試験の対策問題だから。」
「…ありがとうございます。…助かります。」いつになくしおらしい返事をして、京極君はパソコンに向かって作業を進める。私も発表原稿を論文形式に打ち直す作業を、餌やりの合間にを黙々とこなしてあっという間に1日が過ぎていく。
「…橘さん。今日も晩御飯どうすか。」閉館作業を終えて、研究室の片付けと帰り支度をしながら京極君が聞く。
「…うーん…今日はハンバーグな気分かな。」何の気なしにそう呟くと、
「じゃ、行きますか。」と言って京極君は立ち上がる。結局自宅アパートを通りすぎて、バス停近くの洋食屋に行くことになる。
「…じゃ、僕んちこっちなんで。」食後に、洋食屋の前で別れて帰宅してからふと疑問がわく。私のアパートから洋食屋までの方角と距離を考えて、洋食屋から京極君の帰る方角が、どう考えても違和感がある。うちのアパートを経由するよりも、研究室から反対の海岸沿いで歩いたほうが近道な気がするのだ。
『……何でいつも遠回りしてるんだろう。』
相変わらず、よくわからない。
「おはようございますー。橘先輩今日はワンピースじゃ、ないんですかー?」いつものように出勤すると、女子学生二人が来るところとかち合った。
「えー。……仕事の時はスカート穿かないよ。邪魔だし、汚れるでしょ。」まぁ、当然の話だが。女子二人は、何やらひそひそと耳うちしながらこちらをチラ見している。
「……?何かあった?」言いたいことははっきりと言って欲しいものだ。
「あのー……つかぬことを…お伺いしますが…」急に口調が改まって、何故か寒気がした。
「……何。」
「…京極と……お付き合いしてるって噂、本当ですか?」女子学生はやはり『コイバナ』が大好物らしい。私は軽くのけ反って衝撃をこらえる。軽く頭痛がしてきた。
「……どうしてそんな噂が出てくるかな。」
「えー。だって京極急に研究室に移ったし、最近一緒に帰ってるし。……違いました?」
「…いや、研究室に移ったのは、京極君が院生希望しているからだし。」
「えぇ?どおりで京極全然就活してないと思ったー。知らなかったですー。」どうやら学生達にも周知していなかったらしい。
『でも、黙ってて下さいとか、口止めされてないし。』秘密を暴露してしまったが、誤解を解くためには仕方がないだろう。ますます京極君の謎が増えてしまった。
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