第6話 日常
「おはようございます。」いつものようにビーチコーミングがてら海岸線を歩いて研究所に到着し、守衛さんに挨拶をして名簿に名前を書いていると、
「こないだのテレビ観たよ。イケメンさん。」名札を手渡ししてくれながら守衛さんにまでニヤニヤされてしまう。例のテレビ放送があってから、すでに二週間が経過しているのだが、今だに来館者から『一緒に写真をお願いしまーす』というのが跡を経たない。そしてそのうち誰にも性別に関しての不審を抱かれないというのも、慣れっこでは有るものの若干納得がいかない。いっそのこと性転換するかと思うが、魚のように簡単にはいかないのが、人間の難しさだ。ちなみに魚の世界では、性転換はごくごく一般的なありふれた現象で、広い海の中、同種の魚が偶然出くわして、性別の一致のせいで繁殖の機会を逃さないために雌雄同体だったり、体が小さいうちは雄、成長すると雌というようなさまざまな戦略を持っているのが当たり前だ。かの有名な海外アニメーションの主人公であるカクレクマノミも、その典型的な種類で、子供の頃は雄、群れの中で最も体が大きな個体が雌として産卵する習性を持っている。つまりアニメーションのなかで、『ニモ』と『お父さん』がでてくるが、『お父さん』は実は今の『お母さん』がいなくなったらつぎの『お母さん』になる…………というなんとも感情移入の難しい感じの展開になるということでもある。まぁ、話はそれたが、要は『テレビ』出演のせいで、実在しないイケメン研究員『ハジメ君』が、『モテモテ』になってしまったということである。おかげさまで、入館者数も激増して、田邊教授の作戦は大当たり、次回の企画展のための予算請求がスムーズに通りそうだという副産物付きだ。結局放送されたのは、三パターン撮ったうちの一番目だったから、残念ながらクラゲ達には何にもメリットはなかった。むしろ餌やりのタイミングで件の『写真撮って』に来襲されて、無駄に時間をとられるようにすらなってしまった。
『ついに守衛さんにまで………』エレベーターに乗って三階の研究室に向かいながらもため息をついてしまう。
「………おぅ。おはよう」自室で作業服に着替えて、ふと思い立ってこの間雑貨屋で購入したバレッタタイプの髪止めを使って、髪を留めてみた。よく女子がまとめ髪に使っている奴だ。そのまま教授室に入ると、中にいた鈴代さんと、田邊教授がいつもよりも長めの沈黙からの挨拶を返す。視線を後頭部に感じるので、やはりこれは使わないほうが良さそうだ。
「……橘、この記事見てみ?」鈴代さんが朝一番に教授室に居るのは珍しいが、どうやら理由があるらしい。新聞の地方欄がテーブルの上に広げられている。
「…何ですか?」田邊教授が指差した先には、沼津の漁港横の砂浜に打ち上げられた『ラブカ』らしき写真が見てとれる。記事を読むと、
『生きた化石深海鮫『ラブカ』打ち上げられる』という見出しで、早朝出港のために港に来た漁師が何かに追われるような勢いで砂浜に向かって泳いできたラブカに遭遇したとある。漁師が遭遇したときにはまだ、弱ってはいるものの生きており、砂浜に上がってみるみるうちに動かなくなったらしい。記事に掲載された写真はピントが若干甘いものの、確かにラブカで、背中側と腹側とで各一枚撮影されていた。
「……あ。教授、この傷口……」新聞記事のため、実際のラブカの体長などは載っていないため、推測の域をでないが、通常サイズの個体と推定してみても、先日のオンデンザメの傷口と酷似しているように見える。
「そうだね。あくまでも推測でしかないが、同じ傷口に見えるね。」
「これ、標本は?」
「上がったのが沼津港だからね。伊豆の遠水研が引き取ったらしい。」あちらも一応深海生物の研究室があるはずだから、多分標本はきちんと保全されているだろう。気にはなったが、オンデンザメのほうは死骸を埋葬して標本にはしていないため、資料の比較検討は不可能に近い。写真だけでは限界がある。教授は記事を切り抜いて、ホワイトボードにクリップすることにしたらしい。『要追跡調査』ということである。関連している記事やを見つけたら各自貼り付けるように。ということだ。確かに視たことのない傷口をつける生物には興味がそそられる。好奇心こそが研究の原動力だ。
「…一体どんな生き物が喰らいついた跡なんでしょうね。」ほぼ真円に近い咬み跡を付けるには、どんな構造の顎なのか、それすら全く想像がつかない上に、この記事の写真でも明らかに内側につけられた『螺旋状』の痕跡がみてとれる。図鑑をパラパラ捲ってみても、オンデンザメ、ラブカクラスの比較的大型の生物を襲撃するような生態の生き物は見当たらなかった。
「…運が良ければまた見つかるかもしれんね。」田邊教授の呟きが、妙に耳に残った。
給餌室に降りて毎日のルーティンである、餌やりの準備を始める。まな板を出したり包丁の準備をしたりしている間に、三々五々学生達も集まり始めた。
「……橘さん。あのー。」しばらく作業しているうちに、京極君が何やら言いにくそうにしながら話し掛けてくる。
「…?何か?」いつもよりも何故か距離が近い。
「…あのー。言いづらいんですけど、餌やりするときその、髪留め……外したほうが…」学生は皆当然私の性別を知っているはずだから、すっかり失念していた。
「……そうだよね。お客様には『イケメン』でいかないとね。……サンキュ。」忘れる前にと、手を洗って水気を手拭いで拭いてからバレッタを外す。別にこうした『可愛い』雑貨は決して嫌いな訳ではないが、似合わないものは仕方ない。作業服のポケットにバレッタをしまって、無難なシリコンゴムの黒の髪止めに交換する。
「さて、餌やりに行くとするか。」まるで見ていたかのようなタイミングで鈴代さんと、米原さんも給餌トレイを取りに入ってくる。
今日もいつものように日常が始まる。
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