第3話 中途半端な犯罪者

 そんな日々がかれこれ五年ほど過ぎ去った、ある日のことだ。


 六月半ば。梅雨真っ盛り。気怠い視線を窓の方へと動かす。細糸みたいな雨が、世界の空白を埋め尽くすかのように降りしきる。ざぁざぁ、というノイズみたいな雨音が、静寂の奥底で潜むように鳴っていた。


 授業が終わってから、かれこれ五分以上が経っている。頭のハゲかかった先生は、まだ教壇上に居座ったままだった。たらー、たらー、と。やる気の一切感じられない緩慢な手付きで、黒板を消している。


 生徒たちも似たようなものだった。皆、椅子から立ち上がるのが億劫だと言わんばかりに、ぐでーっと机の上に突っ伏していらっしゃる。私も同じだった。精神の適応の影響だ。


 寄生虫をその身に宿らせた人間は皆、多かれ少なかれ人格が変化する。かつて、まだ人類に科学なんてものを発展させる気概があった頃、とある研究者はこの現象を適応と名付けた。


 虫に寄生された人間からは、気力や活力、意志や積極性といった生きる上でのエネルギー源のようなものが刻一刻と失われていく。科学者はこの変化を、自らの精神を長すぎる寿命に適応した形へ変容させているのだ、と説明付けた。


 これまでのスピードで八百年近い人生を駆け抜けていたら、途中で息切れして倒れてしまう。短距離走のスピードでは、フルマラソンを完走することは出来ないように。


 肉体に寿命があるのと同様、心にだって限界はある。人の精神は本来、何百年などという悠久の時間に耐えうるだけの強度を持っていないのだ。通常の生き方をしていれば、長すぎる生を送っているうちに心はすり減り、ひび割れ、摩耗していく。だからなるべくゆっくり生きて、ふわふわの綿あめのようにすかすかで、柔らかい精神へと変化させていく。そうすることで、心が完全に消失してしまうのを防止する。それがかつての人類が選んだ道であり、そして今、私達の歩んでいる道でもあった。


「よだれ、垂れてる」


 知らぬ間に、ちーちゃんが目の前に立っていた。


 いけないいけない、と袖で口元を拭おうとする。


「だから、染みになるって」


 ちーちゃんに手首を掴まれた。ポケットから取り出したティッシュで、私のお口をふきふきしてくれる。丸めたティッシュはきれいな放物線を描いて、ゴミ箱に吸い込まれていった。


「おー、お見事」


 私からの気の抜けた賞賛を、ちーちゃんはどこか冷めた顔つきで受け止める。


「……恥ずかしくないんだ?」


「え? 恥ずかしいって、何が?」


 ゆっくりと首を傾けると、ちーちゃんははぁ、とため息を漏らした。


 これ見よがしではないけれど、特段、隠そうともしていなかった。私はそんなの気にしないということを、とっくに見抜いているのだろう。


「いいから早く行こ。これ以上こんなとこにいたら、反吐が出そう」


 あんまりな物言いだったけど、教室の中の誰一人として不快そうな反応を示す者はいなかった。音声が文字情報に変換されていたかどうかさえ怪しい。誰もが皆、ただぼーっと上の空で虚空を見つめているだけだった。まるで、スリープ状態のロボットみたい。


 ちーちゃんが、右の手首をガシッと掴んでくる。私のことを引きずりながら、乱暴な足取りで教室を後にする。前を歩くちーちゃんのセミロングの髪の毛が、ゆらゆらと揺れる。しっとりとした落ち着きのある髪色は、今のちーちゃんにはよく似合っているような気がした。


 タンタンとリズムよく階段を登っていって、屋上の扉の前で静止する。立て掛けてあるギターの横に、ちーちゃんが腰を下ろした。私も、その隣によいしょと座る。


 しばし二人で、黙念と雨の音を聞いていた。


 こうして並んで座っていると、ちーちゃんとの身長の差を意識する。いつの間にか、追い抜かされてしまっていた。五年前は幼さが色濃く残っていたその顔も、今ではすっかりシュッとして、彫りも深まり、端正な大人の女性といった顔立ちになっていた。ついでに胸も成長している。結構でかくて、むむぅ、と唸る。


 対する私は五年前から、全くもって成長していなかった。一ミリくらいは伸びたりしたのかも知れないけれど、精々そのくらい。胸の方は言わずもがな。遅めの成長期を迎えたちーちゃんには、どう頑張っても太刀打ちできない。


 だって、私とちーちゃんは、別々の時間の中で生きているから。


 不適合者、と呼ばれる人達がいる。およそ十万人に一人程度の極めて低い割合で存在する彼らは、先天的な体質で肉体に寄生虫を宿すことが出来ない。体内に虫を植え付けても、何故かすぐに死滅してしまうのだとか。原因は不明。きっと、永久に解き明かされることはないだろう。好奇心を武器に未知へ立ち向かっていく科学者なんて、とうに絶滅してしまっている。


 厳正なる抽選の結果、ちーちゃんは十万人中の一人に選ばれた。


 不適合者であるちーちゃんは、私達のように長大な時間を生きていくことが出来ない。かつての人類と同じ速度で、僅か八十年ほどの人生を駆け足で走り抜けることしか出来ない。私とちーちゃんは同じ座標系の住人でありながら、時の流れを共有することが出来ない。同じ速度で歳を重ねることが出来ない。同じ濃度で一日を感じ取ることが出来ない。同じ歩幅で並んで歩んでいくことが、どう頑張っても、出来ない。


「私、学校やめることにした」


 唐突にちーちゃんが切り出した。ひどくあっさりとした語調だった。


「あ、そうなんだ」


 私の反応も淡白だった。やっとか、といった感じだったから。


 ちんたらと惰性で生き続ける私達とは打って変わって、ちーちゃんは一日一日を全力疾走で生きている。二十年も続く高校生活なんか、暇すぎて耐えられないのだろう。


「でも、止めてどうするの?」


「ロックやる。ミュージシャンになる」


 迷いなく答えるちーちゃん。決意は、とっくに決まっていたらしい。


「そっか。頑張ってね。……でもさ」


 正面の色褪せた壁面だけを捉えていたちーちゃんの両目が、チラ、とこちらに向けられる。


「ちーちゃん、一人で大丈夫?」


 私が小首を傾げると、ちーちゃんは微かに目を瞠った。


 でも、それも一瞬。ちーちゃんは素早く顔を伏せる。


 黒い絹糸みたいな髪がベールになって、表情が覆い隠された。


「……大丈夫に決まってるでしょ」


「でも、ちーちゃんは――」


「だから、大丈夫だって言ってるじゃん!」


 梅雨時の、じめじめとした淀んだ空気が、甲高い声で切り刻まれた。


「だって、一緒にいたところで今の私達には何の意味もないでしょ⁉ こうして隣に座ってたって、私達は別々の場所、別々の時間の中で生きてるんだから! 足並みなんか絶対に揃わないし、側にいたって虚しさが募るだけでしょ⁉ ……本当、皮肉な話だよね。私は身体だけが心を置き去りにするみたいに老けてって、アヤは肉体はちっとも変わらないのに心だけが時々刻々と適応していく。進んでる方向が、完全に真逆じゃない」


 堰を切ったように、感情的に早口で言い募るちーちゃん。


 フッ、と嘲るみたいな乾いた笑みをこぼした。どちらに向けられたものなのか、私にはわからなかった。


 ちーちゃんが突然、私の両腕をガシッと掴んできた。そのまま、冷たい床の上に強引に押し倒してくる。私は、ちょっとだけ面食らう。


「ちーちゃん? どうしたの、急に?」


「今から、アヤのこと犯すから」


 うおぅ。ものすごい宣言をされた。


 ちーちゃんの目は射抜くように鋭くて、冗談を言っている様子は微塵もなかった。ニヤリと口の端を大きく吊り上げながら、言葉を続ける。


「学校の中だけど別にいいよね? どうせあいつら、生徒が校内でセックスしたところで何とも思わないだろうし。私、常々思ってたんだ。ロックやるっていうんなら、セックスの一つや二つしとかなきゃって。別に相手は誰でもいいんだけど、折角だしアヤで処女捨ててあげる。初めてが女っていうのもアウトローっぽくていいし」


 馬乗りになったちーちゃんが、体重をかけて私の身体を固定する。獲物を前にした肉食獣のように舌なめずりする。粘ついた唾液で、桜色の唇が妖艶な光を纏う。けれど、広漠とした宇宙のように色濃い漆黒を湛えた双眸だけは、あの日、空き教室で出会ったときと全く同じ色合いをしているように思えてならなかった。


 悲しいくらいに、同質な黒色だった。


 ちーちゃんが、私の右胸を鷲掴みにしてくる。……いやまあ、掴めるほどのサイズがないので、正確には手のひらを押し付けただけなのだけど。


 ちーちゃんはそれだけでは飽き足らず、制服のシャツを強引に脱がしてくる。私の素肌やブラが、窓から差し込む灰色の光で照らされる。肋骨の辺りに右の手のひらを押し当ててくる。そのまま、ブラの中まで指先が這っていこうとしたところで――


「……ねえ。どうして、何も言わないの」


 ちーちゃんが、ポツリとこぼす。同時に、右手がピタリと止まった。指先にギュウと力を入れてくる。肋骨の隙間にめり込んで、痛かった。


 その声は、撚っていた繊維を解いた糸のように細くって、迷子になってうずくまる小さな子どもみたいに震えていた。私からの慈悲を乞うているかのようにも感じられた。


 これじゃ、どっちが襲っている側なのか、わからない。


「……何か言ってよ、アヤ。このままじゃ私、いつまで経ってもやめられないよ? アヤのこと、本当に犯しちゃうよ? 私なんかに初めて、奪われちゃうよ……?」


 ちーちゃんの整った容貌に、悲哀の色が表れてくる。湧き上がってくる感情を押し潰すかのように歪な笑みを浮かべながら、奥歯をきつく噛み締めているのがわかった。


「嫌でしょ、私なんかに抱かれるの。私なんかに触られるの。私なんかに、キスされるの。なのにアヤ、どうして嫌がってくれないの? どうして抵抗してくれないの? どうして、気持ち悪いって押し返してくれないの? 私のこと、ちゃんと拒絶してよ。否定してよ。ぶん殴って蹴り飛ばして血反吐出すまで踏みつけて、死ねこのレイプ魔って罵倒してよ。……ねえ。アヤは、なんで私に優しくするの? いつもいつもそうやって、無抵抗に受け入れることしかしてくれないの……?」


 ちーちゃんの顔が、泣き出す一歩手前みたいに歪められる。


 それきり、物乞いでもするかのように、憐憫を誘う表情で押し黙った。


 私は、言うべき言葉が見当たらない。いや、そもそも何か言おうとさえ思っていないのかも知れなかった。雨粒が屋上のコンクリートを打つ音だけが、やけにはっきりとした輪郭を伴って両の鼓膜を震わせてくる。冷たい音色だった。聞いているだけで、震えそう。


 私は徐に、右腕を持ち上げた。重力に逆らいながら、指を、ゆっくりとした速さでちーちゃんの頬に近づけていく。


 ちーちゃんが、ハッと目を見開いた。絶望的な面持ちをしていた。私の伸ばした手を強く払った。


 ゴンッ、という鈍い音。右手の甲が強く床に打ち付けられる。


「――もういい」


 私のことを突き放すかのような、明確な拒絶の言葉。逡巡も躊躇いも一切なかった。ちーちゃんは勢いよく立ち上がり、脇にあるギターケースを乱暴に背負って踵を返す。


「さよなら。……私はもう、アヤの隣にはいたくない」


 それだけ言うと、ちーちゃんは逃げるように階段を駆け下りていく。


 上体を起き上がらせて、去っていくその背中を目で追う。障害物に阻まれて、小さくなる暇もなく視界からちーちゃんが消え去る。


 踊り場に残されたのは、中途半端に犯されたまま捨てられた、二十歳の少女だけだった。

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