第2話 初めてのキスの味

 只今の西暦、三千年と百年ちょっと。


 地球が太陽の周囲を一回転するごとに、その数字は一つだけ増えていく。それに追随するかのように、地上の覇者たる人類も自分たちの平均寿命をきっちり上昇させていた。


 それはもう、千年前の人間が聞けばびっくり仰天。目玉が飛び出て、ひっくり返ってしまうであろうくらいには、長生きになっていた。


 でもそれは決して、地道な積み重ねの結果ではない。その変化はあまりにも劇的にして激的で、なによりも突拍子がなさすぎた。


 端的に言えば、降ってきたのだ。空から、長寿の妙薬というやつが。


 人類の寿命を飛躍的に向上させることになったのは、千年以上前に福島で発見された寄生虫。放射線で突然変異したその虫には、宿主の代謝のスピードを著しく遅らせる性質があったのだ。詳細は忘れたけれど、なんちゃらとか言う特殊な化学物質が排泄物に含まれていて、その影響だとかなんとか。


 寄生虫を体内に住まわせることにより、人類は肉体の老化速度を本来の十分の一まで抑制できる。要するに、時間の進みを遅らせているのだ。新たな寿命を付け足したと言うよりも、生まれ持った寿命を無理やり引っ張って伸ばした感じ。ここのコロニーでは中学卒業とともに、虫の植え付け手術を一斉に受けることになっていて、かくいう私もつい数ヶ月前に受けてきたばかりだった。


 中学までは、虫に体内でうんこされるとかやだなぁ、と。常日頃から適当にしか生きてない私も、流石に複雑な心持ちがしていた。


 でも、実際にやってしまえばこの通り。得体の知れない虫が糞尿垂れ流してようが、違和感や不快感などは微塵も覚えたりしなかった。まあ、そういうものなのだろう。


 発見当初は凄まじい騒ぎになって、虫の取り合いが核戦争にまで発展し、滅亡の一歩手前までいった人類だけど、どうにかそれを乗り越えた今は諍いや競争のない平和で安穏とした毎日を送っていた。


 私達に与えられるのは、昨日と変わらない今日であり、今日と変わらない明日でもあった。


 よりよい未来へ走り出すこともなければ、悪い未来へ突き進んでいくこともない。閉じた輪っかの上を辿るみたいに、何度も何度も同じところをぐるぐると周回しながら、余興のような月日を過ごす。


 積み重ねるものは何一つなく、それ故に安閑とした日々が流れる。


 刺激的ではないけれど、退屈なのは嫌いじゃない。だから私は今日も今日とて、何の変哲もない日常をのんびりと――


 ギュィーンッ! ビキュビキュギャーンッ!


「うわっ」


 初夏の弛緩した大気を切り裂くような、鮮烈な電子音が屋上に鳴り響く。高速で空気を震わすそのビートに貫かれ、上の空になっていた意識が現実へと引き戻された。


「ちーちゃん、今日は一段と激しいねぇ」


「ん。まーね」


 私の漫然とした感想に、クールな相槌を返すちーちゃん。エレキギターを肩にかけ、指先でピックを握っていた。屋上のコンクリに佇むちーちゃんの周囲には、どこか爽やかで、でも熱くて、それ故に私とは一線を画した何かが、涼風のように吹き抜けているように思えてならなかった。


「ここでわだかまった感情っていうのはね、定期的に排出してやらないといけないの」


 ちーちゃんが、コンコン、とピックで心臓のあたりをノックする。


「溜まった膿を押し出すようなものかな。定期的に発散させてやらないと、心が風船みたいにパンパンに膨らんで、音を立てて破裂しちゃうから」


 詩的な比喩表現だった。私とちーちゃん以外でこんな骨董品を使ってるのは、精々、古典の教科書くらいだろう。


 ちなみに私は、ちーちゃんの影響だ。言うまでもないことだけど。


「でも、なんでギターなの? 音楽なんて、AIがいくらでも作り出してくれるよね?」


 私からの素朴な質問に、ちーちゃんはムッと眉をひそめた。


「違う。こういうのは、人間がやるから意味があるの。確かにAIにも優れた音楽は作れる。というか、技量だけで言えば私なんかよりよっぽど上手。でも、そこには意味がないの」


「はぁ」


 童顔でちっちゃいくせして、ちーちゃんは昔から哲学的な話をよく好む。私や、世間一般の人々とは正反対。きっと、根っこの部分で真面目だから、小難しいことを考えるのを面倒臭がったりしないのだろう。


 そういうのって実は結構、尊いことだったんじゃないのかなー、とか思ったり。でも、あくまで思うだけ。実践してみたりはしない。億劫だし。この辺、私が私たる所以だった。


「音楽っていうのは、単に音符を書き連ねただけの情報の塊じゃない。歴史なの。作曲者や演奏者が歩んできた人生の歴史。だからこそ意義がある。機械に命令して作らせただけの音楽なんて、ただの商品でしかないよ。それは芸術じゃない。芸術作品を生み出せるのは、いつの時代も人間だけなの。だからきっと、私がここで自分の音楽を奏でていることにも意味がある」


「ふーん」


 言っていることはよく理解できないけれど、ちーちゃんが何か、自分にとって大切な事柄を口にしているというのはわかる。ポリシーとか信条とか、そういう言葉で形容されるような何かを。


 私には馴染みのない異物でしかなくとも、ちーちゃんが大切にしているのなら、それはやっぱり、私も大事にするべきなのだろう。私は、うんうん、と大仰に首を縦に振る。


「ま、あくまで私にとっては、だけどね。社会的価値を問われたら、黙り込むしかないよ」


「あ、それなら大丈夫だよ」


 自嘲気味に口角を吊り上げていたちーちゃんが、微かに目を丸くする。


「だって私は、ちーちゃんのギター、好きだから」


 にへらー、と。口元が緩んでいくのを意識する。


 正確には、ギターと言うよりギターを弾いているときのちーちゃんが好きなのだけど、まあ似たようなものだろう。


 ちーちゃんは一瞬、面食らったかのように口を半開きにしていたが、すぐに穏やかな表情へと相転移した。呆れるような、苦笑するかのような顔つき。軽く細めた両目から、どこか柔らかな眼差しを私へと向けていた。


「……ありがと。私、アヤのそういうとこ、割と救われてる」


「いやぁ、それほどでも」


 えへへ、と右手で後頭部を掻く。


 ちーちゃんが気を取り直すかのように表情筋を引き締めて、唇をキュッと真一文字に結んだ。


 ピックで弦を弾くと、繋いだミニアンプが増幅させた音色を返す。日頃耳にする調べとは比べ物にならないほど鋭いサウンドが、炎天下の屋上に響く。一つ一つの音は刃物のような切れ味なのに、不思議とその全ては滑らかに繋がれて、一つの音楽を紡ぎ出す。


 いつもどおり塔屋の影に座り込みながら、ちーちゃんの奏でるギターサウンドに聞き入る。


 そのまま、ぼんやりと考える。果たして、全世界で生のギター演奏を聞いたことのある人間はどのくらいいるのかな、と。もしかしたら、私だけなのかも知れない。冗談じゃなく、割と真面目に。


 ちーちゃんは小さい頃からおませさんというか、達観してるというか、私を始めとする普通の人々とは世界を見る視点が異なっているかのような、一風変わった空気を身に纏っていた。


 小学生の時分から、紙の本なんていう何世紀も前の遺物に目を通したり、コロニー法や世界政府に疑問符を突きつけるような言動をしたり。頻繁にレールから外れた行動を取っては、周囲から奇異の目線で見られていた。


 中学になってギターを初めてからは、取り憑かれたように傾倒していった。オークションで投げ売りされていたのを落札したらしい。


 人類にとって音楽がただ消化するだけのものになったのは、そう最近の話じゃない。ギターを学ぼうにも、教材を探すのさえ一苦労だった。私もちーちゃんを手伝って、役所の保管庫を一ヶ月くらい漁ったりした。そうしてどうにか手に入れたボロボロの教本と、ネットの大海に埋もれていた何世紀も昔の演奏動画を参考に、ちーちゃんはギターの弾き方を学んでいった。練習は今日まで一日も休むことなく継続されて、結果、ギターに興味なんか一切ない私でさえ軽く感心してしまうまでに、ちーちゃんの技量は研鑽された。


 その熱意に、改めて驚かされる。ほげー、と大口を開けてしまいそうになる。


 誰に頼まれたわけでも必要性があるわけでもないのに、ここまでの時間と労力を何かに費やせる人間なんて、今の時代、ちーちゃん以外にはいないと思う。勿論、趣味という概念が完全に消え失せたわけではない。けど流行るのは何から何まで、努力を要さず、頭も使わず、短時間でインスタントにこなせる味気ないものだけだった。


 具体的には、世話をする必要のない、それどころかレイアウトさえAIが勝手に選んでくれるバーチャルアクアテラリウムとか、バーチャル園芸とかだ。苦労してやり方を覚えなきゃいけないギターなんて、話題にさえ上らない。私なんか、ちーちゃんから話を聞くまでエレキギターという楽器の存在自体を知らなかったくらいだ。


 皮肉なものだ。持ち時間そのものは昔とは比べ物にならないほど増えたのに、何かをしようという気力や活力は、反比例するみたいに減衰してしまっているなんて。


 器が大きくなったところで、内容物自体は増えない。ただ、濃度が薄くなるだけ。


 きっと、そういうものなのだろう。


 それにしても、そんな性格のちーちゃんと、こんな性格の私がよろしくやっているというのも、考えてみれば奇妙な話だ。ちーちゃんは物事をよく考えて、真剣に向き合って、毎日を誠実に生きている。でも私は何から何まで適当で、在り方は考えるまでもなく真逆だ。


 こんなんでよくやっていけるなぁ、と苦笑してしまいそうになる。


 でも、ある意味では当然なのかも知れない。極端に前時代的なちーちゃんを受け止めきれるのは同類か、さもなくばとんでもないくらいにアバウトない人間だけだ。即ち、私だ。


 誰かにとっての特別であるというのは、まあ、悪い気はしなかった。


 そのとき、ちーちゃんが唐突に演奏の手を止めた。


 私の方にズカズカと歩み寄ってきて、ギターを立て掛けてから隣に腰を下ろす。どうやら、休憩するらしい。首筋を伝う汗に汚らしいものはなく、それどころかむしろ、奇妙な清々しささえ感じた。飲め、と言われたらごくごく飲めるくらいだ。……や、別に飲まないけどね。


「いやー、暑いねぇ」


 黙りこくっているのも何なので、世間話を振ってみた。


 眩い太陽はさっきよりも高度を上げていて、大量の熱を持った電磁波をこれでもかというくらい降り注がせてくる。日陰であっても、その脅威から完全に逃れることは出来ない。吹き付けてくる温風はぬめっとした感触で、決して気持ちのいいものではなかった。


 ちーちゃんが、ハッとしたように目を瞠る。申し訳無さそうな面持ちになって、焦ったように口を開いた。


「あ、ごめん、暑いのに付き合わせちゃって……! 先に帰ってもらってもいいから……!」


「んー? 別に大丈夫だよ? 終わるまで待ってる」


 帰ったところで、他にすることがあるわけでもないし。青春の汗を流すちーちゃんを観察している方が、私的には有意義だ。というかそれが、私にとっての平常だった。典型的なこの時代の人間である私は、ルーティンから外れたことはあまりしたいと思えない。


「でも……、本当にいいの? 今日、結構暑いけど」


 ちーちゃんはなおも不安げだ。少しだけ眉を曇らせている。


 私なら、わーありがとー、で終わっているところなのだけど、そうならないのがちーちゃんだった。良くも悪くも、色々なことを考えてしまっているのだろう。言葉の裏に潜む真意とか、表情の奥に隠された本心とか。それはまあ、面倒で複雑なことをあれこれと。


「ん、いいよ。ずっとそうして来たじゃん」


 だから私は特に深いことを考えないで、にこりと笑う。


「そ、そう? なら、嬉しいけど……」


 ちーちゃんの顔から、憂愁が少しだけ払われた。視線を正面に戻して、はにかむように唇をもごもごさせている。


「だけど、アヤってさ。なんで、私なんかに付き合ってくれてるの?」


 ちーちゃんが両脚を抱きかかえて体育座りする。コツ、コツ、とぶつけ合っているつま先を頑なに捉えたまま、その目線は動かない。


「なんで、と言われましても」


 答えに窮する。強いて言うなら、腐れ縁だろうか。


 私とちーちゃんの馴れ初めは、小学五年生の六月まで遡る。ちーちゃんは、この頃から相変わらず珍しい感性をしていらっしゃったので、当然、私含めた同級生とは馴染めてなかった。要するに、浮いていた。


 でも先生は例によって例のごとく適当なので、にこやかな顔で「あらあらまあまあ」とか言うだけで、特段、対策を講じようともしなかった。


 その日も、社会科見学の班決めで誰ともグループになれずにいるちーちゃんのことを、「あらあらまあまあ」と微笑みながら見つめているだけだった。


「――私、行かないので。ただ漫然と、死んだように、機械的に日々を過ごしているだけの大人から、学ぶようなことはありません」


 ちーちゃんはそんな捨て台詞を口にしながら、悠然と席を立った。


 感情的に口に出されたわけではなくて、淡々と、平坦なトーンで放たれた言葉だった。


 勝手に教室を出ていくちーちゃんのことを見送りながら、「あらあらまあまあ」先生はなおもにこにこしていた。クラスメイトたちは、なにあれー、とか、変なのー、とか。脳内に浮かんだ感想をろくにフィルタリングすることもなく、口先からだだ漏れにしている。


 私は人一倍ぼーっとした性格なので、出ていったちーちゃんのことなど気にも留めていなかった。代わりと言っては何だが、おしっこ行きたいなー、と考えていた。先程から尿意を催していたのだ。我慢するのもどうかと思うので、「せんせートイレー」とだけ口にして、ふらふらと教室を後にした。「あらあらまあまあ」聞き慣れた声を背中で受けた。


 そうして用を足した後、私はふと、途中にある空き教室に目をやった。


 ちーちゃんが、そこにいた。


 ちーちゃんは、泣いていた。


 私は立ち止まり、んー、とちょっとだけ思案した。でも考えるのが面倒くさくなったので、がらりと扉を開いた。理由はないけど、そうした方が良いような気がしたのだ。


 ちーちゃんがバッと顔をこちらに向ける。急いで目元を拭うと、切れ長の目をキッと尖らせてきた。なんだか、威嚇する子猫みたいに見えた。


「……何?」


「いや、別に。何でもないけど」


 そうとしか答えようがなかった。慰めてあげようとか、班に誘ってあげようとか、そんなことを考えて足を踏み入れたわけではないから。


 ただ、一人にしておくのはなんか違うな、と。そんな気がしただけで。


 よっこらしょ。私は床に腰を下ろして、壁に背中と体重を預けた。


 そのまま、ぼけっとちーちゃんのことを眺めていると、ちーちゃんは当惑するかのように、或いは逡巡するように、困ったような表情で顔を俯けた。


 寂しいのかな。


 なんとなく、そう思った。


「こっち、来る?」


 ちーちゃんが顔を上げる。やや間が合った後、ちーちゃんは私の隣にストン、と腰を下ろした。体育座りしながら膝に目頭を押し当てて、すん、すん、と。時折、嗚咽のような声を漏らしていた。私は声をかけることも頭を撫でることもなく、ただひたすら、そこにいた。


「……あなた、名前は?」


 ちーちゃんが、顔を伏せたままくぐもった声で訊いてくる。


「アヤ」


「アヤ、ね。……覚えた。絶対に、忘れない」


 感謝の念で忘れないのか、それとも怨恨で忘れないのか。どっちなんだろうなぁ、と疑問に思う。けど、氷解するのはすぐだった。


「その……、ありが、とう」


 言い慣れていないこと丸出しの、あまりにも辿々しい口振りだった。


 それがおかしくて、私はちょっとだけ吹き出してしまう。


 すると、ちーちゃんはようやく顔を上げ、不本意だと言わんばかりに「ちょっと……」と軽く顔をしかめてみせた。


 それから、つられたように破顔して、笑った。


 私はそのとき初めて、ちーちゃんの笑顔を目の当たりにした。


 可愛らしくて屈託のない、意外と子供っぽい笑みだった。


 それが、私とちーちゃんとの馴れ初めだった。


「まぁ、なんだっていいじゃないですか」


 言って、私は誤魔化すような微笑を浮かべる。


「ちーちゃん、私しか友達いないんだからさ。理由なんか、どうだって」


「他に友達いないのはアヤもでしょ」


 ギロ、と軽く睨まれた。そのとおりだった。いやぁ、と曖昧に笑ってみせる。


「けど、丁度いいじゃん。ちーちゃんには私がいるし、私にはちーちゃんがいるんだから。はぐれ者同士、仲良く一緒にいませんかと」


 言いながら、私は空を見上げた。突き抜けるような、色濃い青。ゆっくりと流れていく雲塊とのコントラストが綺麗だった。


 が、しばらくしても、ちーちゃんからの反応はなかった。


「ちーちゃん?」


 怪訝に思って横を見る。


 ちーちゃんの顔が、すぐそこにあった。鼻と鼻とがくっつきそうなほどの至近距離。両目の黒色の深さとか、くっきりとしたまつ毛の長さとか、毛穴一つない乳白色のほっぺたとか、スッと流れるような細い眉とか、採れたての桃みたいに瑞々しい唇とか。


 そういった、ちーちゃんの顔を形成する何もかもが、容量の少ない私の脳みその中を満たしていって、圧倒された。


「……本当?」


 ちーちゃんが訊いてくる。その視線は貫くように真っ直ぐで、私は身じろぎ一つ出来ない。


「……アヤは、本当の本当に私と一緒にいてくれる? 一人で、勝手にどこかへ行ったりしない? 私のこと……、置いていかない?」


 ちーちゃんの黒い瞳が、漣が立つかのように揺らめく。


 私は一度、呼吸を止めた。黒曜石のような一対の真円の、その奥底を覗き込む。


「うん。いいよ」


 気づけば、自然と口からこぼれでていた。


 あのときと、同じだ。何らかの意図があったわけではなくて、物と物とが引き合うような、水が上から下へと流れるような、ごく自然な成行きで発せられた同意の言葉。


 ちーちゃんが、ゴクリと唾を飲み込んだ。それから、目を瞑った。


「――アヤ」


 なに、と答える暇もなかった。


 私の唇が、ちーちゃんの唇で塞がれた。


 それは本当に唐突で、あまりにも唐突で、呆気に取られた私は視界一杯に広がるちーちゃんの顔を凝視することしか出来ない。


 鼻先に触れる前髪がくすぐったい。頬にかかる息が温かい。押し付けられた桜色の唇が、柔らかい。まるで私のすべての感覚が、ちーちゃんのことを捉えるためだけに存在しているかのように、意識がちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんと、ちーちゃんで覆い尽くされる。


 どうして、なんて考えられるだけの理性はとっくのとうに失せていた。ただ無力に、口先から伝播してくるちーちゃんの体温を受け取り続けることしか出来なかった。


 ややあって、ちーちゃんが唇を離した。


 ゆっくりと、丁寧に、舌を入れていたわけでもないのに、糸を引く透明な唾液を幻視してしまいそうなほどのスローモーションで、くっついていた唇が引き剥がされた。


 お互いに、無言のまま見つめ合う。段々と現状を認識できるだけの冷静さが息を吹き返してきて、うわ、と時間差で衝撃を受ける。


「あ、あの……、ちーちゃん?」


 えと。これは一体、どーいうことなんでしょうか。


 流石の私もこればっかりは華麗にスルーすることも出来なくて、つい説明を求めてしまう。


 ちーちゃんは気恥ずかしそうに目を伏せて、しばらく押し黙ったままでいた。


「証、だから」


 吐息混じりの声で、ボソリと呟くちーちゃん。ほっぺたは、沈みかけの太陽みたいに鮮やかな茜色。かくいう私の両頬も、すごい熱を持っていた。バラ肉乗せたらじゅーじゅー焼けそう。


「今のは、証なの。私とアヤが、同じ場所にいるってことの。……別に、変な意味合いはないから。キスくらい、大昔のイタリア人とかフランス人とかは挨拶代わりにやってたらしいし。だから、その……、私、アヤとキスしたい。確かめたいの。私達が、同じ場所にいるってことを」


「う、うん。別に、いいけど……」


 キス。知識としては知っていたけれど、実際に体感したのは初めてだった。つまり、これが私のファーストキス。それも、女の子との。


 私でよかった、と心から思った。もし私が私じゃなくて、ちーちゃんみたいに小難しいことを考える人間だったのなら、おう、と驚いて赤面するくらいでは済まなかったと思うから。


 唇に張り付いたちーちゃんの体温は、シャワーを浴びても、ご飯を食べても、歯を磨いても、床に就いても、夢に落ちても、夢から覚めても、制服に着替えても、何をやっても剥がれ落ちてはくれなかった。


 指先を軽く口に当てると瞬時にあのときの感覚がリフレインして、頬がじわじわと紅潮していくのがわかった。翌日、また新たなキスで上書きされるまで、その熱は唇の奥深くに延々と残留し続けていた。


 以来、私とちーちゃんは毎日、口づけを交わす関係になった。


 キスをするのは、決まってちーちゃんからだった。練習前か、休憩中か、練習終わり。いずれかのタイミングで一日に決まって一度、ちーちゃんは私に唇を近づけてきた。私もその都度、ちーちゃんの唇に自分の唇を寄せて、重ね合わせた。


 拒否しようとは思わなかった。別段、ちーちゃんとのキスが好きだったわけではないけれど、かといって嫌だと感じるようなことは一度もなかった。しょうがないなぁ、と。接吻をせがむちーちゃんのことを、無抵抗に受け入れるだけだった。


 一方、ちーちゃんは日に日に私とのキスに熱を入れてきた。唇を押し付ける強さも触れ合わせる時間の長さも、加速度的に上昇していった。


 そのうち、ただのキスでは飽き足らず、舌まで入れてくるようになった。その行為には何故だか、いやらしさのようなものは皆無だった。


 どちらかというと、人混みの中ではぐれまいと保護者の袖をぎゅうと握りしめる子供のような、砂場に作った城の崩壊を必死で食い止めようとする童子のような、そんな必死さや幼さがあるように思えてならなかった。そもそもちーちゃん、下手だったし。


 もしかするとちーちゃんは、怖かったのかも知れない。


 私は変わってくのに、ちーちゃんは変わらなくって。


 私は変わらないのに、ちーちゃんは変わっていって。


 そんな、すれ違い続けることしか出来ない絶望的なまでの現実が、ちーちゃんからしてみれば何よりも恐ろしかったのだと思う。

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