第9話 徊逅
夜があけたばかりの海の色は、まだ夜の名残を留めてとろりと暗い。いつも通るこの海岸は、砂浜だが、波打ち際から数メートルで水深が深くなる、いわゆる『ドン深』という海岸線だ。その為、あちこちに『危険!遊泳禁止』の立て看板がある。遠浅の海と違って、あまり波もないのだが、一見してもわからない、海岸線から1メートル程の所を、外洋に向かう物凄く速い海流が流れている。釣りをしてみればはっきりわかる。湾内から流れ出る形になるので、この海岸線には川からの漂着物らしきペットボトルなども打ち上げられる。
『帰りにまた拾って行こう。』海洋学者のはしくれとして、“マイクロプラスチック”による生物への影響を無視することは出来ない。
ふと、視線を上げると、少し先に立てられた遊泳禁止の看板の上にカモメが沢山止まっているのが目に入る。嫌な予感がする。
少し足を速めて近づくと、波打ち際にまだ身動ぎしている大きめな魚影が見えた。
『……やっぱり…』田邊教授の呟きは嫌なことほど現実になるような気がする。
とりあえず近くまで寄って、動画で動いている様子を撮影してから、電話だと、受精卵に振動を与えてしまう可能性があるのでメールで京極君に、実験室を少し離れても大丈夫かを確認する。ついでに画像を添付して、状況を知らせておくことにする。そうしている間に、波打ち際の魚影は断末魔の動きになり、二、三度大きめに痙攣して、動かなくなった。私はカモメを牽制しながらもう一度写真を撮り、田邊教授にもメールと画像を送っておく。
『今撮影をしたばかりなので、動けます。台車要りますか?』京極君から返信がきたので、内心でガッツポーズをする。
『魚体入れる箱と、大きめの台車でお願い。研究所の裏から遊泳禁止看板三枚目に居ます。』返信する間にも、魚影が動かなくなったのを見てカモメがジリジリ距離を詰めてくる。いつの間にか上空にも、海岸沿いの松の木にもトビが集まって来た。生きた人間が突つかれることはないと解っているが、やはり何となく冷や汗が出る。しばらくにらめっこをして、頑張っていると、遠くから台車を押すガラガラという音が近付いて来た。
『…やっと来たか……』待っている時間は長く感じられる。時計では、たかだか五分程度、連絡してから箱と台車を準備するには、かなり早い方だというのは解っているが、内心かなりジリジリしていた。近づく台車の音に、上空に旋回していたトビが残念そうに去って行く。カモメも諦めたように三々五々散って行くのが見てとれる。
「お待たせしましたー。……鳥ヤバいっすね。……っていうか、またですか。」ちゃんと箱の中に長靴まで用意してきている。早速二人とも長靴に履き替えて、波打ち際に入り、手分けして箱の中に魚体を運びいれる。
丸みを帯びた鼻先と深海生物に独特な大きな眼。ブルーグレーのなめらかな肌。
「……カグラザメ…かなぁ。」これもなかなかお目にかかれない珍しい鮫だ。とりあえず館内に運んで、落ち着いて撮影がしたい。受精卵の状態も気になるので、二人で黙々と水族館までの道を行く。シャワーは諦めた。汗臭いのは、確か研究室に買い置きのシーブリーズがあった筈なので、それでごまかすことにしよう。
『連絡有り難う。出来るだけ早めに出勤します。』水族館内に到着したところで田邊教授から返信があった。とりあえず魚を降ろして、台車を片付け、邪魔にならないスペースにブルーシートを敷いてから魚体を箱の中から出す。大きさがわかりやすいようにメジャーを隣に置いてから、背中側の撮影を開始する。撮影中も、交代で受精卵のほうを観察するのも怠れない。予想していた以上のハードな夜になった。汗だくで髪振り乱して研究に勤しむ。今思えば『彼氏がいた』のは、大学三年生の頃まで、四年になって、ゼミに入ってからは研究に打ち込むうちに、身なりに構うのを忘れて、『彼氏』は小綺麗な彼女を作って離れていった。吉邨の彼女も、『最近構ってくれない!』という愚痴を私宛にメールで散々送ってきたのがその頃だ。よほど器用でマメな奴じゃないと、研究職との恋愛は続かない。最近はそういうものだと諦めている。背中側の撮影を終えて、問題の腹側を撮影するために、京極君に手伝ってもらって魚体をひっくり返す。
「………うわぁ……グロいっすね。」思わず京極君すら口元を押さえるほど、腹側の状態は凄かった。この状態でむしろあれだけ動いていた深海鮫の生命力がむしろ尊敬に値する。まずははみ出した内臓の状態のままで撮影を開始して、ひとしきり全ての傷口周辺を押さえる。
「……箱持って行って正解でしたねコレ。普通に台車だけで運んだら、道々スプラッタですよ。」魚体を入れていた箱のなかにも、まだ、千切れた内臓の欠片や、血液がたまっている。京極君の表現に思わず笑ってしまいながら、傷口の周辺をきれいに拭くための雑巾を取りに給餌場へ行く。あれだけいろいろはみ出しているから雑巾の再利用は見込めないので、出来るだけボロいものをみつくろっていると、車のエンジン音が、近付いてきた。
時刻を確認すると、通常の出勤時間よりも一時間近く早い。どうやら本当に急いでくれたようだ。ぱたぱたと、教授にしては大きな足音を立てて館内に入って来る。私はみつくろった雑巾を抱えて教授に合流して、鮫を撮影しているスペースに案内する。
「二人ともお疲れ様。これ家内から差し入れのおにぎりな。落ち着いたら食べよう。」提げていた保冷バックをとりあえず隅に置いてから、教授は自分で持参したデジタル一眼レフを構える。二人で手分けして腹側を慎重にきれいにして、角度をいろいろと替えて撮影する。やはり今回の傷にも、なぞの螺旋が刻み込まれている。肉眼でははっきりとどの傷にも同じ跡があるのがみてとれるが、写真にはなかなか上手く写らない。光の当てかたなんかをいろいろ工夫して、なんとか『眼で見ているもの』に近い写真が撮れた。そうしている間にも、当然受精卵のほうも撮影して、上がったり下りたりしているうちに、通常の出勤時間になり、学生も職員もパラパラと集まり始める。
「……あとは、任せようか。」田邊教授の一声で、見守っていた鈴代さんや、米原さんが学生に指示を出して、標本処理の準備が始まる。私達は保冷バックを持って三階に戻り、血液と内臓にまみれた手を洗い、ついでに顔も洗って眠気と疲労を振り払う。研究室にそっと入ってモニターを確認すると、一晩でかなり魚らしき形に変化している。『二兎を追うものは一兎も得ず』といわれるが、今日はかなり頑張った。まぁ、最初から二兎を追っていた訳ではないが。
「さてと、まずは腹ごしらえをしようか。」どうやら教授室で、インスタントの味噌汁まで作ってくれたらしい。お椀はないのでマグカップだが、味噌汁の香りに思わずお腹が鳴る。グロいものを見た後でも、お腹は空くのだ。そこで、食欲を無くすような人間は正直研究者には向いていないと思う。
「いただきます。」もちろん教授も京極君もきちんと切り替えるタイプなので、黙々とおにぎりを頬張って味噌汁を流し込んだ。
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