第12話 日常
今日もいつものように海岸線を歩いて、戦利品をぶら下げて研究所に出勤する。
「おはようございます。」警備さんに挨拶して、研究室に上がる前に、学生室の隣にある飼育実験棟に立ち寄って、一番奥にある水槽の中を覗きこむ。
「……減ってきたなぁ。」水槽の中にいるのは、先週から継続して飼育観察中のカツオの稚魚だ。孵化してから約一週間、腹部についていた卵黄は既に吸収されて、体長は約1センチ弱になった。いろいろな文献を漁って、カツオの稚魚の口の大きさにあわせた餌を探しては投与するのを繰り返したが、やはり日毎に数を減らして、残っているのは約10匹程度になった。
「何で育たないんでしょうねー。」水槽の前でしゃがんで頬杖をついていると、背後から女子学生の二人が覗きこむ。
「……うーん……やっぱり餌が合わないからかな。今のところ、あと4日で国内最長記録を更新するんだけどね。」飼育環境下での完全養殖になるので、記録更新したら、田邊教授の名前で、論文発表になるだろう。
「へぇー。ギネス的な感じですかー?」
「…まぁ、そんな感じだねー。」立ち上がってから、網を水槽に入れて何とか一匹掬い上げてシャーレに取り出す。
「えー?死んじゃいますよー?」
「記録をとらないと論文書けないからね。後で京極君来たら研究室に来てって伝えてくれる?」私は急いでシャーレを持って三階に向かう。生きているうちに写真撮影と、観察をしなくては。死んでからでは、体表の色素などの分布が変化してしまうのだ。少しでも永く行き長らえるのと、生態の観察、記録することとは、お互いに矛盾した関係にある。水槽から出さなければ多少は長く生きるだろうが、出さなければ観察は出来ないのだ。
研究室に入って戦利品を椅子に放り出して、顕微鏡の電源をいれてシャーレをセットしてから手早くピントを調整する。何枚か角度や倍率を替えて撮影しているうちに、研究室の扉が開いた。
「おはやっす。お呼びですかー。」京極君がいつものボサボサヘアスタイルで、研究室に入ってきた。顔面が見れたのは、あの一瞬だけだったな、と内心思いながらも、誤解を受けるといけないので、『前髪上げればカッコよく見えるのに』何てことは、口にしない。
「これから計測するから、読み上げた数字を書き留めて。」
「……わかりました。……どうぞ。」記録用紙の用意を素早くすませて、ペンを持ってスタンバイする京極君に、マイクロプレートの定規をカツオにあてがって計測と読み上げを行う。
「………以上。あー。やっぱり死んじゃったねー。あと9匹か。」
「順調に一匹ずつ減らしても、一応最長記録ですけどね。」このまま平行して学会の用意もしなくては。最近は1日中京極君に手伝ってもらっている気がする。
「他に何かありますか?」記録用紙をファイルに綴じて、振り返った京極君が若干眠そうに見える。ふと思いついて研究室の冷蔵庫から買い置きのエナジードリンクを取り出して、京極君に手渡す。
「………何すか。」ちょっと冷やし過ぎたのか、受け取ってから何故かわたわたと左右の手でお手玉している。
「いや、手伝ってくれたから、お礼?」そういうと、何故か京極君は後ろを向いてしまった。
「……あざっす。もう、いいすか。」そろそろ餌やりの準備の時間帯だ。
「あ、いいよ。餌やり行こうか。」どうせ同じ作業に向かうのだから一緒に降りようとエレベーターに向かうと、何故か京極君はエレベーターに乗らずに階段で降りて行ってしまった。相変わらず時々謎な行動をする。
「何処行ってた?早く手伝って。」学生に混じって作業していると、後から京極君が入って来た。そのまま黙々と作業を続けている。
「?……まぁ、いいか。次こっちね。」手渡すときちんと文句もいわずに作業を続けてくれるので、どうやら別に不機嫌なわけではないようだ。そうこうしているうちに、餌やりの時間が迫ってきたので、作業をスピードアップさせて、なんとか時間内に完了することが出来た。
「じゃあ餌やり行くので、後片付けよろしくお願いします。」いつものようにクラゲ水槽の餌やりを行って、給餌トレイを片付けてから、研究室に戻ると、研究室の前で京極君が待っている。
「どうした?今日はもう顕微鏡の作業もないから、論文に取り掛かっていいよ。」学会発表まであと1ヶ月と少し。そろそろ本腰をいれてまとめに入らなくては。学会前に完成させて、教授の前で発表のリハーサルもする必要があるのだ。
「……それなんですけど、…これから大詰めに入ると、…た、橘さんに確認しないといけないことが、…沢山出てくると思うんで、…その、こっちの研究室でやったらマズイですかね?」よくみるとパソコンと資料もしっかり持って来ている。
「うーん……確かに毎回靴脱いで学生室行くのは正直面倒なんだよね。……私の一存じゃ決められないから、ちょっと教授室に行こうか。」そう言って教授室に京極君を連れて行く。
「失礼しまーす。」私はいつものようにノックだけして扉をあけたが、京極君は地味に礼儀正しい。まぁ、学生さんだから当然か。
「田邊教授、卒業論文ですが、そろそろ大詰めなので、京極君を学生室からこっちに連れて来て進めても良いですかね?」提案は京極君からだが、実際に毎回地味に面倒だと思っていたのは私のほうなので、そう田邊教授に声をかける。今日は田邊教授は教授室の休憩コーナーに置いたホワイトボードを眺めて何やら書き込みをしている。ホワイトボードには、先日からの『謎の傷口』関連の写真や新聞記事の切り抜き、さらに、何故か駿河湾内の地図が張り付けてある。
「……うん。まぁ、いいんじゃない?……京極君が希望するなら。」
「…?」私が言っていることと、何だか若干ニュアンスが違うような気がするが、まぁ、とりあえず許可されたということで、後ろにいる京極君に、部屋に行ってていいよ。と、伝えるために振り返る。
「……何してるの?」京極君は何故か、パソコンと資料を机の上に置いて、女子のように両手で顔面を覆い隠していた。そのまま勢いよく手のひらで顔面をごしごしこすっている。ちょっと痛そうだ。
「……ちょっと、大丈夫?」案の定擦りすぎて、顔面が真っ赤になってしまった。
「……大丈夫っす。じゃあ研究室お借りします。…先に行って始めてますんで。」下を向いたまま、早口にそれだけ言うと、京極君は教授室を出ていった。
「……?了解。よろしく。」不可解なリアクションは相変わらずなので、深く考えずに振り向くと、田邊教授はマグカップを持ったままで、なんだかニヤニヤしている。特に他に用事はないので私も退出しようとすると、
「あぁ、ちょっと待って。さっきファックスがとどいたから、ちょっと見て。」と引き留められた。ホワイトボードにはいつのまにか、こないだからさらに二枚、見覚えのない記事が追加になっている。
「……沼津ですね。あ、でもこないだのラブカのよりも前ですね。……もう一つは……伊豆海洋公園からのコピーですね。」
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