第13話 前兆

ホワイトボードに貼り付けられた記事の新しいものは、日付が1月下旬。場所は沼津港横の砂浜で、ラブカの時とほぼ同じようだ。写真の解像度は余りよろしくはないが、それでも特徴的な形と大きさはよく分かる。記事の内容としては、『傷口』には一切ふれずに、むしろ『珍しい深海魚』の『サケガシラ』が上がってきたことから『東南海地震』の可能性についてコメントして終わりになっている。『深海で地震の前兆現象として地殻変動が起き、その時発生する微弱な“電磁波”とやらを深海魚がキャッチして云々………』という定番のあれやこれやである。発見したのは犬の散歩の中学生、持っていた携帯電話で写真を撮ったらしい。他の大人が中学生に呼ばれて現場に着いたときには、トビに喰い荒らされて跡形もなかったそうだ。サケガシラ自体もそれほど厚みのある魚ではないので、保全しようもなかっただろう。

「気づいてなかっただけで、実は結構前にもあったんですね。」今はもう6月上旬だ。約半年のあいだ、ひっそりと『謎の傷』のある魚があちこちに上がっていたのかもしれない。

「……実は昨日の夜、今度の学会会場になる東南水産大学の同期から打ち合わせの連絡があって、話のついでに『謎の傷』の話になったんだが…」田邊教授も日本全国に同期生同士横のつながりがあるタイプのようだ。私もそうだが、各大学持ち回りで行われる水産学会は、あちこちに散らばった同級生の同窓会を兼ねている態になってもいる。お互いに近況を伝え合うだけではない、研究に関しても、大切な情報収集の場でもあるのだ。

「…そこで、『そういえば去年うちの大学にも、そんな感じの傷口のある鮫が持ち込まれたような…』っていう話が出たんだよ。」

「……『去年』ですか。」今度の水産学会の会場になる東南水産大学は、関東地方の房総半島にある大学だ。つまり、うちの研究室のある駿河湾よりも『北』にあるのだ。

「そうなんだよ。また、詳しくいろいろ当たってみてもいいかも知れないね。」田邊教授も忙しい。もちろん同級生ならばやはりそれなりに多忙だろう。それ以上の詳しい話は出来なかったようで、例の『傷』の話はそこで途切れた。

『なんで“南下”してるんだろう……』日本の太平洋側には、南から北に流れる『黒潮』と呼ばれる強い海流がある。遊泳力の弱い“稚魚”や“卵”が海流に流されて『北上』するのはよくある話だ。珊瑚礁の海の生き物が東京湾内で見つかったりするのもその為だ。まぁ、もちろん例外もあるし、ある程度遊泳力のある海生哺乳類や鮫、マグロカツオなどの大型魚類に関しては当てはまらない。海流は海の表層を流れるので、深海魚にも当てはまらないとも言えるだろう。やはり結局何が起きているかはまだまだデータ不足ということだろう。考え込みながらも、私自身も自分の論文のほうが大切だ。教授室を退出して、自分の研究室に戻る。

「……あ、お疲れっす。」そういえばそうだった。今日からは私だけの研究室ではないのを失念するところだった。餌やりの時に着ている作業服の下は、どうせ見えないからといって、そろそろ暑いのでキャミソール一枚だ。いつもの癖でつい、“ガバッ”と作業服を脱ぎ捨てそうになって、かろうじて踏みとどまる。

「……あ、お疲れ。……進んでる?」

「はい。何とか。後でまたチェックお願いしまーす。」マウスを操作したせいで一瞬で消えてしまったが、京極君のパソコンのスクリーンセーバーは、『水着のお姉さん』らしい。

『ま、一応オトコノコだもんねー。』ちょっと微笑ましく思いながら、今朝の“戦利品”を仕分けして、ゴミは捨て、拾った海藻は標本用の箱に入れておく。自分の研究のためだ。

パソコンを立ち上げ、メールチェックをすませてから、撮り貯めた論文用の写真を吟味して、使用に耐えうるものと、それ以外というカテゴリーでファイルを分けていく。小一時間ほど黙々とそれぞれの作業を続けて、集中が途切れてきたので、私は伸びをしながら椅子を回転させて、そのままキャスターで椅子ごと京極君の横に移動する。

「…どう?チェックするとこまで行った?」

少々勢い余って体当たりしてしまったが、キーボードの打ち込みはしていないのでセーフだろう。

「!!…ブハッ。…な、何するんすか。」私の髪が慣性の法則で京極君の頭にかかったらしい。以外と繊細な手つきで髪の毛を払いのける。ついでにという感じで自分のうっとおしい前髪もかきあげるので、ちょうど手首にはめたままになっていた髪止めゴムで京極君の前髪を頭の上で結んでやる。

「!!?何するんすかっ!?」今度は耳まで真っ赤になって、椅子ごと勢いよく下がっていく。イカか、海老みたいで、ちょっと面白い。

「…だって邪魔そうだったから。」他意はない。京極君は真っ赤になった顔をハムスターみたいに擦りながらパソコンの前に戻ってきて、画面をスクロールさせて表紙まで戻した。

「…じゃあとりあえず今やった所まで、チェックお願いします。ナンバー張り付けたとこは写真を付ける予定です。」

「…ふーん。わかりました。」ちょうどさっきまで写真の選択をしていたので、まだ情報が頭に入っている。本文を読みながら訂正箇所に下線を入れて、写真は脳内補完しながら読み進める。京極君は髪留めをそのままにして、隣に座って神妙な顔をしている。

『前髪あげたら京極君だって充分“イケメン枠”に入るじゃん。…今度テレビ来たら案内やらしたろ。』等と企んでいるのはおくびにも出さず、一通りチェックを終了する。

「………いいんじゃない?下線のところは、誤字があるから、もう一度ちゃんと調べて直しておいて。」

「……了解っす。…橘さん、……今日晩飯どうしますか?」そういえばそろそろ閉館時刻だ。私はパソコンの電源を落として閉館作業の為に立ち上がる。

「……んー……別に何も考えてなかったなぁ。」帰りにスーパーでお弁当を適当に買って帰るのは、別に予定というほどのことでもないだろう。後ろで京極君もパソコンをシャットダウンしている。

「……………晩飯一緒に…どうすか。」何故か髪型はそのままにして、京極君が振り返る。

「?……別にいいけど。んじゃ片付けしたら学生室の前で待ってて。」閉館時間も迫っているので、私はそれだけ言って研究室を出た。

『!!!!〰️』閉まった扉の向こうで何か声ともいえない物音が聞こえた気がするが、とりあえず閉館作業に急いで向かうことにする。

『相変わらずいろいろ謎なコだなぁ。』まだ初対面から2ヶ月だ。わからないことのほうが多くて当たり前だろう。謎は多いほうが面白い。研究も、人間も。

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