第2話 隙間に踞るモノ

 あれは昨年の冬のことだ。

 夕暮れで、ひどく寒かった。7時くらいじゃなかったかな。夕暮れったって、真冬だから辺りは暗い。ほぼ夜だよ。

 駅前の通りを、家に向かって歩いていた。電車を降りた時は人がいっぱいいるんだが、大抵は踏切のあっち側にいっちまう。一緒に歩いてた人も、曲がり角のたんびに、一人減り、二人減り、気づいた時は自分一人だった。

 とはいえ、通い慣れた道だし、第一に餓鬼じゃあないんだ、怖いなんてこともない。

 街灯がしん、と灯った薄暗い交差点も、車一台通る気配すらない。律儀に赤信号で立ち止まり、十字路の交差点の向かい側、右の角に建つ眼科を見ていた。入口はこちらを向いているから、硝子の扉から中が見える。まだ明かりが点いていて、それが暗い道を照らしていた。最終の患者が待合室に残ってるんだ。

 その眼科の診察室の灯りが、横断歩道をまっすぐ渡った暗い道に沿った、医院の外の植込みを、ぼんやり浮かび上がらせている。

 なんの気なしに、そこを見遣って、ぎょっとしたね。

 植込みのすぐ近くに、電柱が立っている。その電信柱と植込みのほんの狭い隙間に、子供がひとり、座っていた。電柱にぴったり背をつけて、20センチかそこらの隙間にあぐらをかいてるんだ。身体の小ささとむっちりとした特有の体型から、乳飲み子だと思った。着ているのはベージュの薄い布のズボンと柔らかそうな生成りの長袖、真冬の寒い夜だってのに裸足で、上着もない。

 髪は、耳の上で揃えてあるようにも思えるが、おかしなことに、顔が見えない。信号待ちをしている私からは、子供の横向きの姿が見えているのに、つんとつむんだ唇から上が、どうしても覗けないのだ。低く頭を垂れているようにも思えるが、定かではない。全体的に清潔で、小綺麗な人形みたいに整った子だった。

 親はどうした。と周りを見たが、大人どころか人ひとり歩いていない。迷子の割には、子供は泣いている素振りもなく、それ以上に、乳飲み児があんなにしゃんと背筋を伸ばして微動だにせず胡座をかいて居られるものか? 座禅でも組むような姿勢で、植込みと電信柱に挟まれた僅かな隙間にみっちりと。あんな狭い場所に、どうやって入ったのだ。

 信号が青に変わり、私は進む。駅前に、交番がある。迷子ならば届けなくてはならない。吹き抜ける風にコートの襟を立ててそう思った。

 横断歩道を渡ると、眼科の待合室が近づく。中にいるのは、中学生がひとり。手持ち無沙汰に椅子に腰掛けているが、連れてきた幼児を外に放置しているようには見えない。

 そもそも、その眼科は、いつも小さな子を連れた患者がくれば、受付の事務員さんが必ず目を配っている。目の前が交差点なのだ、当然だろう。だとすると、保護者が眼科にいるはずがない。

 眼科の玄関を通り過ぎ、暗い道が広がる。電柱のある植込みに差し掛かり、私は躊躇った。子供は眠っている訳でもなく、ただ布に包まれた柔らかそうな腹を静かに上下させている。ふくよかな顎はぴくりとも動かず、やはり口元から上がわからない。

 がちゃりと響いた音に振り向けば、植込みと逆向かいの家から、幼い孫を連れた老人が出てきた。目が合うと、会釈とも言えぬ仄かな挨拶の気配を送ってくる。私の視線を追って電信柱をちらりと目をやったが、特に反応もなく、二人並んで仲良く駅の方角へ歩いて行った。

 おや、と私は振り返る。駅から歩いてきた人も、行く先の方からやってきた自転車も、電柱の根元に座る幼児には気づかない。

 散歩中の小型の犬が電柱に近寄りかけ、突然立ち止まり、それから飼い主を見上げて軽快に過ぎて行った。

 何故、誰も子供に気がつかないのだろう。

 ざわざわと喧騒が聞こえて、私はようやく、この数分間が奇妙な程に静かだったことを知った。

 緩めていた脚を早め、電信柱を通り過ぎる。数歩先でゆるゆると振り向いたが、そこだけがやけに暗い薄闇が蟠る隙間に、幼子は俯いたまま揺るがず、ただ静かに呼吸をしていた。

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