ツインクロック・ロックンロール
赤崎弥生
第1話 私だって乙女なのですよ?
この教室は、チャイムの音がよく響く。
コの字型をした校舎のちょうど角っこに位置しているから、他の教室や廊下からの音が重なって聞こえるのだ。それはもう、とんでもないくらいに間の抜けた輪唱だった。きぅぃぃん、こぅぉぉん、と震えるように重なり合って、どこからが始まりでどこまでが終わりなのかも判然としない。ご飯を食べた後のうたた寝するかしないかの瀬戸際みたいな、そんな曖昧さがあった。
チャイムで時間を区切るのは生活にメリハリを付けるためなのに、そのチャイム自体がもやもやっとした響きをしていては、誰だって気の引き締めようがない。先生なんか授業が終わったのにもかかわらず、虚空をまじまじと見つめる猫みたいにぽかーんとした面持ちで、教壇の上に突っ立ったままでいた。四百代にして既に前髪の後退が始まっており、おでこが蛍光灯の白色光を反射して瞬いている。
けど、大人たちがぼけっとしてるのは日常茶飯事、というかもはや日常そのものなので、生徒たちは誰一人として気に留める様子はない。皆、思い思いのタイミングで腰を上げては、ふらふらっとした足取りで友達のところへつるみに行ったりしている。
先生がようやく、教壇から降りる。教室を出ようとしたところで出席簿を置きっぱなしにしてしまったことに気づいたらしく、たらたらと教壇の上に逆戻りした。どこかにぶつけたのか角が剥げ、水の中にでも落としたみたいによれよれの出席簿には、奇妙な哀愁さえ漂っているような。もっと丁寧に扱ってあげればいいのに。出席簿がかわいそうだ。ぼーっとしてるのはいいけれど、それに他人というか……、他物? まで巻き込んでしまうのはどうかと思う。
きっと、大人たちがこんなだからチャイムも空気を読んでるんだろうなぁ、と。漠然とした感想を思い浮かべた。
って、なんだか偉そうなことを語ってしまった気がする。ちょっと反省。私だって先生を批判できるほど、しっかりしてるわけじゃないのに。
私は昔から人一倍、脳天気というか、マイペースというか、細かいことを気にしない性格だった。大人たちほどではないとはいえ、世間一般の子供と比べたらだいぶ抜けている方だ。
具体的には、靴下を左右別々に履いちゃったりとか、校外学習のバスに乗り遅れたりとか、それはまあ色々とやらかしたことがある。しりとりの初手でリヒテンシュタインと言っちゃったこともあったっけ。あのときは、ちーちゃんに愕然とされたのを覚えてる。
次から次へと呼び起こされていく間抜けエピソードの数々を、懐かしいなぁ、とノスタルジックな気分に浸りながら慈しむ。特に恥じ入ったりはしなかった。この辺、私がアバウトな性格してる所以だと思う。
でも一つ言わせていただけば、私がこんな性情の人間に成長した原因は多分、いや絶対に、遺伝的なものだけじゃない。
過激で極端なのはノーサンキュー。
何事もまったり、穏やかに。中途半端に、曖昧に。
今は、そういう時流なのだった。
世間がこんな雰囲気になりだしたのがいつ頃からなのかと言うと、ええと……、二から五を引いて三で、一繰り下がるから……、いっか。およそ千年前で。大体合ってれば問題なし。
しかし、いくらぼけっとした性格だとはいえ、高一にもなってろくに引き算できないのは大丈夫なんだろうか。我が事ながら、ちょっと不安になってきた。やっぱり手術の影響が出ているのかな、とも思ったけれど、よくよく考えてみれば以前からできてないような。
益体もない思考をだらだらと垂れ流し続けていたら、なんだか眠くなってきた。ふわぁ、と巨大なあくびを一発。このまま机に突っ伏して、一眠りしたくなってきたところで。
「よだれ、出てるよ」
聞き慣れた声が耳に飛び込む。正面を向くと、目の前にちーちゃんが立っていた。
ポケットに手を突っ込みながら、キリッとした目で私のことを見下ろしているちーちゃん。サッパリと肩上でカットされたショートヘアは爽やかで、醸す雰囲気によく似合っていた。背がちっちゃいのにも関わらず、黒くて大きな縦長のケースを重たそうに背負っている。童顔なのも相まって、お手伝いで荷物を持っている子供みたいな趣があった。
「あぶな」
袖で口元を拭おうとすると、「ストップ」ちーちゃんに腕を掴まれた。
「染みになるでしょ。まったく」
片手で器用にポケットからティッシュを取り出して、手際よく私の口の端を拭いてくる。
「これでよし」
平然と言いながら、教室後方のゴミ箱に丸めたティッシュをホールインワンするちーちゃん。
対する私は、頬に朱が差していくのを自覚する。いくらなんでも、これは流石に恥ずかしい。幼稚園児じゃあるまいし。
すると、そんな私の反応を見て、ちーちゃんが驚いたように目を見開いた。
「意外。アヤにも羞恥心ってあったんだ」
あんまりな物言いだった。私は、わざとらしく眉根を寄せてみせる。
「あのねぇ、ちーちゃん。私だって年頃の乙女なのですよ?」
少なくとも、同級生からお口ふきふきされて何も思わないほど、恥知らずではないのだった。
「ふん。こんな時代じゃ、乙女も何もないでしょ。恋を知らない少女なんて、乙女じゃなくてただの女子だよ」
ちーちゃん、小さく肩を竦めながら厳しい一言。相変わらず、ひねた考えをしていらっしゃる。
人工受精による計画繁殖が行われる今となっては、恋なんて一部の好事家の暇つぶしくらいの意味しかない。それを未だに信奉しているなんて、ちーちゃんも物好きだ。
「じゃ、そんなこと言うちーちゃんは乙女なんですか?」
軽い気持ちで訊いてみた。何故か、ちーちゃんは固まった。え、と返事ともつかない声を短く発して、つつー、と視線を脇へと逃がす。
あれ。この反応は、もしかするともしかする感じなのでは?
「なるほどなるほど」
うむうむ、と首肯してみせる。
うぉっほん、とちーちゃんは大袈裟に咳払いした。言い訳するかのように、「なわけないでしょ」とちょっとだけ早口で言い放つ。うわ、嘘くさい。
「だってさ、中学まではまだマシだったけど、高校入ってからは皆、本当に似たような顔するようになったでしょ? 授業中とかに教室見回してみると、どいつもこいつも同じ表情しかしてないの。そんな没個性的な奴ら、好きになんかなるわけないじゃん」
誤魔化した感満載の口振りだったけど、嘘を吐いている様子はない。
きっと、これはこれで本心ではあるのだろう。
「あれ。でもその理屈だと……」
声に出す前に一度立ち止まって、えーと、と頭の中で吟味してみる。こういう作業は基本的に億劫なのだけど、大切なことなのでちゃんと頭を回転させる。
人間、大事だと思うことさえ疎かにするようになったら、お終いだ。
特に私なんかは、そんなふうに感じる物事が極端に少ないから、この手の感性はぞんざいにしたくなかった。
「ちーちゃん、もしかして私のこと嫌い?」
「え、なに急に⁉ なわけないじゃん」
ちーちゃんが焦ったように、ずずいと上半身を乗り出してくる。凛然とした切れ長の目が、カッと大きく縦に開かれた。
「だって、私も他の皆と同じ顔してるよね? 多分だけど」
ちーちゃんがハッとしたように、あ、と小さく声をこぼした。でもすぐにかぶりを振って、私の推測を真正面から否定してくる。
「ち、違う! そうじゃなくて、その……、順番が逆なの。アヤが皆と同じ顔してるんじゃなくて、皆がアヤと同じ顔してるように見えて。それが気に入らないの。他の奴らにアヤの表情、真似されてるみたいで。そういうの、すっごいムカつく」
ちーちゃんは顔を俯けながら、どこか苦々しげに言う。今のやり取りを小耳に挟んだのか、近所の同級生の何人かがちーちゃんに悪意のこもった眼差しを浴びせてきた。
なんだかなぁ、と思ってしまう。
ちーちゃんもちーちゃんだけど、周りの人も周りの人だ。この程度のことで気分を害するのは、如何なものか。さっきの先生みたいに弾力のある、水のように柔軟な精神をしていればいいのに。
けど、そうなるのも時間の問題なのだろう。
あと二、三年も経てばしぶとく繊細な感性を残し続けている同級生も、ぽわーんとした性格に様変わりしてしまうのだろうから。今の大人たちと同様に、極々自然な生理的現象として。
勿論、私も含めてだけど。
「さーさー、ちーちゃん。それじゃあ行こっか」
このまま教室にいるのもどうかと思うので、よいしょ、と緩慢な動作で腰を上げる。ちんたらとした足取りで歩き始めると、「あ、うん」と返事をしながら、ちーちゃんも大人しく私についてくる。
私が前で、ちーちゃんが後ろ。二人で歩くときは何故か、いつもこうだった。
改めて考えると、不思議なものだ。別々に歩いているときはちーちゃんの方がよっぽど足が早くて、スタタッ! と前のめりになりながら早歩きしてることが多いのに。反対に私はいつも、風に流されるたんぽぽの綿毛みたいにふわふわと、蛇行しながら歩みを進めている。そのくせして二人で歩くときにはいつも、のろまの私が先導を果たすのだ。
もしかすると、ちーちゃんは私の後ろを歩きたいのかも知れない。そうでもしなきゃ、私と同じ場所にはいられないから。同じペースを保てないから。前を歩けば、私がちゃんとついてきてくれるのか、わからないから。
からからから、と。掃除の行き届いていないボロい引き戸が、乾いた音を響かせる。
「あ」
同時に気づく。そういえば私、荷物持ってきてない。それどころか、教科書もノートも机の上に広げっぱなし。数秒ほど迷ったけれど、「アヤ?」ちーちゃんが怪訝そうな声を出してきた。
……んー、まあ、別にいいかな。私は、開き直ることにした。
「なんでもない」
本当に適当な性格だなぁ、と。ついつい、自分で自分を笑ってしまいそうになる私なのだった。
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