第8話 狭間
研究室の扉をそっと開けて、中を覗くと、田邊教授は腕組みしながらモニターとにらめっこの状態だった。
「教授、有り難うございました。コーヒー入ったので、一息入れましょう。」晩御飯を買ったが、まずは差し入れから頂くことにして、三人でプリンを味わうことにする。田邊教授も甘党なので、予想通りに箱の中にはプリンが三人分入っている。セッティングに非常に神経を使ったので、身体に甘味が染み渡る気がする。
「……はぁー。美味しいですねー。ここのプリン。僕カラメル甘すぎるの苦手なんで、このくらいが丁度いいです。」京極君もしみじみ噛みしめて味わっている。
「さっきの撮影のデータ見せてくれる?」正確な卵割の時間を推定するために、スタート時刻をはっきりさせておきたい。
「あ、はい。これですね。」急な産卵行動のため、撮影は結局スマホにならざるを得なかったが、運のいいことに、京極君のスマホは映像に特化したタイプだ。かなりよく撮れている。それによると、現在は受精から約1時間半という感じになる。
「あぁ、そういえば、さっき丁度一時間くらいかなー、と思って一枚写真撮影しといたから。」
「そうでしたか。有り難うございました。」やはり優秀な教官はすることにソツがない。
「じゃあ私は帰るから。あとは若いもん二人で頑張って下さい。何か困ったことがあったら連絡して構わない から。交代できちんと休むようにね。」田邊教授は静かに帰って行った。
「一時間で撮影してあるなら、先に晩御飯にしようか。」念のためモニターには背を向けないようにして、京極君チョイスのコンビニ弁当を食べ始める。
「……ん。以外と美味しいじゃない。いいねコレ。」
「お気に召したみたいでよかったっす。」こう見えて以外と和食派なので、野菜多めがうれしい。京極君は自分の分は、唐揚げががっつり乗っている唐揚げ丼のようだ。丼なので、がつがつ掻き込むかと思いきや、以外にきちんとした箸使いで几帳面に食べている。
「……そういえば、橘さんって彼氏いたこと有るんですか?」不意打ちの質問に、危なく飲み物を吹き出す所だった。何より今はシャーレに振動を与えられない状況なので、何とかこらえて目を白黒させて飲み込む。
「………なんで急にそんな話題振るかな。」
わりといつでもマイペースで、同じゼミの学生達とも、ましてや二人いるキャピキャピ女子学生とも話しで盛り上がっているところをついぞ見た覚えもないが、一体どういう風のふきまわしだろうか。
「いや……今ゼミで一番ホットな話題が
橘さんの恋愛事情なんで。」他人の話題でホットに盛り上がってくれなくて結構。頭を抱えていると、
「皆いろいろ言ってますよー。バイとかユリとか。」真顔に見えるがもしかしたら冗談なんだろうか。
「………ゲイはさすがにないわけね。」
「いや、皆性別は知ってますからね。」実習で水槽にダイビングすることもあって、皆で水着になったこともあるはずだから、それでも野郎だと思われたらそれはかなりショックだ。そんなことは置いておいて、一体どうしてその話題がホットなのか、理由を教えて欲しい。
「どうしてその話題になったのか教えて。」
「いやぁ、こないだテレビ局のアナウンサーさんが、結構マジだったよね。って言う話ですよ。」またそれか。
「その後も結構学生達もお客様に捕まって、橘さんの情報を根掘り葉掘りされることが多くて……」今年の学生はまだ、自宅に招いて飲み会なんかを開催していないのが、どうやら個人情報の流出を防いでくれたらしい。下手したら、自宅がバレて大変な事になったかもしれなかったのだ。忙しくしていたせいもあるが、命拾いしたようだ。
「…ふぅ。ちゃんと彼氏居たことくらいあるからね。誤解の無いように伝えておいて。」
「…………いたこと有るんですか?」箸を取り落とすなんて、失礼なリアクションをしてくれる。何なんですかね。まったく。
「…あの、もしかして吉邨先輩とか?」
「それはないわ。あいつの彼女知ってるし。」同期の吉邨は何を隠そう私の高校時代の友人と長いこと付き合っていたのだ。今は続いているかまでは知らないが、多分駄目になったら報告があるだろう。何にせよあくまでプライベートだ。ここで、京極君に話したことはすぐさま学生全員に知れ渡ることは自明の理だろう。なんとなくモニターを見ると、先ほどまでつるんとしていた卵黄が一つ、質感が変わり始めている。
「あ、始まるよ卵割。写真撮影用意して。」食べ終わった弁当のゴミをそっと片付けて、撮影の準備に入る。この、最初の卵割が始まれば後は規則的に立て続けに反応が進んでいく。しょうもないプライベートな話題を口にしているような、だらけた雰囲気は吹き飛び、研究室を緊張感が支配する。失敗は許されない。次回のカツオの産卵行動が必ずあるとは限らないのだから。あとはひたすら観察とスケッチ、撮影を繰り返して学会発表の為に論文のデータを形にしていくだけだ。
交代で仮眠も取りながらひたすら受精卵にかじりついているうちに、うっすらと東の空が明るくなってくる。ここまでくると細胞一つ一つの大きさが小さくなり、傍目にも脊索が存在感を主張するようになり、卵発生もまもなく完了する頃合いだ。
「……シャワーお先でした。」そっと扉をあけて、タオルを首に掛けたままの京極君が入ってくる。うちの水族館は大水槽の水中餌やりが土日に組み込まれているので、三階のエレベーター近くにダイビング用の機材置き場とシャワー室がある。私も、事前に泊まり込みを予定していればそこで遠慮なくシャワーを浴びるのだが、今日はさすがに急な泊まり込みなので、何の支度もしてきていない。男性陣はシャワー室の脱衣場に着替えと替えの下着なんかを数着置いているらしいが、さすがに鍵も掛からない脱衣場に女性の下着は置きたくないので、私は後で交代してから一旦帰宅するつもりだった。
「……誰?」普段のボサボサ頭を見慣れているせいか、濡れた髪を後ろに流しているので、京極君が別人に見える。以外に整った醤油顔だというのに、今始めて気がついた。
「……ひどいっすね。よく言われますけど。」髪型を何とかすればと言いかけて、そういえば自分もしばらく美容室にも行っていないことを思い出す。
京極君の身支度が済むのを待って、卵発生も大分落ち着いてきたので、私は夜明けの浜辺を歩いて帰宅の途についた。
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