第3話ルーティンワーク
「橘さんー。すんません、そこのまな板取ってくださいー。」給餌場には、学生達の話声が響き渡っている。いつもならば10時前後からゆっくり駄弁りながら餌の支度を始めて、餌の大きさの大きな順に給餌トレイに切り分けて、餌やりショーの始まる13時前後にはひとしきり終わっているところだが、今日はオンデンザメのせいで作業がかなり押している。とりあえずお客様が待っている水槽の餌を何とか時間に間に合うように手分けして支度し、段取りしていると、背後から学生が声を掛けてきた。
「あー。これまだ洗ってないからこっち使って。」一回り大きなまな板を取り出して学生に渡す。学生が切り身を細かくしている間に私が素早く鯵を三枚におろして、どんどん片付けていく。ベルトコンベアのように、私が切り身にした鯵を、それぞれの魚の口の大きさに合わせて学生達が切り分けて盛り付けてを繰返して、ひたすら発泡スチロールのトロ箱に山になっている鯵やイワシを捌いていき、なんとか遅れを取り戻した。
「あとはプランクトン食の奴だけだね。」生ゴミをバケツに放り込みながら、流しに山になった包丁とまな板を洗い、手拭いで手をふいてから無造作に束ねた髪の輪ゴムを外した。おしゃれで伸ばしたのではなく、ただ単に切りに行く時間が惜しくて伸びてしまった『無精の長髪』は、こうしたバタバタした作業のときにはやはり少し邪魔に感じる。
「これお願いしますー。」ビーカーに並々入れられた『ブラインシュリンプ』というオレンジ色をした液体に、アサリの剥き身をミンチになるまで叩いたものを混ぜ、給餌用の大きなスポイトを差し込んで、すべての餌が完成する。一息ついたところで、館内放送が大水槽の餌やり開始のアナウンスをはじめるのが聴こえてきた。
「はいお疲れー。なんとか間に合ったじゃん。よかったよかった。優秀だなぁ。」
大水槽担当の飼育員鈴村さんが、給餌トレイを取りに降りてきた。いつものことだが、餌やり用の分厚いゴム手袋のままで、人の頭をぽんぽんするのはやめてほしい。こういう時にはやはりもう少し身長が欲しかったと思う。少なくともあと10㌢あれば、『オンナノコ』扱いもされずに済むだろうに。
「おぅ。“ハジメちゃん”、お疲れ様だね。今朝は大変だったらしいな。」一階の円柱水槽の担当をしている日置さんが、給餌トレイを受け取りがてら声を掛けて行く。その呼び方は別に嫌いではないが、新しい学生が入るたびに説明するのが若干面倒くさい。もちろん本名ではない。一応説明しておくと、私の名前は、『橘朔』という。読み方は、“タチバナ”、“サク”だ。名字が橘、名前が朔、フルネームで漢字二文字の、じつに『覚えやすい』名前なのだ。米原さんの呼んでいた“ハジメちゃん”というのは、私の名前の『朔』のべつの読み方が、『ツイタチ』と『ハジメ』だからという理由で、ただでさえ性別不詳な名前がさらに拍車を掛けてどっちか判らなくなるという付与効果を持っている。まぁ、水族館の研究生に性別は無関係だから、どっちで呼んでもらっても構わないと、放置している。
ちなみに遺伝上の性別は一応女性となっている。そんなことはおいといて、私にも餌やりの担当生物がある。先ほど支度したブラインシュリンプを持って、後片付けを学生達にまかせて館内へ向かう。
「お待たせしましたー。只今よりクラゲの餌やりを開始します。」二階にある円柱水槽には、現在各種のクラゲが展示されている。入り口から近い順に『ミズクラゲ』『アンドンクラゲ』『タコクラゲ』『アカクラゲ』、一番奥に『カツオノエボシ』となっている。
円柱型の水槽には、上部にスライドさせる扉があり、そこからスポイトを差し込んでビーカーの中身を水槽内に注ぎ入れていく。
「ねー。オニーサン、そのオレンジ色の汁、何が入ってるの?」化粧っけのないやせぎす体型のせいか、実際初見で性別を当てられることはほとんどない。作業服の裾をつんつんしながら観客の小学生らしき児童が質問してくる。
「うん、これはね、『ブラインシュリンプ』っていう、すごーく小さなエビの仲間だねぇ。水槽の中をよーく見てごらん?判るかな?」実際じーっと観察していると、オレンジ色の非常に細かい粒が集まっているのが見えてくる。
「………ホントだ。何かいっぱい集まってるんだ。これが『ブラインシュリンプ』?結構……気持ち悪い」そうきましたか。子供は正直。苦笑いをしながら『飼育員』らしく解説をしなくては。
「うん、これはね、クラゲさん達が元気でいるための栄養が、たっぷり入った栄養ドリンクみたいなものなんだよ。ほら、クラゲさんの傘の中がオレンジ色になってきただろう?」一番手前のミズクラゲはほとんど無色透明だから、ブラインシュリンプが傘に取り込まれてオレンジ色がはっきりわかるため、こうした解説に向いている。
「わぁー。本当にオレンジになってきた。」先ほど水槽の中をじーっと見ていたせいでガラス面にオデコの跡が付いてしまったが、子供達の好奇心には代えられない。黙殺して次々にクラゲ達に餌をやって行く。
最後の『カツオノエボシ』はビーカーの底のほうに沈んだアサリのミンチをスポイトで吸い込んで、傘の下に長く伸びている触手に上手く絡まるように工夫して吹き付ける。こうすることで、カツオノエボシの触手が餌を取るときの動きを観客に見てもらうのだ。海中で営まれるこのような生き物の生態を知ってもらうのが、水族館の役割でもある。
最後にビーカーに残った液体を全て部屋の奥にある珊瑚の水槽に流し入れて、スポイトで撹拌する。
「こちらは南の暖かい海に棲む珊瑚です。今伸びてきたイソギンチャクの触手みたいなモノも、珊瑚の一部で『ポリプ』といい、これを使って餌を捕ります。」すべての水槽の餌やりを終えて、集まっていた観客に向かって一礼して、『餌やりショー』の時間は終了しました。拍手をしてくれているのは先ほど質問してくれた児童達だ。
空になったビーカーを持ってバックヤードに戻ると、既に片付けを終えて学生達は外のプレハブに戻って昼食を取っている。私もビーカーを片付けて三階の研究室に戻ることにしよう。今日の昼食は珍しく、昨日気まぐれに自炊したオカズの残りを白米に乗せて『丼』にしたものを持って来ているのだ。自炊といっても、適当に切った肉と野菜を適当な調味料で炒めただけなので、特にメニューに“名前”はない。餌やりのおかげで包丁さばきは上手くなったが、それと料理の腕は関係がない。まぁ、市販のタレで炒めたのだから、決して味は悪くない。とりあえず作業服を脱いで、弁当箱を持ち、隣の教授のいる研究室に移動する。こちらは電気ポットがあるので、コーヒーやインスタント味噌汁なんかを飲むのに重宝する。テレビも一応設置されていて、職員の休憩室にもなっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます