第7話 日常
今日も何事もなく1日が終わった。もちろん来館者にツーショットをお願いされたり、アドレス交換を持ちかけられて、やんわりとお断りするのに四苦八苦したりの程度のアクシデントはあったが、テレビのおかげで深海生物の標本の部屋も賑わいをみせて、受付のお姉さまがたも楽しそうだ。来館者あっての水族館という、原点をしみじみ思い出す。
「…あー。ここにいたのか。橘君、ちょっと急いで大水槽まで来てって鈴代さんが。」事務担当の職員の竹嶋さんが、キョロキョロしながら内線電話を持って小走りにやってきた。小動物っぽい見た目のかわいい系女子だ。
「わかりました。大水槽ですね。今行きます。」
「あ、京極くんも一緒に来てって。」閉館作業を終えて丁度帰りがけの学生達の中に混ざっていた京極君にも、竹嶋さんは声を掛ける。ということは、
「……あ、ついにカツオが産卵行動始めたんですかね。」思わず期待して二人とも小走りに館内へ駆け込む。今回の学会発表の内容のうち、全く手が付けられなかったのが『カツオ』を始めとした“浮遊性産卵行動”を行う種類の卵発生の観察だ。何しろ産卵行動のタイミングの制御など、人為的に出来る筈もない。『運を天に任せる』しかないのだ。まぁ、たまたま現在大水槽にカツオの小さな群れを入れて展示してあるので、“そのうち”条件がそろうならばいつか見られる筈。という程度の期待値だった。
「あー。来た来た。さっきから、雌一匹を雄何匹かで追いかけ回してる所だよ。録画撮っておけば?」鈴代さんが指差しする先には、確かに身体の大きな雌らしき個体を追いかけるやや小柄な雄何匹かという、この魚種の定番の求愛行動の兆しが見てとれる。高速でジグザグに泳ぎ回る様子をしばらく見守っていると、ついに耐えきれずに雌が、細かい白い粒の混じった煙のようなものを腹から吹き出す。追尾している雄がすかさず白いもやのような煙をそれに混ざるように、次々と放出していく。
「京極君動画よろしく!」水面すれすれでなんども繰り返す産卵行動に、私はおおいそぎで三階に上がり、作業室から柄のついたプランクトンネットを引き出して大水槽の上の足場に向かう。魚を刺激しないように、まずはバケツに水槽の水をそっと汲み、息をひそめて次の産卵行動を待つ。
『………今だ!』魚影が水面すれすれで勢いよく方向転換するタイミングで、白いもやが水中にひろがるのが見えた。素早くかつ、静かにプランクトンネットを差し入れ、すくったもやもやを即座にバケツに移す。タイミングを見ながら根気よく、なんども繰り返す。サンプルは多いほうが正確なデータにより一層近くなるので、出来るだけたくさんの受精卵が必要なのだ。
『あー。………ということは、今日はここから徹夜で観察かぁ………』受精卵の細胞分裂は受精の瞬間からノンストップだ。さすがに“秒刻み”とまではいかないだろうが、決定的瞬間を見逃す訳にはいかない。少なくとも他の魚種の受精卵と比較検討出来るだけの時間は、休みなしで経過観察をしなくてはならない。理系の研究なんて、誰もが多少は人間らしい生活を犠牲にして成り立っているものなのだ。とりあえず魚影が水面を掠める度に根気よく、プランクトンネットを差し入れる作業を続けるうちに、カツオの動きが変わってきた。どうやら今日はこの辺で打ち止めらしい。バケツのなかを覗くと、贔屓目に見てもまあまあの収穫のようにも思える。もちろん顕微鏡で確認してみないとはっきり断言出来ないが。まずは受精卵が酸欠にならないようにエアーポンプのチューブを差し込み、バケツの中の水を循環させておく。そうこうしているうちに、京極君が上がって来た。
「ばっちり画像は押さえました。受精卵採れました?」バケツの中の様子を伺いながら、その画面も写真に収めている。
「何とかいけた気がする。とりあえず私が先に観察始めておくから、京極君は泊まり込みの為の買い出し頼んでもいいかな?」バケツの中の水をシャーレに掬いとり、研究室の顕微鏡の横に置いてから、私は自分のロッカーから財布を取り出した。
「今日の晩御飯と飲み物、明日の朝御飯二人分ね。あと、エナジードリンク剤もよろしく。あ、甘いモノー……チョコレートとか。」運よく今日は財布の中に一万円札が入っていた。これでも一応研究員としてお給料をもらっているので、学生さんには格好つけさせて貰おう。
「……わかりました。じゃあ観察よろしくお願いします。」自分のポケットから財布を出して、万札をきちんとしまってから、京極君はコンビニへと向かってくれた。私も、さっそく顕微鏡の準備をして、シャーレごとセットしてから投影器の電源を入れる。顕微鏡のピントを合わせれば、いちいち接眼レンズを覗き込まなくても隣のモニターに拡大画像が投影される優れものだ。これが来るまでは徹夜して顕微鏡画像の観察というと、必ず誰もが腰痛を覚悟するほどだったから、技術の進歩には心底感謝する。しかも、この投影器、カメラに接続して撮影まで出来る。顕微鏡画面を覗き込みながらスケッチしていた学生時代を思い出すと、有難い気持ちになる。同期の吉邨なんかは、スケッチに関しての才能がゼロというよりもマイナスで、『何の魚のスケッチも必ずニボシに見える』という特殊能力の持ち主だったから、この機械の導入のきっかけになったといっても過言ではないだろう。とりあえずピントを合わせた後に、細い顕微鏡用の針で、シャーレをかき混ぜて受精卵の状態の良いものを探してみる。
『………うーん。』とりあえず活きの良さそうな受精卵を2、3個集めて、慎重にピントのあっている場所に移動させ、傷をつけないようにしながらいろいろ向きを調整しておく。一見つるんとした卵黄の表面にも、なれてくると発生のコアになる部分があるのが見えてくる。そこをカメラでうまく捉えて撮影するのだ。何とか全ての準備を終えて、顕微鏡の前からそっと離れて息をつく。ここでうっかりシャーレや顕微鏡、机に当たれば、今までのセッティングが台無しになるのだ。
少し離れた所に椅子を移動させて、観察を開始する。
『今までのパターンからすると、最初の卵割まで……まだ一時間はあるかな。』受精した胚が細胞分裂を繰り返して稚魚の形になるまでの時間を魚種毎に比較するのが今回の論文の主目的だ。もちろんあくまで飼育環境下での観察なので、参考値に過ぎないが、“この魚種は受精から何時間でこの状態”というのがはっきり判れば、外洋でプランクトンネットに採集された魚卵の発生具合から主産卵域の推定に役に立つ。まだ研究の端緒にもかかっていないが、謎の多い魚類の生態解明に水族館として役に立てればいいと思っている。
画面をぼーっと眺めながらそんな事を考えていると、ヒタヒタと潜めた足音がして、研究室の扉が開いた。
「……お疲れ様ー。どんな感じ?」当の昔に帰ったと思っていた田邊教授が顔を覗かせる。しかもどうやら差し入れを買ってきてくれたらしい。手には近所で有名なケーキ屋の紙袋が下がっている。
「…あ、ありがとうございます。」そっと立ち上がり、教授の分の椅子を用意する。まだ初夏というには早い季節なので、すこし暖かい飲み物も欲しくなる。箱の中身が何かはわからないが、洋菓子にジュースは何だか合わない気がする。
「すみません、ちょっと画面観ておいてもらっていいですか?向こうでコーヒー淹れて来ます。」
「あぁ、わかった。ついでにスプーンも持って来て。プリン買って来たからね。」
部屋を出て教授室のほうでコーヒーメーカーをセットして、待ち時間にふと思い付いて研究室入り口に貼る貼り紙を準備する。
『実験中につき、入室注意!』何をしているかわかっている田邊教授はもちろん注意してそっと入ってきてくれるが、職員や学生の中にはそうしたことに疎いものも当然いるので、注意喚起は必然性が高い。太いマジックで描いて、赤線を目立つように引く。描き終えたタイミングで丁度コーヒーが入り、エレベーターの開く音がした。どうやら京極君も戻って来たようだ。トレイにマグカップとスプーンとコーヒーをのせて、教授室から研究室に移動する。京極君もわかっているので、無駄な振動を与えないようにヒタヒタと歩いてくる。
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